東京機関区のEF65P形運用は東京下関間のブルートレインさくら、みずほ、はやぶさ、富士、あさかぜの5本と、新大阪下関間のあかつきのけん引で、東海道山陽本線のブルートレインけん引を一手に引き受けました。さらにブルートレインおよびその回送列車以外の列車は一切けん引せず、完全にブルートレイン専用機として運用されています。こうしてこの後13年続くブルートレイン専用機時代がスタートしていました。
1966年1月に第5ロットとして527~531の5両のP形が製造され、東京機関区に配置されています。なお間の番号が飛んでいるところはF形として製造された車両です。第5ロットからはバーニア制御器の設計変更が行われて、よりいっそう安定して走行できるようになりました。
さて1968年10月改正にて、20系客車の110km/h運転が行われることになり、EF65P形はその性能を遺憾なく発揮することになりました。東海道山陽本線のブルートレインも増発され、東京発着のあさかぜと新大阪発着のあかつきが2往復となり、さらに彗星および日本海が増発されたため、8両分の運用が増加しました。この時点で、普通ならP形の増備となるわけですが、車両配置の関係で一般型から改造されることになりました。
こうして前年に新製されたばかりで、稲沢機関区に配置されていたEF65一般型の77~84号機に白羽の矢が立ちました。これら8両が1968年10月までに、EF65-535~542として改造されP形の仲間入りを果たしました。改造内容は一般型とP形の差で、塗装ももちろん特急色となっています。こうして東京機関区のEF65P形は25両体勢(19両使用)となりました。
ところで、この改正で登場した日本海の運用は、あかつき彗星の間合い運用ですが、大阪米原間でわずか1時間半ほどのけん引で、しかも米原駅での11時間に及ぶ停泊が存在し、使用車両が1両増えるという間合い運用とは言い難い運用でした。大阪米原間の当時の最高速度は95km/hでしたので、特にP形が必要なわけではなかったのですが、東海道山陽本線のブルートレインはすべてP形がけん引するという不問律でもあったのかと思えます。個人的にはこの時、EF58形にP形改造を行わなかったのはなぜだろうかと思えます。
1970年10月改正で、あさかぜ(東京下関間の運転)が増発され、車両数が不足することから、彗星の運用から撤退し、下関運転所のEF65PF形がけん引することになりました。
さらに、1972年3月改正で急行瀬戸出雲の特急格上げで、東京機関区のP形はこれらの列車のけん引することになり、運用数の問題から日本海、あかつきからも撤退しています。この改正から東京発着のブルートレインに14系客車が進出しています。14系以降の車両はけん引機に特別な対応がなされていなくても110km/h運転が可能となりEF65P形に限らずけん引できますが、P形が引き続いてけん引しています。
1972年10月の改正では、501~504の4両が下関運転所に転属になりました。これは集中台検の振替機で、東京機関区のEF65は下関にブルートレインで行き、そこで台検を受け、その間下関運転所のP形がブルートレインのけん引を行うものです。
1975年に東京発着のブルートレインとしていなば・紀伊が増発されますが、こちらはEF58がけん引しています。
さて、こうして13年に渡り東京下関間をブルートレインをけん引して来たEF65P形ですが、東京下関を一回往復するだけで2253kmとなり、月間の走行距離は2万5000kmを越え、3万kmに達する車両もあったそうです。そのため各機関車の累積走行距離は昭和50年代に入ると300万kmを突破し、機器類に老朽化が見られるようになりました。
そのため、1978年7月からEF65PF形を東京機関区に投入して、順次P形を置き換えていきました。こうしてP形の13年に渡るブルートレイン専用機は終わりました。
参考文献
鉄道ファン 1990年4月号 近代形電機 転身の記録 2
鉄道ファン 1993年10月号 ヨン・サン・トウ25周年記念特集 JNR/JR25年の大アルバム
鉄道ファン 1999年4月号 特集:新形直流電気機関車 EF65形ブルトレ伝説
直流電気機関車 EF65 イカロス出版刊
鉄路100万キロ走行記 宇田賢吉著 グランプリ出版
撮影 2009年5月23日 大宮総合車両センター
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