雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

時が経てば…

2011-09-24 | 日記

    今日は秋晴れの上天気。こんな日は、妻に「布団を干そうか」と云えば、満面の笑みを見せて喜んだものだった。よく干して、ふかふかになった布団を取り入りると、「お日さんの匂いがする」と、また喜んだ。部屋の掃除をしてやっても、クーラーの中を掃除しても、妻の笑顔がこぼれるので、本当に遣り甲斐があった。そんなこんなを思い出し、朝から主の居なくなった部屋を掃除しながらホロリと涙を落としている自分が無性に恥かしい。誰が見ている訳でもないのに。

 「時が経てば…」そうなのかな? 老いた私にはそうは思えない。時が経って寂しさも悲しみも消え去るのは、自分が死ぬときだろう。今はこの悲しみを、この寂しさを、思い切り楽しもうと思う。妻が最後に作った「パッチワークの掛布団」が、やけに重い。そしてこの作品を、「ミクシーの友達が褒めてくれた」と、喜んでいた妻の笑顔が、やけにいとおしく思い出された。


フェレットを飼ったら?

2011-09-23 | 日記

 娘夫婦がきて薦めてくれた。梅田のペットショップに可愛いのが居たと云うのだ。自分たちの家には、猫が2匹いるので飼えないから、「お父さんが飼って、寂しさが紛れるよ」だと。そんな得体の知れない(私には)ものは、気味が悪い。それでなくても家には手をやいている金魚がいる。餌をやるのを忘れたり、2度続けて与えたり、不規則な食餌で、すっかりメタボ。私としては、この金魚に話しかけたりしないように努力している。

 餌金とか云われて、肉食熱帯魚(たとえばピラニア)の餌用に売っている金魚を5匹買ってきた。次々と3匹が死んで、すごく厚かましいのと、おっとりしたのが残った。それからかなり大きくなっていたが、厚かましい方が死んで、今は一匹だけ、おっとり、ぽっちゃりと長生きしている。

 

 

 


100円ショップ2

2011-09-23 | 日記

 sibuyaさん、コメントをありがとう御座いました。初めてのコメント、とても嬉しいです。どこで言ったらいいのか判らないので、ここでお礼を申し上げます。

 100円ショップで満足できないのは、同じ商品が続けて入荷しないことが多いところ。例えば。プラスティックの文書ケース。私はこれで書類を整理しているが、その形が実に様々。折角整理しているのに、見た目は雑然。見出しのテプラを貼るところも、上下まちまち。文書ケースが揃っていれば少なくとも見た目は整然とするだろうに。

 最近、腰をかがめてフロアを雑巾がけするのが辛くなり、100円ショップでモップを買った。柄とモップで210円だった。実に安い。帰って、柄にモップを取り付けようとしたら、固くてなかなか収まらない。柄の先の溝にプラスティックの留め具でモップの真ん中を押し込むようになっているのだ。力を込めて押し込んだら、留め具がバラバラに折れてしまった。もう一本、柄だけを買ってきて挑戦したが同じだった。柄は来年、朝顔の支柱にでも使おうかと、捨てずにとってある。


100円ショップ

2011-09-21 | 日記

 最近、100円ショップがやたら増えたように思う。ちょっと立ち寄ってみると、これがなかなか楽しい。「これは何に使えるかな」と考えながら品物を選ぶのだが、けっこうハズレが多い。使い物にならないものを買ってきては、よく妻にバカにされたものだ。その中に、よく役に立つものがある。例えば、「ミルクフォーマー」。カプチーノを作る気は無いが、毎朝のんでいる青汁の撹拌にもってこいなのだ。新品の電池を入れると、回転が速すぎて中身が飛び出してしまうが、デジカメや血圧計で使い終えた電池を使うと丁度良い。青汁のほか、酢の物を作るときに、酢と砂糖、塩、味噌などを入れて撹拌すると、高速で合わせ酢ができてしまう。105円とは思えないほど便利だ。

               


デジタル・フォト・フレーム

2011-09-21 | 日記

 フォトフレームに、花の写真や般若心経の読経の音声などを入れて仏壇に飾っていたら、娘夫婦が来て「ハイテク仏壇だ!」と、大笑いされてしまった。「いいではないか、私の心の中に生きる妻が満足しているのだから」と思ったのだが、やはりばちあたりだったのかな? ばちあたりついでに、もっとばちあたりなことを書こう。般若心経の中に「色即是空」という文言があるが、これは見えているものすべては、即ち「空(くう)」なるものであるという思想。私は、「宗即是空」と置き換えている。

                  


爺の料理

2011-09-20 | 日記

 長年、妻の介護をしていたので、一応口に入るものは作れるのだが、気の利いた料理は作れない。レシピをみて作ろうとしても途中で面倒臭くなってしまう。ひとつは、一般主婦には常識であっても、老いぼれの非常識人には判らないことが多々ある。たとえば、砂糖大匙一杯といっても、粉ものの一杯は、山盛りなのか、擦り切れなのか判らない。「料理番組を見れば判るだろう」と思うかも知れないが、料理番組を思い出してほしい。「大匙一杯」と言いながら、匙で入れる料理人はいない。予め容器に用意しておいたものをポイと放り込む。それを見ているこちとら非常識人には、ものすごくたくさん入れたように見える。まあ、爺向けの料理番組てはないので、文句は言わないけれど。

              


彼岸の入り

2011-09-19 | 日記

 今日から1週間は秋の彼岸。昨日、人並みに仏壇に花を供えようと「花売り場」を覗いてみた。やはり値段が普段の2倍以上に跳ね上がっていた。野菜のように「悪天候」が続き、花の収穫が落ちたから値上げしたのではなく、値上げしても売れるから値上げしたものだろう。世の善良なる信心深い人々は、値段など気にしない。しかし。私は気にした。「こんなに高いのだったら、我が家に咲いている鉢植えの菊の花を供えよう」と、私のケチ心がつぶやいた。

 


幽霊を見た

2011-09-19 | 日記
 我が家のホームドクターである内科の医師が、東北の震災(津波)で亡くなられた人々の検死に携わった時の話をしてくださった。医師は100体ほどのご遺体の検死をされたが、当然のことながら一体たりとも安らかな死顔のご遺体は無かったと言っておられた。もし、幽霊が存在するなら、家族の身を案じた何千という幽霊がこの世に未練をのこし、成仏できずにさまよったことだろう。
 幽霊は、人里離れた寂しい山間の湖とか、日が暮れると殆ど車が通らないトンネルや、人が近寄らなくなった廃屋に出ることが多いらしい。それも、痩身の美女の幽霊が多くて、あまり120キロもあろうかというデブの幽霊は聞いたことがない。もっと聞いたことがないのは、何千何万の集団幽霊だ。

死の世界

2011-09-19 | 日記
 死とはなにか、難しく考えることはない。死は人生の終着である。生まれる以前が、過去に向かって永劫の「無」であったように、死後は未来に向かって永劫の「無」である。だからこそ、私は「死」を安らかな気持ちで受け入れることができる。 「死後の世界」は、生きている者の想像の世界である。想像する人間が絶滅したとき、「死の世界」も消滅してしまう。
 

私たち夫婦にとっての宗教とは

2011-09-18 | 日記
 宗教は、死者のためではなく、残された者の為にあると思う。死者にとっては、もはや意味すらも持たない。仏壇に花を供えるのも、手を合わせるのも、生きている者の死者への慈しみ。浄土でも冥途でもない、妻は私の心の中で確かに生きている。

妻の書置き

2011-09-17 | 日記
 私と妻は無信心である。ふたり亡きあとの希望は一致していた。葬儀は不要。墓はいらない。お骨は夫婦の死をまって、一緒に海に散骨してもらう。妻の書置きにも書かれていた。
 そのほか、たくさんの書置きがあったが、なかなか全部読み切れていない。もう、妻の死から3カ月にもなるが、読めばつらくて涙が止まらなくなる。自分のことながら、女々しいとは思うが・・・。