雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

予行演習

2012-07-09 | 日記
 昨日、スーパーへ買い物に行ったら、特設ワゴンにお供え物の落雁がたくさん並べてあった。 「彼岸でも盆でもないのに何だろう」と、家に帰ってからネットを検索してみた。 別に何もない。 結局買って来た落雁と花を供えて、故人に話しかけた。 「そちらで何か行事があるのか?」「さあ?なにも無いけど… お盆の予行演習かな?」

 ネットで「お供え」を検索したら、どこかのお寺さんか個人か判らないが「お供え」の意味を説いていた。 子供の頃仏壇にお供えをしても故人が食べた形跡がないのを不思議に思っていたが、大人になって解ったそうだ。 お供えは故人にするものではなく、(そのサイトの主は)阿弥陀様への「お供えもの」だそうな。 阿弥陀様に手を合わせ、自分も極楽に導いて下さるように祈るのだとか。 では、故人は「お供え」とは関係ないのだろうか。 ただ阿弥陀様への橋渡しに利用されただけなのだろうか?

 「お供え」は、故人が食べるのではなく、阿弥陀様への「お供物」だと言われても、私は納得できない。 阿弥陀様は、「各お寺や個人の仏壇を巡ってお供えを食べるのか?」「阿弥陀様はギャル曽根かっ!」 阿弥陀様とて、食べた形跡を残さないし、もし齧ったあとがあれば、それは「ねずみ」か「コキブリ」の仕業だ。

 私は、曲がりなりにも仏壇に「お供え」は欠かしたことがない。 それは「こう考える」からだ。 故人は家族や親しい人の心に生きている。 たとえば、私が仏壇に花やお菓子を供えるのは、私自身に供えているのだ。 仏壇の花やお菓子は、仏壇の奥の阿弥陀様や故人の位牌に向かってではなく、私に向かって飾っているのだ。 一方向に奇麗にセットされた仏花を買ってきて、奥に向かって供える人が居るだろうか? 手前から見れば、「しきみ」の葉の裏しか見えないじゃないか。 

 私は、あわよくば、「私も極楽浄土に導いてもらおう」などとは思ってはいない。 私の中に生きる故人と共に「お供え」を私の目で眺めて満足し、それを私が食べることにより、至福のひと時を故人と共有しているのだ。 

 「えーっ! 今お供えをしたと思ったら、もう下げたの?」 
 「うん、長いこと供えておくと、線香臭くなるから」 

 

 

 

最新の画像もっと見る