朝倉辰之進の妹お鈴は、信州は国定一家に匿われて無事であった。親分に礼を言って、「いずれ恩返し来る」と一家に別れを告げて去ろうとしたとき、国定一家の子分が駆け込んできた。
「親分、てえへんです、羽柴一家が縄張りを取り返しに殴り込みをかけてきます」
国定一家は、俄かに騒々しくなったが、勘太郎は振り返りもせずに外へ出た。
「勘太郎、お鈴を頼む」
朝倉は、腰の刀を抑えると、一家に取って返した。今こそ恩義を返す好機だと思ったからである。
勘太郎は、お鈴を促して旅籠に向かった。
「お鈴さん、この旅籠で待っていてください」
「勘太郎さん、行かないでください、あなたは喧嘩に加勢する義理はないではありませんか」
勘太郎は、旅籠賃を前払いすると、国定(くにさだ)一家へとって返そうとしたが、お鈴は兄はともかく、まだ一宿一飯の恩義を受けてはいないこの青年が、喧嘩に加担しようとしているのを心配したのだ。
「いえ、俺らは喧嘩をしに行くのではありません」
「では何故行こうとするのですか?」
「朝倉さまをお護りするためなのです。朝倉さまはお強いですが、相手は多勢です」
「ありがとうございます」
言うが早いか、勘太郎は韋駄天走りで国定一家を目指した。朝倉のことだから、大丈夫とは思うが相手は無法者、卑怯を恥じる意識などない。いかような手で迫っているか知れないのだ。
朝倉は、敵も味方も面識がない。中庭で自分に向かってくる暴漢のドスをただ交わして、やくざの喧嘩にあるまじき峰を返した刀で相手を叩きのめしている。
「止めろ! 止めるのだ」
朝倉は、いつしか喧嘩の仲裁者になっていた。
「朝倉さま、勘太郎助勢に参りました」
「勘太郎、戻れ! お前はこんなくだらない喧嘩に巻き込まれてはならぬ」
朝倉がそう叫んだ瞬間に、襲って来る敵に集中していた神経が散漫になった。隙ができた朝倉の背後からドスを小脇に抱えた男が突進してきた。
「あっ、危ない!」
次の瞬間、勘太郎は朝倉を押し退け、男のドスを横へ弾き飛ばした。男はだらしなく前に倒れ、顔で着地した。
「それ見ろ、危険だから早く戻りなさい」
「危険なのは朝倉さまの方です。こんな加勢はお止めになってください」
「お鈴を護ってくれた義理だ」
「その恩は、俺らが返しましょう」
勘太郎は、どうしたことか、敵も味方も打ちのめしにかかった。忠治こと忠次郎親分が見かねて勘太郎にドスを向けた。
「勘太郎、それはわしに対する意趣返しか」
「いいえ、喧嘩を鎮めて師匠の身をお護りするためです」
「なぜ儂の子分を倒すのだ」
「俺らには、敵も味方もない、片っ端から打ちのめすので、後は親分が止(とど)めを刺すなり、命を助けるなり、勝手にしてください」
朝倉辰之進は、忠治親分に手厚く礼を言って立ち去ろうとした。勘太郎がそれに続いたとき、忠治こと忠次郎親分が止めた。
「勘太郎、ひとつ分かってやって欲しいことがある」
「親父を殺した言い訳か?」
「いや、儂のことではない、浅太郎だ」
「兄ぃがどうかしたか?」
「浅太郎は、お前のお父っつぁんを殺してはいない」
「誰が殺したと言うのだ」
「勘助は、浅太郎の目を盗んで自害したのだ」
それは、勘太郎も薄々勘づいていた。しかし、その自害を見落としたのか、気付いていながら親分への義理のために見過ごしたのかは不明である。
「ふーん」
勘太郎は、何の感慨もない返事をして踵を返し朝倉を追った。
旅籠では、朝倉の妹お鈴が、心配をして待っていた。長い間、別れ別れになっていた兄妹が、思いがけない再会に二人は暫くの間、涙を交わしていた。
「兄上、これからお国元へ帰り、お殿様に詫びを入れましょう」
「お鈴、馬鹿を言うでない、藩に戻れば即切腹を申し受けることになる」
「でも、事情が事情ですから、分かって戴けるかも知れません」
「だめだ、親友と思っていた千崎駿太郎が、お鈴にとった非情な態度を思い出してみなさい」
千崎がとった態度は、お鈴を庇護すれば上司を殺して逃げた極悪人を庇護することになるからであろう。それは、取りも直さず未だに藩は朝倉を極悪人と見ている証拠である。そのような処へのこのこ帰えれば、捕り抑えられて即刻切腹ならまだしも、屈辱な断罪かも知れぬ。
「儂は江戸へ行こうと思う」
江戸には、一時身を置いていた父方の叔父がいる。また、同じ道場へ通った北城一之進という朋友も居る。叔父は南町奉行所の与力の家に婿養子として入り、義父亡き今は跡目を継いでいる。北城一之進は、北町の町方与力である。
「困ったことがあれば訪ねて来い」
それは、若き門下生時代の一之進の口癖であった。
「叔父は厳格な人であるから、上司を殺めて脱藩した儂など敷居を跨がせないだろうが、一之進ならこの落ちぶれ果てた儂の立つ瀬を考えてくれるであろう」
「兄上、宜しいのですか、兄上は千崎さまも親友だと仰っておられましたねぇ」
「今も変わらず千崎は親友だ。だから彼奴の立場も理解できるのだ」
「兄上は、お人がよろしいのですね」
「お前は、千崎に未練はないのか?」
「ございません、寧ろ恨みに思います」
どちらが強がっているのか。或いはどちらも強がって見せているのか、勘太郎には分からない兄妹であった。
翌朝から、三人は江戸へ向けて旅立った。この先、勘太郎には三つの選択肢がある。一つは辰巳一家に戻り、親分の盃を貰いやくざ渡世で生きる道、二つ目は勘太郎を育ててくれた昌明寺へ戻り僧侶に戻る道、三つ目は信州浪人朝倉辰之進と共に江戸へ出て剣の師辰之進の夢に付き合う道である。
三つ目の道は、全くあてにはならない。江戸の与力北城一之進は、果たして朝倉を快く迎えてくれるのだろうか。千崎と同じく、罪を犯して脱藩した朝倉に対して、冷たく門前払いをするかも知れない。
だいたい、若い頃の言葉を信じて頼りにしていること自体、朝倉の甘さを暴露しているように思えるが、まあいいだろう。三つ目がダメなら、二つ目があるさ。二つ目もダメなら、一つ目があるじゃないか。勘太郎も自分の人生を三つ又にかけるとは、些か呑気なものである。
「ところで、朝倉さま」
勘太郎は、このまま三人で江戸へ出るとして、気がかりなことが一つある。自分のことではなく、お鈴のことである。
「お鈴さんの身の振り方はどうお考えなのです?」
「お鈴か、お鈴は心配要らぬ、江戸には叔父上が居るでナ、頼んでみようと思う」
「お鈴さんは、敷居を跨がせてくれますか?」
「お鈴は何の罪もない、快く引き受けてくれるであろう」
またか、と口には出さぬが勘太郎は思う。この師匠は人ばかりあてにして、自分は何か努力をするのだろうか。叔父の屋敷で断られたら、親友の北城がどうにかしてくれるとでも思っているのではないだろうか。心細くなってくる勘太郎であった。
「ご浪人さま、どうぞお助けください」
とある宿場町にさしかかったところで、農家の女房と思しき女が朝倉の前に来て土下座をした。歳の頃は二十歳前後であろうか、破れた着物に裸足である。
「どうしたのだ」
「どうぞ、お助けを…」
「助けてやるから、事情を話してみなさい」
女は取り乱して、ただただ「お助を…」と懇願するばかりである。朝倉兄妹と勘太郎は辺りを見まわしたが、追って来る者はいない。
「聞いてやるから、話してみなさい」
暫くして落ち着いたのか、堰を切ったように話し始めた。
「居ないのでございます」
「誰が?」
「わたしの赤ん坊でございます」
「何処で居なくなったのだ?」
「そこの石に腰を掛けて、お乳を飲ませていたら居なくなりました」
「消えたのか?」
「はい」
勘太郎とお鈴は、思わず顔を見合わせてしまった。赤ん坊といえども一人の人間である。そんなに簡単に消える訳がない。
「そなたは、居眠りでもしてしまったのか?」
「いいえ、赤ん坊の顔をみていたら、不意に消えました」
朝倉はと見れば、あまりの馬鹿々々しさに、話を聞いてやる気を失っている。代わって勘太郎が口を挟んだ。
「それは、神隠しかもしれませんね」
「ええ」
勘太郎も、気が逸れてしまった。今度はお鈴が然も心配げに女の肩に手を遣り女に同情した。
「赤ん坊はどこへ行ってしまったのでしょう」
「わかりません」
お鈴は、何かに気付いたようである。
「あなたの赤ん坊が居ましたよ、ほら、あの雲の上に」
「どこ? どこですか」
「あなたには見えないかもしれません、わたくしは如来さまの召使いです」
お鈴は空を指さした。
「赤ん坊は、如来さまに抱かれてスヤスヤと眠っています」
「私には見えません、どうかこの手にお返しください」
「赤ん坊は死にました、でも如来さまは、あなたの手に赤ん坊はお返しになります」
お鈴は、この母親を抱きしめ、優しく諭すのであった。今すぐ叶わないが、来年、または再来年かも知れないが、再びこの世に生まれてくる。あなたの元か、他の誰かのもとかも知れないが、あなたが元気に明るく生きていれば、きっとあなたの元へお返しになるでしょう。いつまでも亡くなった赤ん坊のことばかり考えて涙に暮れていれば、ほかの誰かの子供になってしまいますよと‥。
「あっ、如来さまが微笑んで会釈なさいました」
「このお乳を飲ませてやりたいのですが…」
「大丈夫ですよ、如来さまの元では、お乳を飲む必要がないのです」
お鈴は女を立たせ、手を取った。
「さあ、お家まで、送ってさしあげましょう」
家に着くと、丁度女の夫らしい男が野良仕事から帰って、女房を探しているところだった。
「申し訳ありませんでした、もう治ったとばかり思っていたのですが、また赤ん坊が消えたと訴えたのですね」
「でも、もう大丈夫ですよ、奥さまは立ち直りました。優しく見守ってあげてくださいまし」
いろいろと農夫の話を聞いてやり、別れて立ち去るとき、お鈴は「ご夫婦仲良くね」と、声をかけた。農夫も「今夜は雨になりそうです。お気を付けなすって」と、声をかけてくれた。
「お鈴さんは、凄いですね。如来さまのお姿が見えるのですね」
「見えません。あれは嘘です」
赤ん坊は、死んで生まれたそうである。それを自分の所為だと気に病み、想い煩ってしまったらしい。それに気付いたお鈴が、咄嗟の嘘で救ったのだそうであるが、来年、再来年にあの夫婦に子供が生まれたらよいが、そうでなければお鈴は恨まれるだろうと笑っていた。
「朝倉さまのご兄妹は、いいかげんですね」
呆れながら足を早めた。農夫が「今夜は雨ですよ」と言っていたのを思い出したのだ。 ―続く―
猫爺の短編小説「赤城の勘太郎」
第一部 板割の浅太郎
第二部 小坊主の妙珍
第三部 信州浪人との出会い
第四部 新免流ハッタリ
第五部 国定忠治(終)
猫爺の短編小説「続・赤城の勘太郎」
第一部 再会
第二部 辰巳一家崩壊
第三部 懐かしき師僧
第四部 江戸の十三夜
「親分、てえへんです、羽柴一家が縄張りを取り返しに殴り込みをかけてきます」
国定一家は、俄かに騒々しくなったが、勘太郎は振り返りもせずに外へ出た。
「勘太郎、お鈴を頼む」
朝倉は、腰の刀を抑えると、一家に取って返した。今こそ恩義を返す好機だと思ったからである。
勘太郎は、お鈴を促して旅籠に向かった。
「お鈴さん、この旅籠で待っていてください」
「勘太郎さん、行かないでください、あなたは喧嘩に加勢する義理はないではありませんか」
勘太郎は、旅籠賃を前払いすると、国定(くにさだ)一家へとって返そうとしたが、お鈴は兄はともかく、まだ一宿一飯の恩義を受けてはいないこの青年が、喧嘩に加担しようとしているのを心配したのだ。
「いえ、俺らは喧嘩をしに行くのではありません」
「では何故行こうとするのですか?」
「朝倉さまをお護りするためなのです。朝倉さまはお強いですが、相手は多勢です」
「ありがとうございます」
言うが早いか、勘太郎は韋駄天走りで国定一家を目指した。朝倉のことだから、大丈夫とは思うが相手は無法者、卑怯を恥じる意識などない。いかような手で迫っているか知れないのだ。
朝倉は、敵も味方も面識がない。中庭で自分に向かってくる暴漢のドスをただ交わして、やくざの喧嘩にあるまじき峰を返した刀で相手を叩きのめしている。
「止めろ! 止めるのだ」
朝倉は、いつしか喧嘩の仲裁者になっていた。
「朝倉さま、勘太郎助勢に参りました」
「勘太郎、戻れ! お前はこんなくだらない喧嘩に巻き込まれてはならぬ」
朝倉がそう叫んだ瞬間に、襲って来る敵に集中していた神経が散漫になった。隙ができた朝倉の背後からドスを小脇に抱えた男が突進してきた。
「あっ、危ない!」
次の瞬間、勘太郎は朝倉を押し退け、男のドスを横へ弾き飛ばした。男はだらしなく前に倒れ、顔で着地した。
「それ見ろ、危険だから早く戻りなさい」
「危険なのは朝倉さまの方です。こんな加勢はお止めになってください」
「お鈴を護ってくれた義理だ」
「その恩は、俺らが返しましょう」
勘太郎は、どうしたことか、敵も味方も打ちのめしにかかった。忠治こと忠次郎親分が見かねて勘太郎にドスを向けた。
「勘太郎、それはわしに対する意趣返しか」
「いいえ、喧嘩を鎮めて師匠の身をお護りするためです」
「なぜ儂の子分を倒すのだ」
「俺らには、敵も味方もない、片っ端から打ちのめすので、後は親分が止(とど)めを刺すなり、命を助けるなり、勝手にしてください」
朝倉辰之進は、忠治親分に手厚く礼を言って立ち去ろうとした。勘太郎がそれに続いたとき、忠治こと忠次郎親分が止めた。
「勘太郎、ひとつ分かってやって欲しいことがある」
「親父を殺した言い訳か?」
「いや、儂のことではない、浅太郎だ」
「兄ぃがどうかしたか?」
「浅太郎は、お前のお父っつぁんを殺してはいない」
「誰が殺したと言うのだ」
「勘助は、浅太郎の目を盗んで自害したのだ」
それは、勘太郎も薄々勘づいていた。しかし、その自害を見落としたのか、気付いていながら親分への義理のために見過ごしたのかは不明である。
「ふーん」
勘太郎は、何の感慨もない返事をして踵を返し朝倉を追った。
旅籠では、朝倉の妹お鈴が、心配をして待っていた。長い間、別れ別れになっていた兄妹が、思いがけない再会に二人は暫くの間、涙を交わしていた。
「兄上、これからお国元へ帰り、お殿様に詫びを入れましょう」
「お鈴、馬鹿を言うでない、藩に戻れば即切腹を申し受けることになる」
「でも、事情が事情ですから、分かって戴けるかも知れません」
「だめだ、親友と思っていた千崎駿太郎が、お鈴にとった非情な態度を思い出してみなさい」
千崎がとった態度は、お鈴を庇護すれば上司を殺して逃げた極悪人を庇護することになるからであろう。それは、取りも直さず未だに藩は朝倉を極悪人と見ている証拠である。そのような処へのこのこ帰えれば、捕り抑えられて即刻切腹ならまだしも、屈辱な断罪かも知れぬ。
「儂は江戸へ行こうと思う」
江戸には、一時身を置いていた父方の叔父がいる。また、同じ道場へ通った北城一之進という朋友も居る。叔父は南町奉行所の与力の家に婿養子として入り、義父亡き今は跡目を継いでいる。北城一之進は、北町の町方与力である。
「困ったことがあれば訪ねて来い」
それは、若き門下生時代の一之進の口癖であった。
「叔父は厳格な人であるから、上司を殺めて脱藩した儂など敷居を跨がせないだろうが、一之進ならこの落ちぶれ果てた儂の立つ瀬を考えてくれるであろう」
「兄上、宜しいのですか、兄上は千崎さまも親友だと仰っておられましたねぇ」
「今も変わらず千崎は親友だ。だから彼奴の立場も理解できるのだ」
「兄上は、お人がよろしいのですね」
「お前は、千崎に未練はないのか?」
「ございません、寧ろ恨みに思います」
どちらが強がっているのか。或いはどちらも強がって見せているのか、勘太郎には分からない兄妹であった。
翌朝から、三人は江戸へ向けて旅立った。この先、勘太郎には三つの選択肢がある。一つは辰巳一家に戻り、親分の盃を貰いやくざ渡世で生きる道、二つ目は勘太郎を育ててくれた昌明寺へ戻り僧侶に戻る道、三つ目は信州浪人朝倉辰之進と共に江戸へ出て剣の師辰之進の夢に付き合う道である。
三つ目の道は、全くあてにはならない。江戸の与力北城一之進は、果たして朝倉を快く迎えてくれるのだろうか。千崎と同じく、罪を犯して脱藩した朝倉に対して、冷たく門前払いをするかも知れない。
だいたい、若い頃の言葉を信じて頼りにしていること自体、朝倉の甘さを暴露しているように思えるが、まあいいだろう。三つ目がダメなら、二つ目があるさ。二つ目もダメなら、一つ目があるじゃないか。勘太郎も自分の人生を三つ又にかけるとは、些か呑気なものである。
「ところで、朝倉さま」
勘太郎は、このまま三人で江戸へ出るとして、気がかりなことが一つある。自分のことではなく、お鈴のことである。
「お鈴さんの身の振り方はどうお考えなのです?」
「お鈴か、お鈴は心配要らぬ、江戸には叔父上が居るでナ、頼んでみようと思う」
「お鈴さんは、敷居を跨がせてくれますか?」
「お鈴は何の罪もない、快く引き受けてくれるであろう」
またか、と口には出さぬが勘太郎は思う。この師匠は人ばかりあてにして、自分は何か努力をするのだろうか。叔父の屋敷で断られたら、親友の北城がどうにかしてくれるとでも思っているのではないだろうか。心細くなってくる勘太郎であった。
「ご浪人さま、どうぞお助けください」
とある宿場町にさしかかったところで、農家の女房と思しき女が朝倉の前に来て土下座をした。歳の頃は二十歳前後であろうか、破れた着物に裸足である。
「どうしたのだ」
「どうぞ、お助けを…」
「助けてやるから、事情を話してみなさい」
女は取り乱して、ただただ「お助を…」と懇願するばかりである。朝倉兄妹と勘太郎は辺りを見まわしたが、追って来る者はいない。
「聞いてやるから、話してみなさい」
暫くして落ち着いたのか、堰を切ったように話し始めた。
「居ないのでございます」
「誰が?」
「わたしの赤ん坊でございます」
「何処で居なくなったのだ?」
「そこの石に腰を掛けて、お乳を飲ませていたら居なくなりました」
「消えたのか?」
「はい」
勘太郎とお鈴は、思わず顔を見合わせてしまった。赤ん坊といえども一人の人間である。そんなに簡単に消える訳がない。
「そなたは、居眠りでもしてしまったのか?」
「いいえ、赤ん坊の顔をみていたら、不意に消えました」
朝倉はと見れば、あまりの馬鹿々々しさに、話を聞いてやる気を失っている。代わって勘太郎が口を挟んだ。
「それは、神隠しかもしれませんね」
「ええ」
勘太郎も、気が逸れてしまった。今度はお鈴が然も心配げに女の肩に手を遣り女に同情した。
「赤ん坊はどこへ行ってしまったのでしょう」
「わかりません」
お鈴は、何かに気付いたようである。
「あなたの赤ん坊が居ましたよ、ほら、あの雲の上に」
「どこ? どこですか」
「あなたには見えないかもしれません、わたくしは如来さまの召使いです」
お鈴は空を指さした。
「赤ん坊は、如来さまに抱かれてスヤスヤと眠っています」
「私には見えません、どうかこの手にお返しください」
「赤ん坊は死にました、でも如来さまは、あなたの手に赤ん坊はお返しになります」
お鈴は、この母親を抱きしめ、優しく諭すのであった。今すぐ叶わないが、来年、または再来年かも知れないが、再びこの世に生まれてくる。あなたの元か、他の誰かのもとかも知れないが、あなたが元気に明るく生きていれば、きっとあなたの元へお返しになるでしょう。いつまでも亡くなった赤ん坊のことばかり考えて涙に暮れていれば、ほかの誰かの子供になってしまいますよと‥。
「あっ、如来さまが微笑んで会釈なさいました」
「このお乳を飲ませてやりたいのですが…」
「大丈夫ですよ、如来さまの元では、お乳を飲む必要がないのです」
お鈴は女を立たせ、手を取った。
「さあ、お家まで、送ってさしあげましょう」
家に着くと、丁度女の夫らしい男が野良仕事から帰って、女房を探しているところだった。
「申し訳ありませんでした、もう治ったとばかり思っていたのですが、また赤ん坊が消えたと訴えたのですね」
「でも、もう大丈夫ですよ、奥さまは立ち直りました。優しく見守ってあげてくださいまし」
いろいろと農夫の話を聞いてやり、別れて立ち去るとき、お鈴は「ご夫婦仲良くね」と、声をかけた。農夫も「今夜は雨になりそうです。お気を付けなすって」と、声をかけてくれた。
「お鈴さんは、凄いですね。如来さまのお姿が見えるのですね」
「見えません。あれは嘘です」
赤ん坊は、死んで生まれたそうである。それを自分の所為だと気に病み、想い煩ってしまったらしい。それに気付いたお鈴が、咄嗟の嘘で救ったのだそうであるが、来年、再来年にあの夫婦に子供が生まれたらよいが、そうでなければお鈴は恨まれるだろうと笑っていた。
「朝倉さまのご兄妹は、いいかげんですね」
呆れながら足を早めた。農夫が「今夜は雨ですよ」と言っていたのを思い出したのだ。 ―続く―
猫爺の短編小説「赤城の勘太郎」
第一部 板割の浅太郎
第二部 小坊主の妙珍
第三部 信州浪人との出会い
第四部 新免流ハッタリ
第五部 国定忠治(終)
猫爺の短編小説「続・赤城の勘太郎」
第一部 再会
第二部 辰巳一家崩壊
第三部 懐かしき師僧
第四部 江戸の十三夜