「わらわは天台宗のお寺にお参りしてこようと思います。亮馬、そなた伴をしてはくれませんか」
天台宗の寺と言えば、水戸城からは目と鼻の先にある長福寺であろう。朝発てば、昼前には優に城へ帰れる。
「はい姫様、喜んでお伴仕ります」
「そうか、頼みましたぞ、旅支度は勘定方のそなたの父、能見篤馬に申し付けておいた」
水戸家の御息女、末娘の朱鷺(とき)姫、その容姿は「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の喩え宛(さなが)らであるが、その立ち振る舞いは男顔負けである。剣と柔術の腕は関口流免許皆伝のつわもの、家来たちは陰で「じゃじゃ馬(暴れ馬)姫」と呼んでいる。
姫は何を大袈裟に言っているのだろう。長福寺にお参りするのに、旅支度など不必要である。二・三人の家来をお伴に、お駕籠で行けば良いではないか。亮馬は、帰りに料亭に立ち寄り、美味しいものが食べられると、心浮き浮きである。
「姫様、帰りには鰹のたたきを食べさせるよい料亭にご案内いたします」
「ほう、鰹のたたきとな、それは上々、楽しみにしていようぞ」
「はい、お任せを」
「では、日が暮れたら城を抜け出す。心積もりをしておくように」
「日が暮れてからのお寺参りは、止しましょうよ」
「どうして?」
「幽霊とか色々出るといけません」
「あはは、そんなことか」
日がおちると、姫が亮馬を促して城の冠木門に向かった。前もって命令しておいたのか、門番は姫を見ると、黙って門を開けた。
「姫様、長福寺へ行くのはこの道ではありませぬぞ」
「誰が長福寺にお参りすると言いました」
「違うのですか?」
「違います、中尊寺です」
「嘘っ」
「何が嘘なものですか、陸奥の国は平泉の関山中尊寺(かんざんちゅうそんじ)です」
恐らく姫は俺を揶揄っているのだろうと、亮馬は自分を落ち着かせようとした。
「亮馬、この先の旅籠で誰が待っていると思う?」
「助さん格さんと、風車の弥七でしょう」
「そうそう、それとかげろうお銀… 違います」
「誰が待っているのですか?」
「そなたの父上、能見篤馬だ」
夜もとっぷり更けた頃、姫の言う旅籠に着いた。話は繋いでいたのか、戸締りをせずに待っていてくれた。
「亮馬、ご苦労」
「えっ、何なのです父上まで巻き込んで、亮馬を驚かせようとしたのですか」
「しっ、声が高い、姫は大きな使命を持って陸奥へ旅立たれるのだ」
「伴は、私一人ですか?」
「いや違う、要所に上様の御庭番を配置しておる」
八代将軍が設けた御庭番の職が、後の将軍まで引き継がれているのだ。
「父上、一体何事なのですか?」
「今は言えぬ。上様の命をうけた大切な御使命だから、心してかかるように」
「そんなこと言われても、姫のお命を護るには、私には重すぎる御役目です」
姫が父子の会話に割って入った。
「わらわは、そなたに護ってもらおうとは思わぬ。お伴は弱そうな者の方が物見遊山の旅らしくて良いのだ」
亮馬が父の顔を見ると、父も同意のようである。
「酷いッ」
「亮馬、わらわはもう一つこの旅の目的がある」
「それも亮馬には内緒でございましょう」
「いや、こちらは話しておきましょう」
「ふーん」
亮馬気のない反応。
「父上が勝手に決めたわらわの縁談じゃ」
「さいですか」
「その縁談を壊しに行く」
「何故に?」
「わらわには、将来夫と心に決めた殿御がおるのじゃ」
「それは宜しゅうございました」
「そなたじゃ」
「ふん、もうその手は食いませんよ」
「若い男女の二人旅です。どこでどう縁が結ばれるやら…」
「嘘をおっしゃいますな、甘い誘いに乗って亮馬が姫にツツツと近付くと、蹴り出すくせに」
「殿方を蹴るなどと失礼な、そんな下品なわらわではありません」
能見篤馬が横槍を入れた。
「愚図ぐず言っていないで、今夜はもう休みなさい、明日は早立ちでござるぞ」
「え、姫と同じ床で」
「馬鹿、お前はこの父と寝るのじゃ」
「やっぱり」
翌朝はさっぱりとした旅立ちに相応しい好天気、気の乗らない亮馬を急き立てて、野羽織に野袴姿の武士が二人旅に出た。傍目には、どう見ても兄弟である。兄はがっしりとした成人ではあるが、弟の方はまだ十代後半の少年のようであった。
「亮馬、実はもう一人伴の者がいるのじゃ」
「柘植の飛猿ですか?」
「猿は猿なのだが、ましらの三太という猿じゃ」
「また三太ですか」
「またとは、どう言うことですか」
「いえ、別に…」
「おかしな亮馬だ」
しばらく歩くと、道の脇から少年が飛び出してきた。
「おお、三太来てくれたか」
十にも足りない少年であろうか、黙って姫に頭を下げ、亮馬を「キッ」と睨みつけて威嚇した。
「三太、この男は亮馬と言って私の伴の者じゃ、決して食べてはいけませんよ」
亮馬は飛び上がって思わず防護の姿勢をとった。
「姫様、こいつは人食い猿ですか」
「最近は食べていないようだが」
「?」
三太は、朱鷺姫の前を歩いていたかと思うと、すっと姿を消した。
「ん?」
亮馬が辺りをキョロキョロ見回したが、どこにも居ない。
「何ですか、あいつは?」
「恐らく没落武士の末裔であろうが、両親に死なれて山で健気にも独り生きていたのを御馬番の足軽が育てているのだ」
「消えたのは?」
「木々の間を飛び移って付いてきているのでしょう」
「地面を歩くよりも、その方が楽なのでしょうか」
「性に合っているのでしょう」
「ふーん、成程飛猿だ」
時々、頭の上で「バサッ」と音がするのだが、飛猿の姿は見えなかった。
「姫様、あんなのを連れて行って、なにか役にたつのですか?」
「役に立ちますとも、それは夜になると分かります」
「ふーん、あいつはムササビかモモンガですかねぇ」
それは、次の旅籠で分かった。旅籠の番頭に朱鷺姫は、
「部屋は三人一緒で構いません」と告げた。
「姫様、それは困ります」
「困ることはありません、川の字になって眠れば良いのです」
「姫様を二人の男で挟むのですか?」
「いいえ、三太を大人二人が挟むのです」
その夜は姫の言う通り、川の字で眠ろうとしたが、若い亮馬のこと、姫の可愛い寝息が気になって眠れない。真夜中に「そーっ」と三太を乗り越えて姫の横へ行こうとした亮馬の腕に三太が噛みついた。
「痛てぇ、お前は番犬か」
三太は「うーっ」と、唸っている。鈍い亮馬にも、三太が役に立つ理由が漸(ようや)くわかった。
翌朝も、三人揃って早立ちをした。
「姫様、こんな野猿は邪魔です、帰しましょうよ」
寝不足で赤くなった目を擦りながら亮馬が言った。
「あら、昨夜三太と何かあったのですか?」
「いいえ、何もありませんけど…」
三人が向かう先から、手傷を負った旅の武士が喚きながら走って来る。その後から、四人の武士が追いかけてくるようである。旅の武士は見る見る追手に追い付かれ、抜き身の刃を向けられた。追手の一人が旅の武士の前に回り、刀を上段に構えて振り下ろそうとしたとき、亮馬が声をかけた。
「待て、待てぃ」
その声に驚いたのか、刀を上段に構えた武士が振り返った。
「事情はどうあろうと、多勢に無勢を襲うとは卑怯で御座ろう」
卑怯と言われて、追手の武士達は亮馬を睨みつけた。
「こやつは脱藩して逃亡を図った我が藩の藩士で上意討ちで御座る、余所者は黙って貰おう」
だが、手傷を負った旅支度をした若い武士は「違う、違う」と、首を振る。
「黙って見過ごすことは出来ん、事情を窺おう、それからでも上意討ちは遅くなかろう」
問答無用とばかり、抜き身を亮馬に向けて来た。
「無礼者、こちらにおわすお方を、何方と心得る。恐れ多くも水戸のご息女、朱鷺姫さまなるぞ!」
「亮馬、お前威勢ばかりで、危うくなると私の名を出すのですか、印籠など持っておらぬぞ」
だが、水戸と聞いて一瞬ヤバいと思ったのか、一旦は刀を引いたが、思い直して亮馬を黙らせようと刀を振りかぶった。朱鷺姫は亮馬を自分の後ろに回すと、瞬時に腰の刀を抜いて相手の刀を受け止めた。
「水戸の姫か何か知らんが、なかなかの使い手と見た」
「私がお相手致そう、どこからでもかかって来なさい」
朱鷺姫が相手の刀を突き放したとたん、相手は体を崩さずそのまま斬り込んできた。朱鷺姫は「サッ」と体を交わすと、次の瞬間相手の胴に斬り込んでいた。「うっ」と唸って崩れた相手に、朱鷺姫が言い放った。
「安心しなさい、峰打ちです」
残りの三人は、亮馬が言った「水戸の姫」が気になったのか、「ここは一旦引き上げよう」と、崩れた仲間を起こし、逃げて行った。
「危ういところを忝(かたじけ)ない、お蔭で命拾いをしました」
「命拾いじゃないですよ、奴らは『一旦引き上げよう』と言って去ったでしょう。また襲ってきますよ、事情を姫にお話ししたらどうです。力になって戴けましょう」
危なくなると姫に任せて、鎮まると亮馬がしゃしゃり出て来る。
「朱鷺姫様、我が藩の恥を話しますが、どうか藩の取り壊しだけはお許し願いとう御座います」
「私は公儀隠密ではありません、そのようなことは上様がお決めになることです」
「然もありましょうが、どうぞお執り成しを…」
「執り成しも何も、そなたの藩で何が起こりましょうとも、私からは誰にも漏らすことはありませぬ」
「有難うございます」
旅支度の武士は、ぽつりぽつりと話はじめた。この若侍、名は滝沢丈太郎、某藩の藩士である。藩候が参勤交代で不在を良い事に、国許では国家老が百姓の年貢を水増しして取り立て、思いのままに私腹を肥やしている。その為に百姓達は苦しめられ、一触即発で一揆も起こりかねない状況にあるのだそうである。
その事実を、江戸屋敷の藩主に進言しようと密かに藩を離れたのであるが、国家老の知るところになり、刺客を放たれた。それが先ほどの討伐劇の真相だ。
「滝沢どの、粗方の事情は分かりました。だが、そなたに付き添って江戸まで行けばよいのですが、私たちは陸奥に用があって向かっております」
早飛脚で江戸の藩候に書状送っても、信じては貰えないだろう。水戸へ書状を届けて、水戸から江戸の藩侯へ私の信用できる家来に早馬でこっそり届けてもらいましょうと、朱鷺姫は提案した。だが、早飛脚、早馬でも相当の日数がかかる。また、藩侯が手を打ってくれようとも、さらに日数が重なる。その間に滝沢丈太郎は亡き者にされているだろう。通りかかった船だ、何とか滝沢を護ってやらねばなるまいと、朱鷺姫は思案した。
「滝沢どの、近くの旅籠で傷の手当をしましょう」
「何のこれしき、手当など…」と、傷口を叩いて見せたが、「うーっ」と唸って滝沢はそのまま気を失ってしまった。
―続く―
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天台宗の寺と言えば、水戸城からは目と鼻の先にある長福寺であろう。朝発てば、昼前には優に城へ帰れる。
「はい姫様、喜んでお伴仕ります」
「そうか、頼みましたぞ、旅支度は勘定方のそなたの父、能見篤馬に申し付けておいた」
水戸家の御息女、末娘の朱鷺(とき)姫、その容姿は「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の喩え宛(さなが)らであるが、その立ち振る舞いは男顔負けである。剣と柔術の腕は関口流免許皆伝のつわもの、家来たちは陰で「じゃじゃ馬(暴れ馬)姫」と呼んでいる。
姫は何を大袈裟に言っているのだろう。長福寺にお参りするのに、旅支度など不必要である。二・三人の家来をお伴に、お駕籠で行けば良いではないか。亮馬は、帰りに料亭に立ち寄り、美味しいものが食べられると、心浮き浮きである。
「姫様、帰りには鰹のたたきを食べさせるよい料亭にご案内いたします」
「ほう、鰹のたたきとな、それは上々、楽しみにしていようぞ」
「はい、お任せを」
「では、日が暮れたら城を抜け出す。心積もりをしておくように」
「日が暮れてからのお寺参りは、止しましょうよ」
「どうして?」
「幽霊とか色々出るといけません」
「あはは、そんなことか」
日がおちると、姫が亮馬を促して城の冠木門に向かった。前もって命令しておいたのか、門番は姫を見ると、黙って門を開けた。
「姫様、長福寺へ行くのはこの道ではありませぬぞ」
「誰が長福寺にお参りすると言いました」
「違うのですか?」
「違います、中尊寺です」
「嘘っ」
「何が嘘なものですか、陸奥の国は平泉の関山中尊寺(かんざんちゅうそんじ)です」
恐らく姫は俺を揶揄っているのだろうと、亮馬は自分を落ち着かせようとした。
「亮馬、この先の旅籠で誰が待っていると思う?」
「助さん格さんと、風車の弥七でしょう」
「そうそう、それとかげろうお銀… 違います」
「誰が待っているのですか?」
「そなたの父上、能見篤馬だ」
夜もとっぷり更けた頃、姫の言う旅籠に着いた。話は繋いでいたのか、戸締りをせずに待っていてくれた。
「亮馬、ご苦労」
「えっ、何なのです父上まで巻き込んで、亮馬を驚かせようとしたのですか」
「しっ、声が高い、姫は大きな使命を持って陸奥へ旅立たれるのだ」
「伴は、私一人ですか?」
「いや違う、要所に上様の御庭番を配置しておる」
八代将軍が設けた御庭番の職が、後の将軍まで引き継がれているのだ。
「父上、一体何事なのですか?」
「今は言えぬ。上様の命をうけた大切な御使命だから、心してかかるように」
「そんなこと言われても、姫のお命を護るには、私には重すぎる御役目です」
姫が父子の会話に割って入った。
「わらわは、そなたに護ってもらおうとは思わぬ。お伴は弱そうな者の方が物見遊山の旅らしくて良いのだ」
亮馬が父の顔を見ると、父も同意のようである。
「酷いッ」
「亮馬、わらわはもう一つこの旅の目的がある」
「それも亮馬には内緒でございましょう」
「いや、こちらは話しておきましょう」
「ふーん」
亮馬気のない反応。
「父上が勝手に決めたわらわの縁談じゃ」
「さいですか」
「その縁談を壊しに行く」
「何故に?」
「わらわには、将来夫と心に決めた殿御がおるのじゃ」
「それは宜しゅうございました」
「そなたじゃ」
「ふん、もうその手は食いませんよ」
「若い男女の二人旅です。どこでどう縁が結ばれるやら…」
「嘘をおっしゃいますな、甘い誘いに乗って亮馬が姫にツツツと近付くと、蹴り出すくせに」
「殿方を蹴るなどと失礼な、そんな下品なわらわではありません」
能見篤馬が横槍を入れた。
「愚図ぐず言っていないで、今夜はもう休みなさい、明日は早立ちでござるぞ」
「え、姫と同じ床で」
「馬鹿、お前はこの父と寝るのじゃ」
「やっぱり」
翌朝はさっぱりとした旅立ちに相応しい好天気、気の乗らない亮馬を急き立てて、野羽織に野袴姿の武士が二人旅に出た。傍目には、どう見ても兄弟である。兄はがっしりとした成人ではあるが、弟の方はまだ十代後半の少年のようであった。
「亮馬、実はもう一人伴の者がいるのじゃ」
「柘植の飛猿ですか?」
「猿は猿なのだが、ましらの三太という猿じゃ」
「また三太ですか」
「またとは、どう言うことですか」
「いえ、別に…」
「おかしな亮馬だ」
しばらく歩くと、道の脇から少年が飛び出してきた。
「おお、三太来てくれたか」
十にも足りない少年であろうか、黙って姫に頭を下げ、亮馬を「キッ」と睨みつけて威嚇した。
「三太、この男は亮馬と言って私の伴の者じゃ、決して食べてはいけませんよ」
亮馬は飛び上がって思わず防護の姿勢をとった。
「姫様、こいつは人食い猿ですか」
「最近は食べていないようだが」
「?」
三太は、朱鷺姫の前を歩いていたかと思うと、すっと姿を消した。
「ん?」
亮馬が辺りをキョロキョロ見回したが、どこにも居ない。
「何ですか、あいつは?」
「恐らく没落武士の末裔であろうが、両親に死なれて山で健気にも独り生きていたのを御馬番の足軽が育てているのだ」
「消えたのは?」
「木々の間を飛び移って付いてきているのでしょう」
「地面を歩くよりも、その方が楽なのでしょうか」
「性に合っているのでしょう」
「ふーん、成程飛猿だ」
時々、頭の上で「バサッ」と音がするのだが、飛猿の姿は見えなかった。
「姫様、あんなのを連れて行って、なにか役にたつのですか?」
「役に立ちますとも、それは夜になると分かります」
「ふーん、あいつはムササビかモモンガですかねぇ」
それは、次の旅籠で分かった。旅籠の番頭に朱鷺姫は、
「部屋は三人一緒で構いません」と告げた。
「姫様、それは困ります」
「困ることはありません、川の字になって眠れば良いのです」
「姫様を二人の男で挟むのですか?」
「いいえ、三太を大人二人が挟むのです」
その夜は姫の言う通り、川の字で眠ろうとしたが、若い亮馬のこと、姫の可愛い寝息が気になって眠れない。真夜中に「そーっ」と三太を乗り越えて姫の横へ行こうとした亮馬の腕に三太が噛みついた。
「痛てぇ、お前は番犬か」
三太は「うーっ」と、唸っている。鈍い亮馬にも、三太が役に立つ理由が漸(ようや)くわかった。
翌朝も、三人揃って早立ちをした。
「姫様、こんな野猿は邪魔です、帰しましょうよ」
寝不足で赤くなった目を擦りながら亮馬が言った。
「あら、昨夜三太と何かあったのですか?」
「いいえ、何もありませんけど…」
三人が向かう先から、手傷を負った旅の武士が喚きながら走って来る。その後から、四人の武士が追いかけてくるようである。旅の武士は見る見る追手に追い付かれ、抜き身の刃を向けられた。追手の一人が旅の武士の前に回り、刀を上段に構えて振り下ろそうとしたとき、亮馬が声をかけた。
「待て、待てぃ」
その声に驚いたのか、刀を上段に構えた武士が振り返った。
「事情はどうあろうと、多勢に無勢を襲うとは卑怯で御座ろう」
卑怯と言われて、追手の武士達は亮馬を睨みつけた。
「こやつは脱藩して逃亡を図った我が藩の藩士で上意討ちで御座る、余所者は黙って貰おう」
だが、手傷を負った旅支度をした若い武士は「違う、違う」と、首を振る。
「黙って見過ごすことは出来ん、事情を窺おう、それからでも上意討ちは遅くなかろう」
問答無用とばかり、抜き身を亮馬に向けて来た。
「無礼者、こちらにおわすお方を、何方と心得る。恐れ多くも水戸のご息女、朱鷺姫さまなるぞ!」
「亮馬、お前威勢ばかりで、危うくなると私の名を出すのですか、印籠など持っておらぬぞ」
だが、水戸と聞いて一瞬ヤバいと思ったのか、一旦は刀を引いたが、思い直して亮馬を黙らせようと刀を振りかぶった。朱鷺姫は亮馬を自分の後ろに回すと、瞬時に腰の刀を抜いて相手の刀を受け止めた。
「水戸の姫か何か知らんが、なかなかの使い手と見た」
「私がお相手致そう、どこからでもかかって来なさい」
朱鷺姫が相手の刀を突き放したとたん、相手は体を崩さずそのまま斬り込んできた。朱鷺姫は「サッ」と体を交わすと、次の瞬間相手の胴に斬り込んでいた。「うっ」と唸って崩れた相手に、朱鷺姫が言い放った。
「安心しなさい、峰打ちです」
残りの三人は、亮馬が言った「水戸の姫」が気になったのか、「ここは一旦引き上げよう」と、崩れた仲間を起こし、逃げて行った。
「危ういところを忝(かたじけ)ない、お蔭で命拾いをしました」
「命拾いじゃないですよ、奴らは『一旦引き上げよう』と言って去ったでしょう。また襲ってきますよ、事情を姫にお話ししたらどうです。力になって戴けましょう」
危なくなると姫に任せて、鎮まると亮馬がしゃしゃり出て来る。
「朱鷺姫様、我が藩の恥を話しますが、どうか藩の取り壊しだけはお許し願いとう御座います」
「私は公儀隠密ではありません、そのようなことは上様がお決めになることです」
「然もありましょうが、どうぞお執り成しを…」
「執り成しも何も、そなたの藩で何が起こりましょうとも、私からは誰にも漏らすことはありませぬ」
「有難うございます」
旅支度の武士は、ぽつりぽつりと話はじめた。この若侍、名は滝沢丈太郎、某藩の藩士である。藩候が参勤交代で不在を良い事に、国許では国家老が百姓の年貢を水増しして取り立て、思いのままに私腹を肥やしている。その為に百姓達は苦しめられ、一触即発で一揆も起こりかねない状況にあるのだそうである。
その事実を、江戸屋敷の藩主に進言しようと密かに藩を離れたのであるが、国家老の知るところになり、刺客を放たれた。それが先ほどの討伐劇の真相だ。
「滝沢どの、粗方の事情は分かりました。だが、そなたに付き添って江戸まで行けばよいのですが、私たちは陸奥に用があって向かっております」
早飛脚で江戸の藩候に書状送っても、信じては貰えないだろう。水戸へ書状を届けて、水戸から江戸の藩侯へ私の信用できる家来に早馬でこっそり届けてもらいましょうと、朱鷺姫は提案した。だが、早飛脚、早馬でも相当の日数がかかる。また、藩侯が手を打ってくれようとも、さらに日数が重なる。その間に滝沢丈太郎は亡き者にされているだろう。通りかかった船だ、何とか滝沢を護ってやらねばなるまいと、朱鷺姫は思案した。
「滝沢どの、近くの旅籠で傷の手当をしましょう」
「何のこれしき、手当など…」と、傷口を叩いて見せたが、「うーっ」と唸って滝沢はそのまま気を失ってしまった。
―続く―
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