去年、大阪地裁で国の責任を認めた判決が、今回大阪高裁で覆りました。
アスベストに関しては日本の対応が海外よりも数十年遅れていた事実があり、国の対応のまずさ、責任はあきらかであるのにも拘らずデス。
これは何を意味するのでしょう。
これまでもあらゆる場面で国はその責任を取ろうとはしてきませんでしたが、近年その流れは変わってきていたはずです。ところが今回のこの大阪高裁の判決。そこには現在の日本の状況、フクシマで将来起きるであろう大量の被曝訴訟を見越した思惑が見て取れます。
基本的に個別の因果関係を特定できないと一蹴できると思われているのでしょうが、病気などの長期にわたる経緯を観察すればその因果関係を認めざるを得なくなるものになるでしょう。個別ならともかく、大きな集団での訴訟となれば敗訴して巨額の賠償金が発生する可能性がある。それに対する布石として「国は精一杯の対応をしていた」という嘘の言葉で責任を逃れる前例を増やしておきたいのでしょう。最高裁が大阪高裁判決を支持するのはもう目に見えています。(また覆ったら、その後の裁判長の去就が気になります)
つまり、フクシマの将来的な被曝訴訟はかなり住民側に厳しいものになるでしょう。
諦めて(知らない振りをして)被曝とその被害も甘んじて受け入れるのか。
国の対応と居住地域のデータを細かく記録して闘いに備えるのか。
国からの支援を当てにせず、将来の訴訟でも不利になるかもしれないが(いまからでも)自主的に避難して被曝を少しでも減らすのか。
財政が弱まった日本では政官の癒着だけでなく、司法側も体制の維持のために政治に擦り寄るだろうと考えられます。とくにこれからは、10年以上にわたる震災復興と100年を見越した放射性物質除去管理と言う巨大な支出が財政を圧迫することが決定している状況なのですから、その傾向はさらに加速するでしょう。
財政の前に国の責任は曖昧にされ、国民の権利と健康は守られない。
為政者にとっては当たり前なのでしょう。「国があっての国民」であって「国民があっての国」ではないのでしょうから。
経済が急激に上向かなければ、そしてそれが長く続かなければ、国を相手では全うな裁判が行われなくなる可能性が高い。
おそらく国への訴訟は単なる自己満足のセレモニーで終わるのではないでしょうか。