goo blog サービス終了のお知らせ 

夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本の原子力発電所建設の経緯

2011年12月15日 | 政治問題
 今、東京新聞に日本の原子力発電所建設の発端からの経緯が連載されている。第一面トップの扱いである。そこには赤裸々な情況が書かれている。安全など、初めっから考えてなどいなかった事が明らかになっている。「原子力発電ありき」ですべてが動いて行った。第一回の11日には、凄い事が書かれている。

 1952年、伏見康治と言う一人の物理学者の「日本でも原子力研究を準備しよう」との提言から事は始まった。日本学術会議副会長の茅誠司との共同作戦で政府への申し入れの案が練られた。
 当然に反対する学者も居て、原子力発電が一夜にして原爆に化する、との学者の意見に賛同者が相次ぎ、提案は撤回に追い込まれた。そして伏見は後年こう言った。「あれは科学的態度でない。情緒だ」
 我々が考えたって、どちらが科学的でないかは一目瞭然である。

 そうした科学者の動きを尻目に動いたのが政界で、主導者は中曽根康弘である。そして1954年、原子炉築造費2億3500万円の予算が計上された。科学者達は寝耳に水、と反対を訴えたが、予算案は成立してしまった。
 本人は後になって否定しているが、中曽根はこう言ったと伝えられている。
 「あんたたち学者が昼寝をしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」

 そして今なお、札束でほっぺたをひっぱたく事が堂々とやられている。そしてカネには全く抵抗力の無い連中が、見境も無く札束でほっぺたをひっぱたかれて喜んでいる。
 日本は独立を回復した時から既に腐っていたのだと分かる。それは腐った人間が、指導する立場に居たからだ。自分が腐っているから、何が腐っているのかが分からない。同質なんだから当然である。
 そうした人間がずっと日本の政治を主導して来たのである。この後の回で、日本の政治家がいかに「ど素人」であるかが語られている。

少しでも安い物を買いたい心理を計算してみる

2011年12月13日 | 暮らし
 主婦が10円でも安いからと、ちょっと遠くの店まで出掛けて、話題に取り上げられたりする。足を運んだ時間と10円を稼ぐのに要する時間とを比較する訳だ。
 今、アルバイトの時給は良くて1000円前後。60分で1000円だから、1分=約17円。10円の節約に1分以上余分も掛ければ損になる計算だ。
 けれども、これはそうしたアルバイトが出来ると言う条件の下での計算だから、何のアルバイトもしていなければ、現金での節約の方がずっと役に立つ、とも考えられる。しかし本当にそうだろうか。確かに1分で出来る事はたかが知れている。けれども、これが100円とか200円の節約になったら、例えば100円なら約6分に相当する。6分もあれば、かなりの事が出来る。普段出来なかった手の届きにくい所の掃除だって出来るだろう。それは確実に暮らしの役に立つ。
 そして100円くらいの無駄遣いは案外多いのではないか。

 何か、つまらない話をしているなあ、と思うだろうが、今、私はそうした事に直面しているので、どうしても考えざるを得ないのだ。本来の編集とか執筆、校正、DTPなどの仕事がほとんどないので、昼間と夜の二つのアルバイトをしている。それが時給1000円。少しでも現金収入が欲しいので、採算を度外視して執筆のアルバイトに臨んだのだが、それがどのように努力しても1時間にせいぜい300円程度にしかならない。
 働いていない時間を充てているのだから、利益になると考えても、どうにも納得が行かない。300円稼ぐ1時間に、家事だって、自分の雑用だって、自分のための執筆だって、様々な事が出来る。
 うっかりと、預金の残高を確認していなかったせいで、引き落としが出来ずに、300円ほどの振り込み手数料を払わなければならない、と言う馬鹿馬鹿しい損害も、わずかの余裕があれば出来る。
 自分のための執筆だって、今すぐには現金には成り得ないが、来年、再来年の事を考えてしているのだから、重要な基礎作りをしている訳だ。そうした貴重な時間を1時間当たり300円の仕事で失ってしまって良いのだろうか、と考えてしまう。

 本当につまらない事を考えている。これは私自身の考えをまとめるために、このブログを利用している訳で、でも、中には同じような状況の人も居るに違いないとは思う。ついでだが、この執筆のアルバイトのために時間を取られて、ブログを三日ほど休んでしまった。私は文章を書くのは得意のほうなのだが、3000円稼ぐのに、ほとんど三日も掛かってしまった、と言うみっともない有様なのである。
 こんなみみっちい計算などせずに、何の努力もせずに、ほとんど働かずにお金が入って来る人が現実に居るのだから、羨ましい限りである。

東京新聞のよく分からない記事

2011年12月09日 | 言葉
 今日12月9日の東京新聞の小さな記事である。
 1枚の投票用紙のコピーがある。「こやなぎしずお」と読めそうだが、明確に読めるのは「こやなぎし」までで、残りの二文字はきちんとした平仮名にはなっていない。この「こやなぎし??」の票の説明は「無効とされた投票用紙」である。
 添えられている見出しは「東京高裁」「一票差当選は無効」「渋谷区議の主張認めず」の3本。

 これだけを見れば、一票差で当選したのは無効だと東京高裁が判決を下した。それは区議の主張は「一票差当選は有効だ」になる。だから、誰だって、選挙管理委員会はこの票を無効として、最下位当選と次点が決まった。従って、この一票差で当選したのは「こやなぎ」とは違う人物になる。
 しかし本文記事は次のようにある。

 「選挙管理委員会が当選無効の採決をしたのは違法として、次点と一票差で最下位当選した区議が裁決の取り消しを求めた訴訟で、東京高裁は八日、原告の請求を棄却した」

 「一票差で最下位当選した区議」が当選無効、つまりは一票が無効であるとの採決が違法だと求めるはずが無い。
 ここで私は訳が分からなくなった。
 
 実は、訴えていたのは「小柳政也氏」だ、と記事は続く。その意味が次の文章によって初めて分かる。

 「次点だった松岡定俊氏の申し立てを受けた都選管が全票調べ直し、有効票のうち一票が無効だったと判断していた。」

 最初の最下位当選者は小柳氏だった。そして松岡氏の申し立てで例の票が無効とされ、当選者が入れ替わって松岡氏になった。次点と一票差で最下位当選した区議は、初めは小柳氏で、現在は松岡氏なのである。それが最初の段落の記事では明確になっていない。そこで、私のように迷う人間が出て来る。
 「有効票のうち一票が無効だったと判断していた」と過去形にして書いているから、分かるだろう、は駄目だ。それは記事がずっと進んで初めて分かる事なのである。

 私はこの文章を書き始めて、何度も、待てよ、と考えた。何が何だか、分からなくなるのである。これは記事の整理の仕方がまずい。
 記事の重要な部分は短いのに、それがよく分からない。これは新聞記事にとって致命的だと思う。
 最初に、この不明な票が最初は有効とされて、一票差で当落が決まった、とはっきりと書けば記事はずっと分かりやすくなる。そして私がやっと理解に漕ぎ着けられた結果のような事を分かり易く説明すれば良いだけの話である。そうすれば、読者を迷わせずに済む。従って、記事の流れも変わって来るだろう。それを書き直してみるのは面白いが、私には時間の無駄使いになるだけだ。

 もしかしたら、私の読み方がまずいのかも知れない。多くの人はこの記事ですぐに真相が分かるのかも知れない。ご判断をお聞かせ頂けたら、幸いです。


物事を知らないと、笑い話にもならない

2011年12月07日 | 言葉
 東京新聞に、夫婦の言いたい放題の笑い話が載る。12月7日、冒頭に「想像力」と題する投書が載った。その全文をご紹介する。

 主人が車を運転中、空を見て「パプアニューギニアにそっくりな雲だなあ」と言った。行ったこともないのに…。もっと分かりやすいたとえができんか!(答えようがない妻)

 この妻は二つの事で怒っている。一つは行った事も無いのに、分かったような事を言うな、である。もう一つは自分にも分かり易いたとえにせよ、である。
 物を知らないからこうした事が言える。御主人が言ったのは、「パプアニューギニア島にそっくりな雲だなあ」なのである。世界地図を見ている人には分かるだろうが、小さな恐竜の形によく似ている島である。島と言っても、日本全土よりもずっと大きい。
 けれども奥さんはその島の形を知らない。多分、パプアニューギニアも知らないのだろう。そして奥さんは御主人の言っているのは、パプアニューギニアの空によく浮かぶ雲だと思ったに違いない。だから、「行ったこともないのに」と怒るのである。島の形の話なら、行った事がある無いは関係が無い。

 そして御主人も勘違いをしている。「パプアニューギニア」と言うのは、国の名前で、ニューギニア島の東半分である。西半分はインドネシアである。
 私は昔、地図で「パプア島」だったと覚えている。私の思い違いかも知れないが。それが今では「ニューギニア(パプア)島になっている。
 御主人は多分、島全体がパプアニューギニアだと思っているに違いない。

 そして新聞の担当者は、奥さんと同じ程度の知識だったに違いない。本当の事を知っているなら、この話はちっとも面白くなどない。話がすれ違っているのが面白いのだよ、とは言えない。それが奥さんの名前の「答えようがない妻」になっているし、タイトルの「想像力」になっているのである。
 もう言わずもがななのだが、奥さんは本当は「本当にそっくりねえ」とか「全然似てないじゃないの」と言うしか無いのである。ちゃんと「答えよう」はある。しかもそれは想像力でも何でもない。

卑怯な東京電力の原発用語の言い替え

2011年12月05日 | 言葉
 原子力界では、言い替えや造語で危ない印象を消し去ろうとの動きが続いて来た、と4日の東京新聞は書いている。
 「原発の老朽化」を問うと、必ずと言っていいほど担当者は「高経年化につきましては」と言い替えて答えるのがその一例だと言う。確かに、「老朽化」には危ないイメージがあるが、「高経年化」にはそのようなイメージは無い。「放射能濃度の高い汚染水」を「滞留水」と言い替え、「核燃料が溶け落ちている」状態は「燃料の損傷」状態と言い替える。そこには平穏無事な状況しか見えない。
 圧巻は、カタカナ用語への言い替えだ。「使用済み核燃料の再処理を含む核廃棄物の処理業務全般」をいとも簡単に「バックエンド」と言い替える。何の事やらさっぱり分からず、だから具体的な問題が非常に抽象的な問題に化けてしまう。

 そう、東京電力を始めとする原子力業界は化け物を作り出しているのである。
 更には、日本語も駄目にしている。「事故」や「トラブル」の代わりには「事象」を使うのだと言う。
・事象=出来事。
・事故=ふだんとは違った悪い出来事。
 多くの辞書が上のように説明している。「事象」には「悪い」が抜けている。
 『新明解国語辞典』は「事故」を「不注意などが原因で起こる人災」とまで説明している。
 「事象」は理屈っぽい辞書は「観察しうる形をとって現れる事柄」などと説明しているが、それでも「事故」は上記のような説明である。
 「事象」と「事故」が同じ意味の言葉だと言うのなら、頭が非常に悪いか、日本語が全く分からない人間である。そんな連中に危ない原子力などを扱わせる事は絶対に出来ない。

 私はすべてのマスコミにお願いしたい。原子力業界がこのような卑怯な言い替えをしたなら、マスコミはそれを元々の正しい意味に言い替えて表現して頂きたい。もしも「原発の老朽化について」と質問して、相手から「原発の高経年化につきましては」との答が返って来たら、即座に、「いや、私が聞いているのは高経化ではなく、老朽化についてだ」と強行に主張すべきである。「問題にしている内容が全く違うようなので、私の質問に答えられる人が答えて下さい」と言うべきである。絶対に妥協したり、引き下がってはならない。それが国民への義務である。

 ただ、マスコミは過去に差別用語の言い替えに賛同した経緯がある。それは単に表現をごまかしているだけで、内容は全く同じだと私は考えている。しかも「気違い」を「精神障害者」と言い替えるとなると、精神障害者はすべて気違いになってしまう。世の中には本当に「気違い」としか言いようの無い人間が存在する。刃物を振り回して人を殺傷したりする。そんな人間をなぜ我々と同じ人間扱いをするのだろうか。
 すべての事柄を適切に表現する言葉は存在し得ない。どこかしらに、少しくらいの食い違いがあるはずだ。普通からちょっとだけ外れた人間を「気違い」と呼ぶのがそもそもは間違っている。それは言葉使いの問題であって、もっと言うなら、その人の心の問題であって、単なる言葉の問題ではない。

 安易に言葉狩りに賛同してしまうマスコミに、原子力業界の卑怯な言葉の操作を非難する事を求めるのは、もしかしたら、とても困難な事なのかも知れない。

 

東京新聞の「小春日和」の問題

2011年12月03日 | 言葉
 東京新聞の「知っている? 知りたい コトバ 言葉」と言うコラムを私はいつも興味深く読んでいる。書いているのが校閲部の記者だ、と言う事もある。校閲と言うのは単に文章の表記に目を光らせるだけではない。内容にも十分に目を光らせている。言うならば、新聞の本質的な面が現れていると思っている。言い替えれば新聞の良識とも言える。

 さて12月3日は「小春日和」を取り上げている。以前に同紙のこの欄で「小春日和は晩秋から初冬にかけての暖かい日和のことなので、使い方に注意が必要と、書いた記憶がある」との文章で始まる。記者は英語での小春日和であるインディアンサマーが分からなくて恥ずかしかった、と書いている。
 そして日本では「春」を用いるのに、欧米では「夏」を使い、加えて「女性」で表現していると言う。ただ、日本でも沖縄では「小夏日和」と言い、「寒くなってからの暖かい日にそれぞれの思い入れを感じます」と記事を締めている。

 それぞれの思い入れと言っているが、その思い入れとは何だろう。春と夏と、言葉が違うのだから、それぞれに思い入れが違っていると考えるのは当然だろうが、それがどのような思い入れなのか、を考えなくては記事にはならないだろうと思う。
 私は咄嗟に、日本の夏と欧米の夏とは違うのではないか、と考えた。欧米の夏は、日本のような亜熱帯の酷暑の夏ではなかろう。
 そして、それ以前にこの記者が「小春」をどのように理解しているのか、と大きな疑問を持った。
 「小春」とは『新明解国語辞典』は次のように説明している。

・小春=[暖かくて、いかにも春らしい気分がする意]陰暦十月の異称。

 これは非常にまずい説明だ。この説明だと「陰暦十月=暖かくて、いかにも春らしい気分がする」となってしまう。陰暦の十月、現在の11月が、暖かくて、いかにも春らしい気分がする、などと言う馬鹿な事があるものか。
 『明鏡国語辞典』は「小春=陰暦十月の別称」で、「しばしば春に似た温暖な晴天が現れることから」と説明している。これが正しいはずだ。だからこそ「小春日和」と「日和」の言葉が付くのである。

 そして「日和」もきちんと考えるべきである。
 「日和」は「天候。空模様」の意味が第一に挙がっているが、多くの辞書が二番目として「晴れて良い天気」を挙げている。『新明解国語辞典』も「晴天」の意味の用例に「小春日和」を挙げている。つまり、同辞書でも「小春日和=陰暦十月の晴天」なのである。そして、「小春=陰暦の十月」だから、十二月や一月、二月に「小春日和」を使うのはおかしいはずである。

 欧米での「夏」を用いた言い方だが、記事が挙げているのは、
・ドイツ=老婦人の夏。
・ロシア=婦人(女)の夏。
・英国=聖マルタンの夏。
・米国=インディアンの夏。

 ドイツ語とロシア語は分からないが、英語を辞書で調べてみた。

・インディアンサマー=晩秋の暖かい日が続く時期。偽りの多いインディアンが送って来た夏で、夏だと思ったらすぐ寒い冬が来る、というのがこの句の起源。『新グローバル英和辞典』
・インディアンサマー=米国北部などの晩秋の暖かく乾燥し霞のかかった気候。『ジーニアス英和辞典』
・インディアンサマー=特に米国北部の晩秋・初冬の、温暖で乾燥し、かすみがかった気候。『グリーンライトハウス英和辞典』

 「聖マルタンの夏」はほとんどの辞書に無く、ただ一つ「聖マルタンの日」があったが、それは11月11日である。
 しかし『プロシード和英辞典』には「インディアンサマー」には次のような説明がある。

・インディアンサマー=アメリカ北部、カナダで10月から11月ごろにかけて一時的に暖かくなる期間に名づけられたものである。また、イギリスでも同じような現象が見られ、「聖マーティンの夏」と呼ばれている。

 イギリスでは女性の夏ではなく、男性である聖マーティンの夏、なのである。
 フランス語でもイギリスと同じく「聖マルタンの夏」で、『プログレッシブ仏和辞典』は「(11月11日の聖マルタン祭のころの)小春日和」と説明している。

 記事の言う「欧米では夏を使い、加えて女性で表現している」は挙げられているドイツとロシアの言い方ではそう言えるが、イギリスとフランスではそうは言えない。「夏」は共通だが、何の夏なのか、は国によってどうも違うらしい。

 英語でサマーを引くと、次のような説明がある。
 「通例、米国では6、7、8月、英国では5、6、7月とされ、最も快適な季節」。
 「美しい夏の日」は二冊の辞書に用例として挙げられている。つまり、「夏=美しい」が成立している。その夏が日本の夏とは違うのは明らかだ。日本なら、「美しい春」とは言うだろうが、「美しい夏」とは言わない。
 こうした事を考えれば、日本の夏と欧米の夏とが事情が異なる事が分かる。それはそれぞれの思い入れなどではなく、単に季節その物の違いに過ぎない。何しろ、一冊の辞書では、イギリスとアメリカでは「夏=最も快適な季節」なのである。

 女性の夏、聖マーティン(マルタン)の夏、インディアンの夏、に「女性を加えて」は通用しない。だから、沖縄ではなぜ「小夏日和」と言うのか、もきちんと考えるべきだろう。この記事は「単なる春と夏の違い」だと考えているようだが、だからこそ、校閲には新聞の良識が現れるのだ、と私は思っている。

オフレコとは何だろう

2011年12月01日 | 言葉
 防衛省の局長がオフレコの発言を取り上げられて更迭された。オフレコなのだから、公表した新聞は約束違反だと言う評論家も居るし、発言内容から言って、オフレコ破りは当然だ、と言う大学教授も居る。

 オフレコを国語辞典は「記録に残さないこと。公表しないこと」と説明している。だから記者会見などでオフレコだよ、と言うのは、公表しないで欲しい、と言っているに過ぎないのであって、何も絶対に公表しないと約束した訳ではないだろう、と私は思う。でも、長年、オフレコ=公表してはならない、と解釈して来たのなら、公表しては、やはり約束違反にはなるだろう。

 そうは言っても、オフレコにするような話とは一体何なのか。公表されては困る事で、記者の前で話す必要のある事とは、どのような事なのか。
 考えられる一つは、今公表しては成り行きから言ってまずい事があるだろう。だから、話さなければ良い。それをなぜ話すのか。
 東京新聞は「ニュースの深層に迫り、背景を正確に把握する目的がある」と言うのだが、それなら、話されなければ、記者はニュースの深層に迫る事も出来なければ、背景を正確に把握する事も出来ない事になる。そしてオフレコがそんなに安易に披露される訳が無い。

 この世の中は簡単に分かるようにはなっていない。オフレコの話を聞かなくても、ジャーナリストなら、ニュースの深層に迫り、背景を正確に把握するよう努力するのが仕事だろう。言うべきでない事は、聞くべき事ではないのだろうと私は思う。それをオフレコで聞かされたからと言って、どのように対処出来ると言うのか。

 オフレコと言うのは、非常に卑怯な考え方だと思う。隠して置きたいのだが、それだと良心が咎めてしまう。そこで、公表しないとの約束で自分を許してしまう。自分が卑怯なのだから、相手が卑怯な態度をとっても、怒る事は出来ないはずだ。
 破廉恥な事を、オフレコだとして口にするのも人のする事ではないだろう。沖縄県知事が口が汚れると言って、一切言及しなかったのは当然である。

 本当に、何で、こんな低俗な人間が公職に就いているのか不思議でたまらない。低俗な人間達ばかりが公職の重要なポストに就いているせいで、日本はいつまで経っても良くならないのだろう。
 オフレコ騒動で、問題の本質である沖縄の基地問題にほっかむりをしてしまった結果にもなった。結局、このオフレコは「ニュースの深層に迫り、背景を正確に把握する目的」を果たせなかった。オフレコを聞いても無駄になっただけに終わった。言うべきでない事は、聞くべきではないのである。