夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ブログがなかなか書けないお詫び

2011年07月04日 | 趣味
 今、私は万葉集に取り組んでいる。歌の中に専門的な解説書でもきちんと説明の出来ていない歌が幾つもある。その内の幾つかを取り上げて、自分なりに解釈を試みた。専門家さえ出来ていない事が素人に出来るはずが無い、とは言えないのである。専門家だから出来ない事もある。素朴な考え方が出来ないのである。それにメンツや学閥もある。自分ではそう思っていても口に出せない事があるらしい。その点、素人は気楽なものだ。ただ、私にはそれを本にしたいとの思いがあるから、気楽では出来ない。
 それで毎日のように考え直しているから、なかなか完成しない。仕事が無い時には朝から晩まで取り組んでいるから、ブログに取り組む時間が無い。テレビもほとんど見ないし新聞もあまりよく読まないから、書くネタも無い。今の所、無い無い尽くしなのだ。

 万葉集の学者が匙を投げている歌は本当に難しい。独断と偏見ではどうしようもないから、解説書の説明を引き、他の本の説明も引き、辞書にはこうある、と書かれていればそれを確認する。そうして自分なりにきちんと漢字の意味と言葉の意味を調べて論理を立てているつもりなのだが、どこかにちょっとした穴が開いていたりする。それはもちろん調べて埋めなければならない。
 そうした事を年がら年中していると、自画自賛ではないが、あれっ、俺って意外と分かってるじゃないか、なんて思ってしまう。だって、様々な本などよりもずっと高度の事を考える事が出来ている。でもうぬぼれは禁物だ。そして私は勝手な想像を自分に厳重に禁じている。あっ、これは面白いと思う想像が出来る場合が少なくない。しかし所詮は想像に過ぎない。それを確実に証明出来なければ単なる想像で終わる。
 けれども世の中にはそうした想像で終わって、しかも大胆な提言をしている本が少なくない。とても羨ましい。確証も無く、想像を史実だと言い切るその大胆さはとても真似が出来ない。「ではないだろうか」と一応は謙虚に言うのだが、どうしてどうして。そこには自信がたっぷりと盛り込まれている。

 こうした言い方は実に便利に使われている。自信があるのなら、「…である」と言い切れば良い。「…であると思う」でも「…であると考える」でも良い。しかしうそうではなく、「…ではないだろうか」とか「…ではないのではないだろうか」などと言われると、えっ、一体どっちなんだよ、と言いたくもなる。
 結局は自信が無い事を書いて買ってもらえる訳が無いのだから、「…ではないだろうか」は謙遜の言い方なのである。読者に判断を求めるような振りをして、つまりは結論がどんなにいい加減で曖昧で杜撰な結果であっても、その一つ一つが読者の判断を仰ぐような「…ではないだろうか」になっている事を通して、結局は読者に責任を押っ付けてしまうのである。
 なんて書いてしまった以上、私も今書いている原稿に「…ではないだろうか」が無いよう、もう一度見直す必要がある。でもそれをやっていると、またまた考え直し、書き直す必要のある所が見付かってしまうのだ。でも何とかして決定稿を作らないと切りが無い。そして早くブログを書かなけれぱ。