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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

贅沢な暮らしの人には政治は出来ない

2009年12月02日 | 政治問題
 今朝のテレビ朝日のニュースショーで、上記のような事を言っていた。話の趣旨は外交官特権の事で、大使のとても「おいしい」生活ぶりが暴露されていた。大使は部下の職員からは何と「閣下」と呼ばれているのだそうな。聞いて私は頭が「カッカ」としてしまった。大使を三年やれば家が建つとも。
 その話の中で三田薗氏がタイトルのような事を言ったのだ。
 それはそうだろう。政治には国民目線が要る。その目線が無いのだから。
 考えてみればすぐに分かる。この世の中にある富は一定である。金やダイヤモンドを産出したって、それを買う人間が居なければ何にもならい。その金やダイヤモンドがカネになる裏にはそれでカネを消費している人間が居る。
 富の基礎は労働だろう。自分の肉体と精神を使って働く。そこから生産された物が他人の手に渡って、その他人から自分が持っていない物を得る。これは物々交換だ。それをカネと言う名の道具を介して交換するようになった。ただそれだけの事である。
 それは等価交換によって成り立っている。だから特別にある人間だけが金持になれる訳が無い。なれると言うのは、他人の富を奪っているからに過ぎない。そんな事、簡単に分かる。
 昔、ある人が「花見の経済学」と言う事を言った。これは落語だ。二人の男が酒のかめを担いで花見客に売りに行く。途中で、Aが10文(もん)で一杯売ってくれと頼む。Bは酒をAに渡して10文もらう。今度はBがその10文でAから酒を買う。そうした事を繰り返して二人はへべれけになる。そこで、これだけ売り買いしたんだから、さぞかし儲かっただろうと考える。だが、当たり前だが、酒はからっぽ、あるのは行ったり来たりした10文だけ。
 一定量のカネをやりとりしているだけだから、儲かるはずが無い。だが、それを分からないように巧妙に隠しているのが現在の経済論理である。カネと言う本当は実体の無い物がその役割を果たしている。だから分からない。

 いくら搾取なんかしていない、と言ったって、一定しているカネが偏って存在するのはそれしか方法が無いではないか。体と頭を使った人間が、使わないでのほほんと暮らしている人間からカネを奪う事は当然の法則である。しかし現在の経済法則はそうではない。必死になって体と頭を使っている人間からも取り上げる法則になっている。
 それはもうそうなのだからどうしようも無い。結果として取り上げた事になる人間も、本人はそんな自覚などあるはずが無い。そして当然のように贅沢な暮らしをする。それが当然だと思っている人間に貧しい辛い生活が想像出来るはずも無い。

 現在の政治家はその多くが、金儲けがしたいとか、名誉が欲しいとかがその志望動機になっている。だから当然に国民大衆の目線なんか考えてもいない。その最も良い例が、先の大使などに現れている。そうした人間に大衆の目線に立った政治が出来る訳が無い。
 鳩山総理大臣には弟と共に年間1・8億円ずつが母親から渡っていたと言う。そんな人間が国民目線に立てる道理が無い。立てると本人が言ったってしょせん無理な事。それは音の聞こえない人に音を感じろと言うのに等しい。目の見えない人に色を感じろと言うに等しい。
 何も鳩山氏個人を非難しているのではない。それは彼の資質なんだからどうにもしようがない。だから政治家なんかやるべきじゃないのだよ、言っている。政治はボランティア活動と心得るべし。その活動に対して、無料ではあまりにも申し訳無いから、人様同様の暮らしが立つようにと、給料が与えられると言うのが本筋だと思う。
 だからボランティアを目指す人はそれだけの余裕も必要になる。金持が政治家になってどこが悪い、と言う論理になるのだろうが、一銭ももらえなくてもいいよ、との覚悟のある金持だけがその資格が有るのだ。そこまでやるには当然に国民目線の精神が必要になる。

 多くの人々が高い所から物を言っている。マスコミだけではない。一般人だってそうだ。あまりにも想像力に欠けている。高い所ではあるが、大局的見地ではない。そこが悲しい。原因は多分、私は頭で考えているからだと思っている。頭だけで考えている。そこには肉体が存在していない。だから何も実感が伴わないのだ。これは極論かも知れない。知れないが、間違ってはいないと思っている。

民主党政権の仕分け作業は素晴らしい

2009年11月28日 | 政治問題
 これは実に素晴らしい事だ。前代未聞の事である。今までどの政府も出来なかった、あるいはやらなかった事なのだから。やらなかった理由は明確だ。政府も省庁もぐるになっていたからだ。そこには国民のための政治なんてくそ食らえである。あるのは、自分達の都合しか無い。その「都合」は反省される事無く、延々と続いて来た。どんなに無駄な予算でも、余せば次は削られるからと無理に使う。そうした仕組みを一度根っから崩す必要がある。

 やり方が乱暴だと言う声もある。ある女性の役人は「私の言う事も聞いて下さいよ」と言って、その姿が何度も放映されて失笑を買っている。それはまことにみっともない姿だった。自分達の事しか考えていない。ノーベル科学賞を受賞したある科学者は自民党の会議で、科学分野での予算の削減は将来の夢を壊す事だと言っている。そうしたら、次にはそうした大科学者達が揃って、科学技術の発展を損なう、などと言い出した。
 そうだろうか。確かに夢は大切だ。夢から大きな花も咲く。だが、夢はあくまでも夢である。それと現実を計りに掛ける訳には行かないが、夢で人間は生きては行けない。
 人類の将来性を損なってはいけない。しかし現実の生活を損なってまで将来の夢に懸ける必要はさらさら無い。我々は将来のために生きているのではない。今、この現実を生きている。もちろん、将来の地球を損なうような「現実」を認めてはならない。だが、我々の大切にしている「将来」と、どうも科学者達が考えている「将来」にはギャップがありそうだ。科学者は自分の専門分野の「将来」だけしか見ていないのではないか。彼等が言う科学技術とは、どうも我々の生活とは離れた事のように思える。
 それにそんなに科学技術が進歩しなくたって、我々は現実に困らない。テレビの映像がどんなに精細になったって、肝心の内容がまるで進歩していなければ、何にもならない。むしろ反対に、映像の進歩に頼り過ぎて、内容を練り上げる事をおろそかにしている。
 それはテレビだけの話ではない。すべてがそうなのだ。すべてにおいて、内容よりも見た目だけが上滑りをしている。科学者達が言う科学の進歩にしても、それで日本の輸出に役立っているのか。
 技術が世界一で、その分野では世界の要求のほとんど全部を供給していると言う町工場がある。その町工場は、こうした科学者達が言う科学の進歩によってその技術を磨いたのではないだろう。
 介護の出来るロボットを開発するなどの事なら、誰も反対はしない。だが何の約に立つのか分からないような、「純粋の科学の進歩」と言うか、「科学と言う学問のための科学の進歩」なら、ひとまずは現実を優先にしてしかるべきだろう。

 省庁の役人もこの科学者達も自分の生活には不安が無い。だから夢に懸ける事が出来る。しかし現実には夢などはおろか、今この時点での生活に不安を覚えている人々がどんなに多く居るか。親の庇護の下に生きている青少年なら、自分の夢に懸けるのもいい。生活がきちんと成り立っている人なら、夢に懸けてもいい。だが、生活が不安な人間に夢に懸ける余裕は無い。
 多分、そんな事に関わっていては、日本の将来は無い、と言うのだろう。確かにそれは言える。しかし現実の日本人の現在の生活が成り立たない人々が居るのを無視してまでも、日本の将来を夢見る事が果たして健全な事なのか。科学とか技術とか、発展、推進、教育などなど、そういった言葉だけが、内容も吟味されずに大切だと言われている。みんな、言葉に騙されている。

 日本は世界で指折りの金持だと言うが、本当にそうなのか。我々は決して自分達が金持だなどとは思ってはいない。ウサギ小屋のような家に暮らし、何が裕福な国か。ODAの援助が削られた事に文句を言うが、そんな余裕があるのか。聞けば、JICAの役員が海外出張する時は、ファーストクラスだと言うではないか。そんな事が悠々と出来るから、日本は豊かだと思い込んで、他の国に援助を与えるなどと言うのである。

 我々はテレビで、省庁の役人根性まるだしのみっともない姿を見る事が出来ている。そこには特権に乗った自分勝手な考えしか見えない。その役人を応援する人々にも同じみっともない姿が見えている。しかし彼等はそれに全く気が付かない。そんな程度の人々にこの国を任せたらどうなるか。
 この仕分け作業の現場を見たいと大勢の人々が詰めかけている。子供でさえ、蓮舫議員の厳しい切り込みを見たいと言っている。こんな素晴らしい事がかつてあっただろうか。賛否両論あって当然である。何しろいまだかつてやられた事が無い事が起きているのだ。一番大事なのは、今まで秘密に処理されていた省庁の予算が白日の下に晒されて、国民がしっかりと見る事が出来る事だ。私はもっともっと過激にやるべきだとさえ思う。
 国防に関しても仕分け作業は切り込んでいる。それをとやかく言う人が居る。国防の名の下に何でも許されると思っている。これまた言葉に騙されているに過ぎない。国防はもちろん重要な事だ。その必要な経費を削れ、と言うのではない。無駄な経費を削れと言っている。それを「国防」の名によって聖域にしてしまう。何と、卑怯で汚い行為か。
 考え違いをしては困る。役人は、省庁は、我々国民のために存在している。それを、省庁のため、役人のために存在していると錯覚している。
 長い事ぬるま湯に浸かっているとそうなる。仕分け作業は我が国始まって以来の事なのだから、色々と不手際があったって当然である。自民党のベテラン議員でさえ、何でそれが自民党政権時代に出来なかったのか、と悔しがっている。国民の拍手喝采なのだから、これほど政権の有利になる事は無いだろう。まあ、政権の事はともかく、こんな素晴らしい事を尻つぼみにさせては断じてならない。これは国民が主導権を握れる絶好のチャンスだと思う。
 そう言うと、役人は、何も知らない国民に何が分かるのか、と尻をまくるだろう。そう、知らなくて良いのである。詳しい内情は知らないにせよ、無駄遣いが駄目な事は分かる。だから何が無駄遣いなのかを検証しようとしているのだ。馬鹿を言って、自分達の援護をするのはみっともない。
 ある自民党の高名な議員はこの仕分け作業を酷評している。自分がどんなに馬鹿に見えているのかも分からないで。かわいそうに、と私は思う。

「平和」を唱える事で戦争は無くなるのか

2009年10月30日 | 政治問題
 10月25日のブログ、kojitan's note「非武装中立はありえない」は、SANKEI EXPRESSの記事(政治部編集委員 野口裕之氏)を紹介している。その最後、「スイス政府が全国民に配布している冊子「民間防衛」を引用して、次のように結んでいる。

「自由と独立は断じて与えられるものではない。言葉や抗議だけでは決して守り得ない。手に武器を持って要求して、初めて得られるものである」

 私もそう思う。だが、新聞などでは、読者の投稿も含めて、「平和憲法を守ろう」と言う声が高い。確かに日本の憲法は素晴らしい理念を貫いている。

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 世界中が戦争放棄をすべきである、と誰かが言わなければいけない。本当は世界が力があると認めている「大国」のやるべき事だ。世界の指導者と自負しているのだから、当たり前の事である。
 だが、誰もやらない。アメリカもロシアも中共もやらない。それを日本は率先してやっている。しかしながら、その日本の言葉を一体、どれほどの国が、どれほど真剣に聴いているか。誰も聴いてやしない。世界中の国々が戦争放棄をしようと言い、実行し始めても、そうした世界中の国々は、自分の国だけは最後までそれをするべきではない、と思っている。思っていないのは、多分日本だけだろう。
 それをどの国も分かっているから、日本を甘く見る。北朝鮮などはその典型である。多くの日本人を拉致し、ミサイルを日本に向けて発射する実験をしているにも拘らず、日本政府は強い事が言えない。たとえ言ったとしても、侮られるだけだろう。何しろ、永久に戦争を放棄したのだから、実力行使には出られない。

 平和憲法を守ろうと言う人々は、たとえ外国が日本に攻めて来ても、戦わずに無条件降伏するのだろうか。性悪説だけでは世界は救われない。しかし本来は性善説のはずの宗教が、戦争を鼓舞しているではないか。そんなとんでもないのが世界なのだ。戦争放棄の提案は良い。しかしそれはきちんと勝てるだけの戦力を保持して言うべき事ではないのか。


石原都政はそんなに悪いのか

2009年10月12日 | 政治問題
 11日の日曜日の東京新聞の「本音のコラム」と題するコラムで、北海道大学教授の山口二郎氏が「都政の実像 暴くとき」の見出しで石原都政の批判をしている。
 どうも氏は石原氏がお嫌いらしい。オリンピックの招致で、「何よりも、アジア諸国の票を固められなかったことが、東京の自己中心ぶりを物語っている」とこきおろしている。
 でも、アジア諸国ってそんなに簡単に固められるものなんでしょうかねえ。私はアジアとヨーロッパの徹底的な違いは、アジアはまとまらない事にあると思っている。ヨーロッパなど、例えばクラシック音楽の作曲家など、ドイツもフランスもイタリアもスペインもハンガリーもチェコもロシアも、みんな似たような曲を作っている。他の国の音楽がもてはやされている。
 でもアジアはそんな事は無い。どの国もすべて個性的だ。排他的でもある。ヨーロッパがEUでまとまっても、アジアはAUなどでまとまりはしない。そんなアジア諸国の票を固めるってそんなに簡単に出来るのだろうか。
 南北アメリカにしても、ヨーロッパからの移民が多いのではないのか。だからまとまり易いだろう。

 「東京で集まる税金は東京だけのものではないのだ」と言う。更には次のようにも言う。
 「首都であるがゆえに、人も企業も金も集まる。私も東京に泊まるたびに、ホテル税を払わされている。東京が首都であることは、都民の努力とは何の関係もない。だから、東京で集まる税金は、東京だけではなく日本全体のために使わなければならない」

 東京で集まる税金を東京だけで使っているかどうかは知らない。しかし東京が首都であることは都民の努力とは無関係だ、とは言ってくれるじゃありませんか。私達都民は、何でもかんでも東京に集まって欲しいなどとこれっぽっちも思っていない。集まり過ぎて困っている。混雑するし、地価は上がるし、だから物価は高いし、物価なんて世界一だよ、いい事なんか無い。山口氏にも別に東京に来てくれ、なんて頼んじゃいない。来てくれなくて結構。東京に泊まってホテル税を払うなんてあったり前じゃないか。払いたくなきゃ、来なければよろしい。
 同氏はなにゆえに東京に来るのだろうか。東京に自分の仕事があるからではないのか。そうした人々のせいで東京は混雑しているのだ。
 同氏はコラムの最後に次のように言う。
 「今こそ、都政を私物化した独裁者の実像を暴く時である」と。

 都民の多くは石原氏を支持した。もちろん、当初の考え方が今もなおずっとそのまま続いているとは限らない。でも、もしも、我々の支持が今もなお続いているのだとしたら、同氏は我々都民に喧嘩を売っている事になる。
 「今までは石原知事に対して腫れ物に触るような対応をしてきた各種メディアも、落ち目となれば批判を始めるだろう。現に失政があるのだから、議会主義と言われようが、批判をした方がよいに決まっている」
 と言うのだが、確かにメディアは節操が無く、弱いものいじめが大好きである。しかしそれは本来あってはならない事のはずだ。そして同氏もまた節操の無いメディアと同じ事をしている。オリンピック招致の失敗をこれぞとばかりにはやし立て、非難している。
 更には「任期があと一年半となった今、石原都政の徹底的な検証を行い、失政に対する責任を追及すべきである」と言い、これが先のマスメディアの対応へと繋がる。
 残りが僅かになったから徹底的に検証をし、責任を追及すべきだ、と言うその考えが私には分からない。失政や責任はそれが分かった時点でやるべき事だ。山口氏は「よそ者が口出しするな、などと言わないでほしい」と言うが、もちろん、そんな事は言わない。ただし、追及すべきなのは、任期の残りが少なくなったからでは絶対にない。
 「落ち目となれば、批判を始めるだろう」との言葉に、私は唖然としてしまった。私は残念ながら同氏が以前から石原都政の批判をしていた事を知らない。知らないから、同氏も尻馬に乗って「落ち目の」石原都政を批判しているとしか思えない。

民意を反映出来ない現代の政治

2009年09月10日 | 政治問題
 今度の総選挙で、各党の得票率と獲得議席数が格段に違うのはフェアじゃない、と私は前に書いた。一つの選挙区で、例えば11万3千人の票は生かされて、11万人の票が死んでいる。死んだ11万人も同じように税金を払っている。一体、どうしてくれるんだ。
 2005年の郵政選挙では自民が棚ぼたで、民主が割を食った。今度はその逆になった。前に悔しい思いをしたんだから、今度はその雪辱だ、とばかりに民主は勢い付いているが、民主主義の基本を踏みにじって、それは成り立たない。
 昨日の東京新聞が、もしも完全比例区なら今回の得票で得られた議席数を算定している。それによれば、民主党は308のところが206になり、自民党は119のところが129になる。以下、公明党21が55に、共産党9が34に、社民党7が20に、みんなの党5が20に、国民新党3が8になる。結果として、民主は小党の票を食って肥え太った事になる。
 きちんと比例に応じて議員が選出される方が絶対に民意を反映出来るはずだ。
 前回、私は小選挙区(300議席)だけでこの計算をして、自民が116、民主が142の数字を得た。それとこの480議席での比率は合わないが、それでも、死に票が多いのは同じである。
 誰もがそんな事は当然に知っているのに、結局、民意などではなく、第一位の政党の思惑が優先されて、現在の制度になっている。

 誰かが言っていたが、政権公約の中身が問題なのではない。そんなのはどの党にしたって、国民の幸せとの観点からは同じになるはずなのだ。違うと言うのなら、それは国民の幸せとは違った事を考えている証拠である。だから、正しくは国民の幸せを実現する具体的な方法に少しばかりの違いがあるに過ぎない。
 けれどもつまらない事に、政権公約の違いでしか訴える事が出来ないから、そしてマスコミもそれに乗るしか能が無いから、何か空手形のような格好だけ良い公約が一人歩きをしている。国民の幸せで、その公約に漏れている事があって、その公約を掲げた政党が政権を担当する事になれば、その国民の幸せは無視される訳だ。
 そもそも、単独で過半数を取れるような仕組みがおかしい。それほどまでに一つの政党に魅力があるのか。250人以上もの人々が同じ理想に燃えているとでも言うのか。そんな事をしているから、長い間、自民党が勝手な事をして来たのではないか。それは一つのファシズムだ。独裁だ。
 そうではなく、様々な人々の色々な意見を持ち寄って、多くの人々が幸せになる政策を考え出すのが当たり前の事ではないか。本当は民主党など、真っ先にこうした提言をすべきだろう。過半数を取っている今だからこそ出来る。しかし現実には自分可愛さに真実が見えなくなっている。
 正しく無い仕組みで選ばれた正しく無い議員とその政党が、一体どのようにして正しい世の中を作る事が出来るのか。
 政権交代なんか要らないのだ。交代すべきは政権ではなく、議員達その物なのだ。同じような考えと性格の議員が、ちょっとばかり毛色の変わった政党に属しているからと言って、全く異なる政治が出来るはずが無い。
 小選挙区制だからなのだが、今回大物政治家が相次いで落選しているのは、政治家の交代こそが必要なのだ、と国民が考えた結果だろう。中身が変わらずに本質が変わる訳が無い。そうした点では、今回の民主党政権も我々は決して安心などしていてはいけないのだと思う。しっかりと両目を見開いて、民主党のやる事を見詰めている必要がある。

与党と野党の違いとは

2009年09月08日 | 政治問題
 先日、与党と野党の違いは「よ」と「や」の違いだ、と漫画を引いての話をした。私は「よっ」と挨拶する党と、何でも「やだ」と言う党の違いだと書いた。そしてつくづくと考えて、それは単に政権党とそうではない党だと言う事に改めて気が付いた。抜けているとは思うが、野党にはもっと大きな意義を感じていたのだ。
 「自民」と「民主」としても、「自由民主党」と「民主党」だ。単に「自由」が有るか無いかの違いじゃないか。そう、面白い事には「自民党」の方に「自由」があるのだ。
 「芸能人」と「芸人」の違いって知ってますか?
 いい加減な表記辞典は「芸人」は「芸能人」の差別用語だ、などととんでもない事を言っている。「芸人」と「芸能人」を比較すれば、絶対に「芸人」の方が優れているのである。でもいい加減な表記辞典は馬鹿だから、「芸人」は「能」が無いから差別用語だ、と言うのである。と、これは冗談。
 でも、この冗談とそっくりなのが、「自由民主党」と「民主党」だと私は思っている。

 昔の日本の政治では、多くの場合に、「与党=保守党」「野党=革新党」の構図があった。自由党と社会党など、典型的なケースだ。違う表現をすれば、右翼と左翼である。右翼・左翼の言い方は、昔、フランスの議会で、議長席から見て右側に保守的な政党が、左側に革新的な政党が席を占めていた事からである。
 そのスタイルが日本でも踏襲され、昔は与党=右翼だったから、右側が与党席になっている。それで、今度は与党になった民主党が右側の席を占める。と言う事は、民主党が右翼になったのである。と、これは単に言葉の遊びだが、もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。
 自民党は初心に戻って出直す必要があり、今までとは打って変わった路線になる可能性もある。だが、民主党は政権を守るために、案外と保守的になる可能性もある。そう、日本人は意外と保守的なのだ。国ががらっと変わる事に恐れを抱いている面が多分にある。

総選挙はやはり党を選ぶ選挙だった

2009年09月02日 | 政治問題
 民主党の圧勝で、多くの人々が半信半疑らしい。政権交代は望む所なのだが、それが果たして民主党の圧勝で達成出来るのか、と多くの人々が疑ってかかっている。中には、300以上もの議席を取ってしまった事が困った事になる、と考えている人も居る。自民とどっこいどっこいくらいで勝っていたのなら、自民の考えも取り入れながら政策を決めるのだが、圧倒的に有利なので、思い通り、もっと言うなら自分勝手になって、そこから慢心し、党内に我こそは、と思い上がる人が出現するだろう、との見方である。
 元々が寄せ集めの観のある政党だから、そうなったら分裂の危機があると言う。

 結局、民主党と言う存在が大きな力を持つ事になる。党員としての議員が力を持つのではない。議員一人一人が力を持つのであれば、誰も心配などしないだろう。一人一人なら常識が保てる。だが、党と言う一人一人の意見を抹殺するような存在が力を持つから多くの人々が心配をするのである。
 我々は個人としての候補者に投票をしたつもりである。だが、選ばれたのは個人であって個人ではない。結果として党を選んだ事になってしまうのである。個人としての議員であれば、自民党のA氏と民主党のB氏がほとんど同じ考えである事は実際にある。だが、党としてなら、A氏とB氏はまるで正反対の立場に立たされてしまう。
 議員は党の方針に逆らう事が出来ない。だから渡辺喜美氏は離党した。議員を選ぶのだと言いながら結果としては党を選んでいるような選挙が果たして正しい選挙と言えるだろうか。

 小選挙区で見れば、選んだ議員の所属政党としては、民主対自民は100対82なのに、選ばれた議員の数は100対29になってしまう。そんなの絶対に正統な選挙とは言えない。世間は10対8の割合で民主党を支持したのである。それで政権交代は出来る。民主党が勝ち過ぎる事は望んでなどいない。それほどの信頼はまだしていない。それが実際の獲得票数として現れているのだ。
 だからこそ、多くの人々が安心しきってはいないのである。心配の目で見ているのである。今日の東京新聞には民主党政権に42%が「評価保留」とある。民意が正確に反映されたとは言えないのだから当然だ。民主党の幹部はどれほどその事を真剣に考えているのだろうか。

民主圧勝は面白い現象だが、変だ

2009年08月31日 | 政治問題
 自民党と民主党の勢力は、まさに選挙前の裏返しになった。
 それが変だ、と言うのはどの選挙でもそうだが、得票数と当選数がまるで合わないからだ。
 小選挙区では今回の民主党の獲得票数は47.41%。定員300に対するその割合は142。同じく自民党は38.68%で、116。
 それが民主221、自民64。民主は79も多いし、自民は52も少ない。
 そうした計算を全部の党と無所属に対してしてみる。きれいに表組にしたのだが、プレビューで見るとメチャクチャになっている。タブが使えないのだ。そこで/で区切った。
党名     得票数%/相当議席/獲得議席
民主     47.41% /142/ 221
自民     38.68%/116/ 64
公明     1.11%/ 3 /0
共産     4.22%/ 13/0
社民     1.94% / 6 /3
みんなの党  0.87% / 3 / 2
国民新党   1.03% / 3 / 3
日本新党   0.31% /1 /1
改革クラブ  0.05%/ 0/ 0
諸派     1.52% /5 / 0
無所属    2.81% / 8 / 6
合計      99.95% / 300 / 300
 得票数は小数点第3位以下切り捨てなので、合計が100にはなっていない。相当議席は小数点第1位以下四捨五入している。
 最も割を食っているのは自民党である。得票数の55%しか議席に結び付いていない。次いで共産党と諸派だ。ほとんどが損をしている。それに比べて民主党は棚からぼたもちになっている。得票の155%にもなっている。

 小選挙区制は確か自民党の主導で出来たはずだ。小選挙区制にすれば、今回の民主党と同じく、棚ぼたになる。
 結局、人を選ぶのではなく、政党を選んでいる。世の中は「政権交代」だと叫んでいるが、単に政党交代なのである。人ではなく党が政治をやっているから、自民党の政治が敗北したのである。今度はそれが単に民主党に代わったに過ぎない。これまた人ではなく党が政治をやる恐れがある。フレッシュな議員が多いが、果たしてそうした純真な議員が信念を貫けるか。政党が政治をするなら、今までの自民党と全く同じ結果になるのではないか。
 庶民は民主党の政権奪取に不安も持っている。自民党は駄目だ、代わりは民主党しか無い。そうした選択肢が果たして民意なのだろうか。

 それぞれの選挙区での候補者の得票数を政党別に全国水準で上から順に並べる。あるいは得票%でもいい。民主党は142人まで、自民党は116人までが当選者となる。そうすれば、本当に支持者の数に応じた当選者を決める事が出来るはずだ。
 政党を無くす事が出来ないのなら、せめてそうやって公平な選挙を目指すべきではないだろうか。地元との結び付きが断たれる事も多いが、地元の利益を目標に掲げる事がそもそもは国政にはふさわしくない。そんな事をするから利権が発生するのだ。
 もちろん、地元に目を向ける必要はある。だが、それは国家レベルで考えるべき事であって、鈴木宗男氏が地元で評判が良いのは分かるが、それをやっちゃあ、国政はメチャクチャになる。
 一票の格差が問題になるが、それは人口密集地と過疎地だけの問題ではない。例えば東京16区では約12万8千人の人々の意見は通ったが、約11万4千人の意見は無視されたのである。そんな事は全国至る所で発生している。これが公明正大な選挙と言えるのだろうか。

政権交代は必要だが、何とも不安でたまらない

2009年08月28日 | 政治問題
 今度の総選挙で、民主党圧勝の見方が多い。それはそうだろう。あれだけいい加減な自民党政治を見ていれば、誰だってそう思う。でも、そうした思い方が遅過ぎたのではないか。
 そこで民主党の登場となるのだが、多くの人々がそれに対して不安を持っている。私だって大いに不安だ。だって、民主党は寄せ集めの政党なんだから。
 多くの人々は自民党はもう駄目だ、でも次に期待出来る政党が無い。あるとすれば民主党しか無い。そんな消極的な思いで民主党に期待を寄せているのである。
 だが慢心している民主党はそれに気が付かない。阿呆と言うしか無い。
 自民党は駄目、民主党も駄目、公明党はもちろんの事、共産党も駄目。社民なんて今や全く力を持たない。どこをどのように見渡したって、期待出来る政党なんか無いじゃないか。
 そう、政党に期待するからそうなる。政党は確かにまとまっての力はある。政治制度がある程度のまとまりのある政党だけを認める方式なんだから、政党でないとどうにもならない。だが、政党であるからこそ、そこには多くの矛盾がある。
 個人としての意見は通らない。どんなに良い意見であっても、党として賛成出来なければ、没になる。民主主義なんて言っているがファッショとも言いたくなるような政党のどこに民主主義があると言うのか。たとえ、ファッショではないよ、と言っても、「党として」が民主党はいかにも曖昧である。何しろ、もと自民党出身者だって居るのだ。そんな党が一つにまとまる訳が無い。
 そうした事を国民は敏感に感じ取っているから、民主党が圧勝するとは思っていても、それで良し、とはしていないのだ。

 私は以前から政党なんか要らない、と考えている。政党としてまとまってしまうから、自由な考えが抹殺されるのである。「党」と言う非人格がしゃしゃり出て来るのである。人格を持たないから、どのような理不尽な事でも出来るのである。
 そうではなくて、本当に小さな党、あるいは個人としての議員が集まって政治を行えば、つまらない「党の方針」などは無いのだから、それぞれ個人の思いを主張出来る。そこには人間としての本音があるはずだ。それが無いなら、もはや人間でもないのだから、当然に議員にもなれない。
 今の政治は言うなれば、狸の団体同士の騙し合いに過ぎない。狸だって、本当はもっといい奴だと思う。それが狸団体に入ってしまったがために、くだらない存在に落ちてしまっている。

 私は今度の選挙で既に投票する人を決めていると書いた。党名を連呼する奴らなんて糞食らえである。党がそんなにも良いのか。党とあんたとどっちが優秀なんだ。多分、党の方なんだろうね。
 テレビの「ナニコレ珍百景」で94歳の女性が家から大分離れた所の風呂を無料で開放している話があった。腰が直角に近いくらいに曲がっているお年寄りである。それでも、人のために無料で風呂を沸かしている。そんな国会議員が居るか。結構な給料を頂いて、しかも名誉も伴っている。なんせ、JRは只で乗れるらしい。
 それなのに、この94歳の庶民の女性に完全に負けている。それが国民の代表である国会議員なのである。この94歳の女性の出来が良過ぎるのだが、国会議員が出来が良過ぎて何が悪いか。まあ、私は無理な事を言っている。名誉や欲得を目的に登場している連中にそんな事を望むのが間違っている。
 でも、中にはこの94歳の女性と同じ心意気を持っている候補者が居るはずなのだ。そうした人を我々はどうやって探し当てる事が出来るのか。そして、そうした人はどのように訴え掛けをしているのだろうか。
 ナニコレ珍百景の出演者に、涙が出た、と言う人が居た。悲しい事に、現在の候補者の中に涙を誘うような人が居ない事だけは確かである。

選挙戦が始まった

2009年08月19日 | 政治問題
 うるさい選挙カーが走り回っている。能無しの連呼と他党の批判。批判なんて、○○党は駄目です、なんて言ったって、何の効果もありゃしない。それよりも、どうせうるさいのなら、自分の公約をきちんと述べればいいのに。もっとも、眉に唾して聞いている人の方が多いと思うけど。
 知り合いに聞くと、もう投票する人は決めてある、と言う人が多い。そう、普段からの行動で大体の事は分かっている。この時とばかりに素晴らしい事を言っても、それが本当に出来そうかどうかくらいは、既に想像が付いている。私ももう決めてある。
 だから無駄な努力を、とも思うが、まあ、決めかねている人も居る事だろうから、そうした人にとってはいいのかも知れない。でも、選挙カーの騒音(失礼)を聞いて、得る所があるのだろうか、と人ごとながら心配になる。まさか、うるささで印象に残った人に投票するなんて事は無いでしょうね。

 折から新型インフルエンザでの死者が3人となった。いずれも何らかの病気を持っていた人だから、インフルエンザが原因とは言い切れないが、用心に越した事は無い。病気で体が弱っている人が狙われる訳で、そう言えば、選挙も思考の弱っている人を狙って宣伝を繰り広げているような気がする。
 言い過ぎでしょうかね。
 でも、本当に「ああ政権が交代したんだなあ」と思えるような政治体制になって欲しいと思う。自民党と民主党の連立を望んでいる人も多いようだけど、と言う事は、どちらにも信頼が置けないって言う事でしょうね。でも頼みに出来る所は無い。どっちも駄目で、だから仕方なく、と言う事だろうと私は思っている。
 選択肢の無い選挙なんて、本当につまらない。日本を背負って立つような人を社会が育てて来なかったのだから、今更言っても始まりませんが。