今朝のテレビ朝日のニュースショーで、上記のような事を言っていた。話の趣旨は外交官特権の事で、大使のとても「おいしい」生活ぶりが暴露されていた。大使は部下の職員からは何と「閣下」と呼ばれているのだそうな。聞いて私は頭が「カッカ」としてしまった。大使を三年やれば家が建つとも。
その話の中で三田薗氏がタイトルのような事を言ったのだ。
それはそうだろう。政治には国民目線が要る。その目線が無いのだから。
考えてみればすぐに分かる。この世の中にある富は一定である。金やダイヤモンドを産出したって、それを買う人間が居なければ何にもならい。その金やダイヤモンドがカネになる裏にはそれでカネを消費している人間が居る。
富の基礎は労働だろう。自分の肉体と精神を使って働く。そこから生産された物が他人の手に渡って、その他人から自分が持っていない物を得る。これは物々交換だ。それをカネと言う名の道具を介して交換するようになった。ただそれだけの事である。
それは等価交換によって成り立っている。だから特別にある人間だけが金持になれる訳が無い。なれると言うのは、他人の富を奪っているからに過ぎない。そんな事、簡単に分かる。
昔、ある人が「花見の経済学」と言う事を言った。これは落語だ。二人の男が酒のかめを担いで花見客に売りに行く。途中で、Aが10文(もん)で一杯売ってくれと頼む。Bは酒をAに渡して10文もらう。今度はBがその10文でAから酒を買う。そうした事を繰り返して二人はへべれけになる。そこで、これだけ売り買いしたんだから、さぞかし儲かっただろうと考える。だが、当たり前だが、酒はからっぽ、あるのは行ったり来たりした10文だけ。
一定量のカネをやりとりしているだけだから、儲かるはずが無い。だが、それを分からないように巧妙に隠しているのが現在の経済論理である。カネと言う本当は実体の無い物がその役割を果たしている。だから分からない。
いくら搾取なんかしていない、と言ったって、一定しているカネが偏って存在するのはそれしか方法が無いではないか。体と頭を使った人間が、使わないでのほほんと暮らしている人間からカネを奪う事は当然の法則である。しかし現在の経済法則はそうではない。必死になって体と頭を使っている人間からも取り上げる法則になっている。
それはもうそうなのだからどうしようも無い。結果として取り上げた事になる人間も、本人はそんな自覚などあるはずが無い。そして当然のように贅沢な暮らしをする。それが当然だと思っている人間に貧しい辛い生活が想像出来るはずも無い。
現在の政治家はその多くが、金儲けがしたいとか、名誉が欲しいとかがその志望動機になっている。だから当然に国民大衆の目線なんか考えてもいない。その最も良い例が、先の大使などに現れている。そうした人間に大衆の目線に立った政治が出来る訳が無い。
鳩山総理大臣には弟と共に年間1・8億円ずつが母親から渡っていたと言う。そんな人間が国民目線に立てる道理が無い。立てると本人が言ったってしょせん無理な事。それは音の聞こえない人に音を感じろと言うのに等しい。目の見えない人に色を感じろと言うに等しい。
何も鳩山氏個人を非難しているのではない。それは彼の資質なんだからどうにもしようがない。だから政治家なんかやるべきじゃないのだよ、言っている。政治はボランティア活動と心得るべし。その活動に対して、無料ではあまりにも申し訳無いから、人様同様の暮らしが立つようにと、給料が与えられると言うのが本筋だと思う。
だからボランティアを目指す人はそれだけの余裕も必要になる。金持が政治家になってどこが悪い、と言う論理になるのだろうが、一銭ももらえなくてもいいよ、との覚悟のある金持だけがその資格が有るのだ。そこまでやるには当然に国民目線の精神が必要になる。
多くの人々が高い所から物を言っている。マスコミだけではない。一般人だってそうだ。あまりにも想像力に欠けている。高い所ではあるが、大局的見地ではない。そこが悲しい。原因は多分、私は頭で考えているからだと思っている。頭だけで考えている。そこには肉体が存在していない。だから何も実感が伴わないのだ。これは極論かも知れない。知れないが、間違ってはいないと思っている。
その話の中で三田薗氏がタイトルのような事を言ったのだ。
それはそうだろう。政治には国民目線が要る。その目線が無いのだから。
考えてみればすぐに分かる。この世の中にある富は一定である。金やダイヤモンドを産出したって、それを買う人間が居なければ何にもならい。その金やダイヤモンドがカネになる裏にはそれでカネを消費している人間が居る。
富の基礎は労働だろう。自分の肉体と精神を使って働く。そこから生産された物が他人の手に渡って、その他人から自分が持っていない物を得る。これは物々交換だ。それをカネと言う名の道具を介して交換するようになった。ただそれだけの事である。
それは等価交換によって成り立っている。だから特別にある人間だけが金持になれる訳が無い。なれると言うのは、他人の富を奪っているからに過ぎない。そんな事、簡単に分かる。
昔、ある人が「花見の経済学」と言う事を言った。これは落語だ。二人の男が酒のかめを担いで花見客に売りに行く。途中で、Aが10文(もん)で一杯売ってくれと頼む。Bは酒をAに渡して10文もらう。今度はBがその10文でAから酒を買う。そうした事を繰り返して二人はへべれけになる。そこで、これだけ売り買いしたんだから、さぞかし儲かっただろうと考える。だが、当たり前だが、酒はからっぽ、あるのは行ったり来たりした10文だけ。
一定量のカネをやりとりしているだけだから、儲かるはずが無い。だが、それを分からないように巧妙に隠しているのが現在の経済論理である。カネと言う本当は実体の無い物がその役割を果たしている。だから分からない。
いくら搾取なんかしていない、と言ったって、一定しているカネが偏って存在するのはそれしか方法が無いではないか。体と頭を使った人間が、使わないでのほほんと暮らしている人間からカネを奪う事は当然の法則である。しかし現在の経済法則はそうではない。必死になって体と頭を使っている人間からも取り上げる法則になっている。
それはもうそうなのだからどうしようも無い。結果として取り上げた事になる人間も、本人はそんな自覚などあるはずが無い。そして当然のように贅沢な暮らしをする。それが当然だと思っている人間に貧しい辛い生活が想像出来るはずも無い。
現在の政治家はその多くが、金儲けがしたいとか、名誉が欲しいとかがその志望動機になっている。だから当然に国民大衆の目線なんか考えてもいない。その最も良い例が、先の大使などに現れている。そうした人間に大衆の目線に立った政治が出来る訳が無い。
鳩山総理大臣には弟と共に年間1・8億円ずつが母親から渡っていたと言う。そんな人間が国民目線に立てる道理が無い。立てると本人が言ったってしょせん無理な事。それは音の聞こえない人に音を感じろと言うのに等しい。目の見えない人に色を感じろと言うに等しい。
何も鳩山氏個人を非難しているのではない。それは彼の資質なんだからどうにもしようがない。だから政治家なんかやるべきじゃないのだよ、言っている。政治はボランティア活動と心得るべし。その活動に対して、無料ではあまりにも申し訳無いから、人様同様の暮らしが立つようにと、給料が与えられると言うのが本筋だと思う。
だからボランティアを目指す人はそれだけの余裕も必要になる。金持が政治家になってどこが悪い、と言う論理になるのだろうが、一銭ももらえなくてもいいよ、との覚悟のある金持だけがその資格が有るのだ。そこまでやるには当然に国民目線の精神が必要になる。
多くの人々が高い所から物を言っている。マスコミだけではない。一般人だってそうだ。あまりにも想像力に欠けている。高い所ではあるが、大局的見地ではない。そこが悲しい。原因は多分、私は頭で考えているからだと思っている。頭だけで考えている。そこには肉体が存在していない。だから何も実感が伴わないのだ。これは極論かも知れない。知れないが、間違ってはいないと思っている。