千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

創作 きぃちゃの夏 (後編)

2011年09月15日 | 日記



 ぺこりと頭を下げたが、お婆さんは気がつかないようだった。
 照れくさくなって、きぃちゃはその場を離れた。

 よく磨かれた玄関口。右手の広い板の間では、女衆が料理の盛りつけをしている。
 奥のほうに、みんじゃ(水場)が見える。二つ並んだ竈には、大鍋から湯気が沸いていた。
 大勢の人たちがいて、賑やかさは、きぃちゃの家とは違う。夕方前に出てきたばかりなのに、おっかさまが一人で、てんてこ舞いをしている姿がふっと浮かんだが、すぐに消えた。
 従姉妹たちが、板戸の向こうから覗き見をしている気配を感じたのである。
 みんなが、お盆用の単衣に三尺を締めている。男の子はずいぶん年長の子もいて、座敷の隅で、何やら固まって話し込んでいた。
 はじめて見るいとこたち。硬くなったままで立ち往生していると、おとっつぁまに呼ばれた。

 中座敷と、襖を取り払った奥座敷に、塗り膳が並べられていた。お客は大人と子供で、20人以上はいただろうか。あとはこの家の家族みたいだった。お婆さんの姿は見えなかった。
 きぃちゃは、慣れない席で縮こまっていたので、お盆ごっっおの棒鱈の煮付けぐらいしか覚えていない。

 夕食が済むと、弓張り提灯を提げて、村の鎮守様に向かった。石の階段を登ると、祭礼の提灯がたくさん吊されていた。太鼓の音が、トロンコ、トント ンと鳴り響いていた。屋台店が出て、人が大勢集まっていた。境内の仮舞台で何かやっていたが、はっきりとした記憶はない。人の集まる所は、気持が浮き浮きした。村の家々の軒先に、祭礼の提灯が吊され、子供ながらも楽しい気分となった。おとっつぁまが手を引いてくれる、嬉しさもあった。

 夜眠るとき、広い座敷におとっつぁまの姿はなく、知らない人ばかりの間に寝かされて、寂しくなった。緑色の大きな蚊帳が座敷いっぱいに吊られ、大人も子供も一緒だった。寂しいと思いながら、きぃちゃはいつの間にか眠った。
朝になったら、同じ蚊帳の中に寝た、従姉妹たちと親しくなっていた。枕の投げっこもやったし、きゃあきゃあ騒いだ。

 庭に出て、木登りもした。太い幹によじ登って、「いっさん、がっさん」と、木の葉の揺さぶりっこをするのだ。木の幹から、幹へと、よじ登るのは きぃちゃのお得意であった。欠ノ上の家の裏手は、林になっていて、なだらかなスローブが、山際へと続いていた。単衣の裾を折って、三尺にはさんで、たくみ に登った。
「女っこのくせに」と注意されることもなく、大人たちの眼が行き届かない場所で、隠れんぼをしたり、従姉妹たちと楽しい時間を過ごした。


 きぃちゃの家の裏手に、桃の木があった。熟れると、黄色く透き通ったようになり、甘酸っぱい匂いを漂わせる。おじじさまが木に登って、竹棒で叩くと、筵を敷いた上に、ポトポト落ちる。それを笊に集めるのが子供たちの役目だった。梅の実くらいの桃は、大木となり、土蔵の屋根を塞ぐように、たくさん実った。 隣近所に配って歩いたほどだ。
 夏の暑い日、乾いた土蔵の屋根に、兄妹で上がった。歩くと、コバ屋根がビシビシと音を立てて、昼寝中のおじじさまに怒鳴られた。
「子供が、何悪さしているがだ。落ちたら、骨が折っぽしょれるか、死むぞ」
 桃の実を収穫する日が待ちきれず、兄ときぃちゃで、木をよじ登って、屋根に上がったのだ。悪いことをして、見つからないときもある。
 悪さをすると土蔵にぶち込むぞ、がおじじさまの口癖だった。

 秋になると、天井高く、ピラミッドのように積まれた米俵が誇りだったし、「米」という印半纏を着た仲買人たちがやってくる。手土産に、蜜柑袋を抱 えてくるので嬉しかった。おじじさまや、おとっつぁまに、低姿勢で、ペコペコと頭を下げていた。共産主義の小作人たちが、年貢を負けろ!と談判している姿も見た。三つあった土蔵は、権威の象徴であったが、反面、暗くて怖い場所でもあった。
 きぃちゃは、何度か怖い土蔵に入れられた。



 西瓜や甘瓜が美味しかった。
「いっぺえこと、あがらっしゃい」
 欠ノ上のおかかが、温かい言葉でもてなしてくれた。
 きぃちゃの村は山地なので、畑に西瓜や甘瓜などあまり作らない。
 帰りの土産に、甘瓜を貰った。
 おとっつぁまと、またはなしが出来る。きぃちゃは昨日より、もっと嬉しい。
 余川にさしかかったとき、おとっつぁまは、「両頭の蛇」の話をした。

 文政10年8月20日のことだそうだ。
 六日町在の余川村の百姓、太左エ門は、軒端に両頭の蛇がいるのを見つけて、捕まえた。長さ一尺(約30㌢)にも足らなかったが、頭は2つ並んで枝分かれをしている。色も形も普通の蛇と変わらない。
 古い箱に入れて、餌も置いたが、2、3日たって中をのぞいた時には、すでに姿はなく、あたりを探してみたが、ついに見つからなかったという。

 欠ノ上あたりでも、昔話として伝わっているそうだ。
「へっぺが、二つの頭を持ってるがだと。おっかなくねえか」
 おとっつぁまがからかったが、頭を振った。
「おら、ちっともおっかねくねえ」
 きぃちゃは、蛇を見ても怖くないし、平気だった。
 風もなく、汗でじっとりしていることも忘れていた。


 その年の秋のことだ。
 学校帰りのきぃちゃは、駅前で、おとっつぁまに出会った。
 用があって、湯沢に出かけるという。
「ちっと、待ってろ」
 少し待たされたきぃちゃの前に、紙袋を差し出した。今川焼きの、おいしげな匂いがする。
「いいか、家に帰って、みんなで食え。途中で、一つくらいは食ってもいいぞ」
 おとっつぁまに言われたように、合わせの袖の中に、紙袋を入れた。一つ頬張りながら歩いて、また一つと、家に帰るまで全部平らげてしまった。
 おとっつぁんに合わせる顔がなかったが、夜になって帰宅しても、何も言わなかった。
 きぃちゃは、あとで何度も思いだした。
 おとっつぁまは、気がついて黙っていてくれたのだろうかと。
 
 誰にも云えないみっともない秘密は時たま思い出す。
 だが大概忘れていて、勉強も体育も得意な少女に育った。
 書道で金賞をもらった記念写真を大切にしてきたことも付け加えておく。  

                                                                  (完)

 文中、田村賢一訳著『北越雪譜物語』より、「両頭の蛇」を引用した。


 朝の花 ヌスビトハギ(マメ科)





 朝の山







創作 きぃちゃの夏  (前編)

2011年09月13日 | 日記

  
「おい、きぃちゃ、欠ノ上に連れていぐぞ」
 朝からおとっつぁまに言われて、きぃちゃは嬉しくて仕方がなかった。
 夕方までの、日の長いこと。
 おっかさまに、よそ行きの銘仙の単衣に、赤いメリンスの三尺をしめてもらった。赤いポンポン下駄が、土間の隅に置かれている。
 おとっつぁまと出かけるなんて、はじめてのことだ。

上越北線塩沢駅から、隣の六日町駅まで、5時過ぎの汽車に乗った。
 たった一駅でも、もっと乗っていたいときぃちゃは思った。
 清水トンネルが出来、上越線が開通する少し前のことである。

おとっつぁまは、白絣の単衣に角帯を男結びに締めて、尻紮げをし、白い絞りのステテコ姿。カンカン帽子に駒下駄を履いていた。めったに見ることのない出で立ちだった。土産物を風呂敷に包み、背負った。

  欠ノ上は、六日町の西山沿いの農村である。六日町駅前から左手の小路を歩き、踏切を越えて、余川という村に入って行く。道筋に家らしきものはなかった。
 歩きながら、おとっつぁまはぼそぼそと話し出した。
「欠ノ上から町に出てきて、酒造りの手伝いをしてみたども、勤めは上手くいかんかったすけ辞めた。その酒蔵に、俺の姉御が嫁に行った。お前ぐらいの娘がいるよ」

 家にいるときのおとっつぁまは、滅多に子供と接することはなく、いつも仕事着で農作業をしていた。桐箪笥二竿を抱えて入り婿になったが、箪笥の衣類を身につけるのは、滅多にないことであった。
 生家に盆泊まりに行ける日だけが、心身ともに解放できる日であったのだろう。
 おとっつぁまは、代わる代わる弟妹を生家に連れて行った。
「男は一晩で帰るべし。」生家への盆泊まりは、一晩と決めていた。

 きぃちゃの上に先妻の娘がいたが、4歳で母親と死に別れた。死んだ母親の従妹が、17歳で後妻に来た。兄を産み、きぃちゃを産み、妹や弟、合わせて6人も生まれる。
 入り婿のおとっつぁまと、後妻に来たおっかさま。富農の家付き娘として、姉様は、祖父母の溺愛もあって、我が儘なお嬢様として育ってゆく。
 その不条理を、当たり前のこととして受け止めている家族、世間があった。
 役場に勤務していたおじじさまが、人に騙されて、多くの財産を失うことになっても、おとっつぁまは姉様を庇護した。母親の違う姉様だけを、特別扱いにする父親の心など、きぃちゃの子供心に分かるはずもなかった。
 姉様は年頃になって、「塩沢小町」と囁かれるほどの美女になる。高慢さも伴って、跡取り娘として、自ら見初めた美男の教師を婿にとる。生まれた子供たちも美男美女。家が没落しても、家付き娘としての自負を失うことがなかった。
 きぃちゃの兄は、蔵の一つを貰い、新宅に出た。蔵そのものが住居だった。譲り受けた田畑も少なく、鉄道工事の人夫として働き、病んで生涯を閉じた。


 余川を過ぎると、道の左側は丘陵地帯。森や林が続き、右手は田畑が多かった。その先は雑木林が続いていたようだ。
 夕暮れの道を塞ぐように、羽虫が飛び交い、タクシーが砂埃をあげて、追い越して行く。
「本家へ来た長岡の客だな」
 おとっつぁまが、ぽつりと言った。もう長く歩いたので、足が痛くなった。タクシーがうらめしかった。
 農作業を終えた人たちが、頭を下げて通る。「お晩でございます」おとっつぁまは知らない人にも丁寧に挨拶をした。

 小高い丘のようなところから、右手に遠く、荒れた野原が広がっている。隠れて見えないが、魚野川が豊かな川面を見せて流れているのだという。その向こうの林や森は、ゆったりとした稜線を描いた八海山の裾野へとつながっている。
「俺のおふくろは、八十五歳を過ぎたが、山口という遠い山の村から嫁に来たがだ。何でも仕事をこなし、その上頭がよくて、おふくろには誰も頭があがらんかった。おふくろが実家に泊まりに行くときは、馬に乗せ、手綱を引いて行ったこともあるがだよ。手斧削りの梁のある立派な家だった」
 おとっつぁまは、道々いろんなことを話してくれた。

 右手に遠く広がる野原は、その昔、鈴木牧之の書いた「北越雪譜」にも登場している美佐島だということだ。
 孝行息子と、いい嫁と、玉のような男の孫を授かり、村人の羨望を集めた夫婦の話である。
 子供が生まれてしばらく経ったある日、嫁の願いで親子三人実家に向かうことになった。嫁の実家は二里ほど先にあった。
 紺碧の空、雪はキラキラ光っていた。美佐島の野原にさしかかった頃、一転してかき曇ってきた空は、雪を舞いあげ、白竜が山の峰を登るような勢いと なり、先ほどまでの好天はうそのように、天地が荒れ狂い、寒風は肌を貫く槍と化し、凍った雪は体を射るようなすさまじさ。息子は、あっという間に箕、笠を 飛ばされ、嫁は帽子を吹きちぎられて、髪は乱れ、雪は遠慮容赦もなく、目や口、衿、袖、果ては裾までも吹き込んできた。
 たちまち、全身が凍えて呼吸が苦しくなり、下半身は雪の中に埋まっていく。
 夫婦は声を限りに、助けを求めて泣き叫んだが、通る人とてなく、人家も離れているので、ついに雪の中で頭を並べて息絶えたという。雪深い越後ならではの悲しい話。

 いつもこんなにして、おとっつぁまと語り合えたらいいなあと思い、幸福感に浸りながら、遅れないように歩いた。
 玉蜀黍の葉が揺れ、草いきれのむんむんする細道を過ぎ、やっとおとっつぁまの生家に着いた。
 茅葺き屋根の大きな家だった。
 親戚のお客が大勢来ていて、台所の広い板の間では、女衆が料理の盛りつけをしていた。

 茶の間の囲炉裏端の正座に、背中の丸いお婆さんが、胸と膝がくっついたような恰好で座っていた。
 お客が次々と挨拶をするので、きぃちゃは、おっかさまに言われたようにぺこりと頭を下げた。
                    
                           (後編に続く)

 文中、田村賢一訳著「北越雪譜物語」より(吹雪)を引用。



 高齢の母がまた入院。
 昨日は一日、
一昨夜はおそくまで付き添った。
 ほぼ安定してきたが、入院毎に衰弱している母。
 生命の力はまだあるのだろうか。

 「きぃちゃ」は、母の生まれた土地の慣習で、「ちゃん」を「ちゃ」と呼んでいた。「節子」なら「せっちゃ」というように。現在は違うかも知れないが、その呼び方に親しみを感じる。

 母は、「老人文集」に生まれ育った土地の事を、懐かしく思い出しながら書いていた。
 母から聞いたことや、「老人文集」から摘み取って、母の足跡を少し辿ってみた創作である。2009年に書いたもの。
 きぃちゃ、母はそう呼ばれていた。

 朝の花 イタドリ(タデ科) 魚沼ではスカンボ、スッカンボとも言う。



 今朝の散歩道













おはなし お話ヤギさん

2011年09月11日 | 日記





 ぼうや よく来たね。
 名前は なんていうのかな。

 あるだよ。 あれっ どうしてヤギさんお話できるの。

 どうしてお話できるかって あるくんが私をまっすぐな眼でみてくれたからだよ。まっすぐな眼の子に会うと 私はお話がしたくなる。
 あるくん いい名前だね。いつもボクはここにあるってかい。

 ちがうよ お爺さん。 
 あるってね 碧い夜空のキラキラ星のことだって ママがいってたよ。

 キラキラ星かい 。
 これからは 天も高く 星も綺麗になっていくね。

 あっちのバアバが お月様のことを のんの様っていってたよ。
 だけど ボク もう大きいから のんの様なんていわないよ。
 月はムーン 星はスターだよね

 ほう よく知っているんだね。 お爺さんの子供のころとちがうね。

 お爺さんの子供のころって?

 めえんこかったよ。めえーん めえーんってね。

 お爺さん それじゃ そうめんじゃないか。

 おっ あるくん ダジャレもでてくるんだね。 

 しょうゆうこと。 アンパンマンみてる妹だって知ってるよ。
 ボクさあ 悟空にだってなれるんだよ。

 へえ~ 三蔵法師の悟空かい 。

 ちがうよ。 ドラゴンボールの悟空だよ。
 ボクはサル年なんだ。
 ジィジは 亀仙人 お爺さんも何だか似ているよ。

 そうかい 私はヤギ年なんだよ ずいぶん前から ここに住んでいるよ 。
 あるくんのママも 小さい頃ここに来ているはずだよ。

 うん バァバとママがはなしていたよ。
 もっと 自然がいっぱい 森もあって お花もいっぱい咲いていたんだって。


 あるくんに聞かせてあげるけど 花咲き山って知ってるかい 。
 ひとついいことをすれば 花咲き山の花が ひとつ咲く というおはなしだよ。
 ママかバァバに聞いてごらん。
 山がけずられて 花がまたひとつ そしてまたひとつ 花がなくなっていく。
 お爺さんは 草は食べてきたけれど 根っこのところは残しておく。
 そうすれば また芽がでてくるんだよ。

 ふうーん よくわかんないよ。 もうすこし大きくならなくちゃ。

 私のはなしはもうやめようね。 ちょっとむずかしかったね。 みんなが待っているところに行くんだよ。

  お爺さん ありがとう また来るね。

 あるくん かしこそうでいい名前だ。お爺さんは まっすぐな明るい目をした男の子が好きだよ。

 お爺さん なにかいった?

 お爺さんは耳が遠くなってね。一人言 一人言。
 うんめえ酒飲んで めんこいあるくんを思い出しながら昼寝でもするか。

 お爺さん なにかいった?

 まだいたのかね。バァバとママによろしくね。
 また会えるのを楽しみにしているから。

 あるもだよ。きっと きっと またくるからね。



 「お話ヤギさん」は、山の牧場で遊んだ孫の写真を見ながら軽く書いたおはなし。
 孫が4歳になったばかりの春。


 今日9月11日は、米国で起きた同時多発テロから10年、
東日本大震災から半年にあたる。
 心に深く刻みながら生きていきたいと思う。


 朝の散歩途中  色づいたヤマボウシの実









猫鳴り

2011年09月09日 | 日記



 「猫鳴り」とは何だろう。
 藤沢周平の「海鳴り」は知っている。

 猫が、喉を鳴らすあのゴロゴロが猫鳴りだということが分かったのは後半。
 新聞の読書欄で見て、紙面を抱えたまま書店に出かけた。
 用事のついでだが、田舎町の郊外にある書店に立ち寄るのが好きだ。
 ところが最近の私、早くからの体調不良で、探して、手にとって触れるということが億劫になり、カウンターで問い合わせることにしている。
 店員がPCで探してくれる。なければ注文。最近は在庫本に出会うことが多くなった。
 買うのは文庫本がほとんど。それも月に何度か。

 あった。
 沼田まほかる著「猫鳴り」双葉文庫。
 一気に読んだ。

 何度も捨てられるはめになった傷だらけの子猫、最後は家族となって、したたかに生きた雄猫と、飼い主と、雄猫が関わった人たちとの三部構成でまとまっている。
 老猫となり、最期を迎えるまでを、淡々と、研ぎ澄まされたような文章で書き上げている。
 ヤマボウシやサザンカの茂る庭・・・
 降り止まない雨の描写・・・

 >森には森の雨が降っていた。葉の表面を伝う雫が寄り集まって落ちるたびに、どの枝先も震えた、震える森の中に、黒々と濡れた無数の幹がほっそりと立ち・・・
 
 巧みな自然描写の所々に心の状態を散りばめ、中年夫婦二人だけの日々が見え隠れしてくる。ページから目を離せなくなった。
 解説者はケモノバカ一代と自称しているが、最期は脣をわなわな振るわせても泣けなかった、と書いている。死期の迫った老猫。最期を静かに果てようとする姿は見事だった。

 私も、冷ややかな作者の文章に溜息さえついた。
 だが作品の終盤になると、涙をこらえきれなくなった。

 猫と暮らした長い日々、あれこれが走馬燈のように浮かんで来る。
 最後の猫を看取ったあと、思い出が強すぎて、もう他の猫とは生活しないと決めた。
 この先、15年も20年も猫に安住を与えることが出来るだろうかと。
 「猫鳴り」の猫の終末期と重ねて、流れる涙をそのままにした。


 ヤマボウシ(ミズキ科) 2011・6・10 魚沼の山で








童話 ほまちゃんとろみちゃん

2011年09月07日 | 日記

   
 ママが台所で洗い物をしていると、
後ろから、ほまちゃんがしがみついて来て離れません。
「どうしたの、ほまちゃん」
 ママは忙しくて大変なのです。
「ママの匂い、いい匂い・・ほまちゃんずっとこうしていたい」
 ほまちゃんにも、親の愛情を欲する心の芽生えが始まったのです。
「ママってそんなにいい匂い?」
「うん、とっても。ママの匂いはママにしかないんだもん」
「ありがとう」
 まとわりついたままのほまちゃんに、ママはぐっと我慢して、しばらくそうさせていました。

 ほまちゃんとろみちゃんは、年子の女の子。
 母親の愛情を独占したい時、二人目が生まれました。

 ろみちゃんは、ベビーベッドに寝かされている時からおとなしく、かたわらのおもちゃ相手に遊んでいる赤ちゃんでした。
 ニコニコと一人話もします。指をみつめて、ろみ語を話しているときの可愛さったらありません。

 ほまちゃんは夜泣きをして、パパやママを困らせました。
 そんな赤ちゃんだったから、熱をだせばすぐに分かります。
 じっとしていない性格だったのです。

 ろみちゃんが肺炎にかかっていたことを、ママは見落としてしまいました。
 生後何ヶ月の頃だったでしょう。
 元気をなくしているろみちゃんに、パパが気づきました。子育てはママ任せなのに、とても心配性なのです。
 病院の先生に言われて、おじいちゃんが入院している大きな病院で診ていただくことになりました。
 小児科の先生に言われました。
「五人中、一人は助かりません。最善を尽くしますが、覚悟も必要です」
 その先生は、自分の子供を死なせてしまったのです。

 おじいちゃんのベッドの前で、ママは号泣してしまいました。 自分の不注意を恥じたからです。
「まだ、生きている。しっかりしなさい」と励ましたのは、癌と闘っているおじいちゃんでした。
 ぐったりしていたろみちゃんでしたが、顔に赤みがさしてきました。何日かの間に元気になりました。
 その後何度も入院することになったのです。風邪から肺炎になってしまうのです。

 幼いながらもほまちゃんは、自分を精一杯抑えていたようです。
「ママに抱っこしていい?」
 ママが座っているとき、両手でしがみつきます。
 ちょっと遅い赤ちゃん返りが始まったのです。
 そのうちろみちゃんも気がついて、二人でママのとりっこです。三人一緒になって、部屋中を転げ回りました。 オモチャも絵本もグチャグチャに散らかってしまいます。

「さあさ、皆さん。 寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。 この座布団は、飛騨の匠の手作りでコツコツ時間をかけて作り上げたものです。 さあさ、寄ってらっしゃい。見てらっしゃい」
 ほまちゃん得意の名セリフ。
 テレビで覚えた宣伝の口上を、 なんと、友達家族大勢の宴席で、座布団持ってやってのけたのです。
 パパもママもびっくりしました。 拍手喝采でした。
 家でも何度も何度も演じることとなり、いいかげんみんなも閉口しましたが。

 ほまちゃんは、パパが怪我をした時も病院中を笑顔で歩き回りました。ヨチヨチ歩きの時だから、人気者になりました。
 パパの田舎に帰る、長い新幹線の車内でも一人で歩き回り、パパとママが心配しているといつのまにか戻って来るのです。
「誘拐されたらどうする」は、パパの恐いお説教でした。

 おじいちゃんが亡くなって、
寂しくなっていたおばあちゃんを、お笑いの真似で笑わせたほまちゃん。
 子供の手のあったかさに、歌人の心を取り戻したおばあちゃん。
 あたたかな手はろみちゃんでした。おばあちゃんは、元気でいたとき思い出しては「孫のあたたかい手」のことを口にしていました。

 パパと、ママから、お父さん、お母さん、と言うようになったのは小学生になってからのことです。
 お父さんと呼ばれたかったパパからの命令でした。
 性格の違う二人。
 ほまちゃんはめちゃ明るく、
ろみちゃんはおとなしくてもいっぱいの友だちに囲まれて、
なかよしの姉妹として歩いて行くのです。


 ヨウシュヤマゴボウ(ヤマゴボウ科)



 朝の川