ぺこりと頭を下げたが、お婆さんは気がつかないようだった。
照れくさくなって、きぃちゃはその場を離れた。
よく磨かれた玄関口。右手の広い板の間では、女衆が料理の盛りつけをしている。
奥のほうに、みんじゃ(水場)が見える。二つ並んだ竈には、大鍋から湯気が沸いていた。
大勢の人たちがいて、賑やかさは、きぃちゃの家とは違う。夕方前に出てきたばかりなのに、おっかさまが一人で、てんてこ舞いをしている姿がふっと浮かんだが、すぐに消えた。
従姉妹たちが、板戸の向こうから覗き見をしている気配を感じたのである。
みんなが、お盆用の単衣に三尺を締めている。男の子はずいぶん年長の子もいて、座敷の隅で、何やら固まって話し込んでいた。
はじめて見るいとこたち。硬くなったままで立ち往生していると、おとっつぁまに呼ばれた。
中座敷と、襖を取り払った奥座敷に、塗り膳が並べられていた。お客は大人と子供で、20人以上はいただろうか。あとはこの家の家族みたいだった。お婆さんの姿は見えなかった。
きぃちゃは、慣れない席で縮こまっていたので、お盆ごっっおの棒鱈の煮付けぐらいしか覚えていない。
夕食が済むと、弓張り提灯を提げて、村の鎮守様に向かった。石の階段を登ると、祭礼の提灯がたくさん吊されていた。太鼓の音が、トロンコ、トント ンと鳴り響いていた。屋台店が出て、人が大勢集まっていた。境内の仮舞台で何かやっていたが、はっきりとした記憶はない。人の集まる所は、気持が浮き浮きした。村の家々の軒先に、祭礼の提灯が吊され、子供ながらも楽しい気分となった。おとっつぁまが手を引いてくれる、嬉しさもあった。
夜眠るとき、広い座敷におとっつぁまの姿はなく、知らない人ばかりの間に寝かされて、寂しくなった。緑色の大きな蚊帳が座敷いっぱいに吊られ、大人も子供も一緒だった。寂しいと思いながら、きぃちゃはいつの間にか眠った。
朝になったら、同じ蚊帳の中に寝た、従姉妹たちと親しくなっていた。枕の投げっこもやったし、きゃあきゃあ騒いだ。
庭に出て、木登りもした。太い幹によじ登って、「いっさん、がっさん」と、木の葉の揺さぶりっこをするのだ。木の幹から、幹へと、よじ登るのは きぃちゃのお得意であった。欠ノ上の家の裏手は、林になっていて、なだらかなスローブが、山際へと続いていた。単衣の裾を折って、三尺にはさんで、たくみ に登った。
「女っこのくせに」と注意されることもなく、大人たちの眼が行き届かない場所で、隠れんぼをしたり、従姉妹たちと楽しい時間を過ごした。
きぃちゃの家の裏手に、桃の木があった。熟れると、黄色く透き通ったようになり、甘酸っぱい匂いを漂わせる。おじじさまが木に登って、竹棒で叩くと、筵を敷いた上に、ポトポト落ちる。それを笊に集めるのが子供たちの役目だった。梅の実くらいの桃は、大木となり、土蔵の屋根を塞ぐように、たくさん実った。 隣近所に配って歩いたほどだ。
夏の暑い日、乾いた土蔵の屋根に、兄妹で上がった。歩くと、コバ屋根がビシビシと音を立てて、昼寝中のおじじさまに怒鳴られた。
「子供が、何悪さしているがだ。落ちたら、骨が折っぽしょれるか、死むぞ」
桃の実を収穫する日が待ちきれず、兄ときぃちゃで、木をよじ登って、屋根に上がったのだ。悪いことをして、見つからないときもある。
悪さをすると土蔵にぶち込むぞ、がおじじさまの口癖だった。
秋になると、天井高く、ピラミッドのように積まれた米俵が誇りだったし、「米」という印半纏を着た仲買人たちがやってくる。手土産に、蜜柑袋を抱 えてくるので嬉しかった。おじじさまや、おとっつぁまに、低姿勢で、ペコペコと頭を下げていた。共産主義の小作人たちが、年貢を負けろ!と談判している姿も見た。三つあった土蔵は、権威の象徴であったが、反面、暗くて怖い場所でもあった。
きぃちゃは、何度か怖い土蔵に入れられた。
西瓜や甘瓜が美味しかった。
「いっぺえこと、あがらっしゃい」
欠ノ上のおかかが、温かい言葉でもてなしてくれた。
きぃちゃの村は山地なので、畑に西瓜や甘瓜などあまり作らない。
帰りの土産に、甘瓜を貰った。
おとっつぁまと、またはなしが出来る。きぃちゃは昨日より、もっと嬉しい。
余川にさしかかったとき、おとっつぁまは、「両頭の蛇」の話をした。
文政10年8月20日のことだそうだ。
六日町在の余川村の百姓、太左エ門は、軒端に両頭の蛇がいるのを見つけて、捕まえた。長さ一尺(約30㌢)にも足らなかったが、頭は2つ並んで枝分かれをしている。色も形も普通の蛇と変わらない。
古い箱に入れて、餌も置いたが、2、3日たって中をのぞいた時には、すでに姿はなく、あたりを探してみたが、ついに見つからなかったという。
欠ノ上あたりでも、昔話として伝わっているそうだ。
「へっぺが、二つの頭を持ってるがだと。おっかなくねえか」
おとっつぁまがからかったが、頭を振った。
「おら、ちっともおっかねくねえ」
きぃちゃは、蛇を見ても怖くないし、平気だった。
風もなく、汗でじっとりしていることも忘れていた。
その年の秋のことだ。
学校帰りのきぃちゃは、駅前で、おとっつぁまに出会った。
用があって、湯沢に出かけるという。
「ちっと、待ってろ」
少し待たされたきぃちゃの前に、紙袋を差し出した。今川焼きの、おいしげな匂いがする。
「いいか、家に帰って、みんなで食え。途中で、一つくらいは食ってもいいぞ」
おとっつぁまに言われたように、合わせの袖の中に、紙袋を入れた。一つ頬張りながら歩いて、また一つと、家に帰るまで全部平らげてしまった。
おとっつぁんに合わせる顔がなかったが、夜になって帰宅しても、何も言わなかった。
きぃちゃは、あとで何度も思いだした。
おとっつぁまは、気がついて黙っていてくれたのだろうかと。
誰にも云えないみっともない秘密は時たま思い出す。
だが大概忘れていて、勉強も体育も得意な少女に育った。
書道で金賞をもらった記念写真を大切にしてきたことも付け加えておく。
(完)
文中、田村賢一訳著『北越雪譜物語』より、「両頭の蛇」を引用した。
朝の花 ヌスビトハギ(マメ科)
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