千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

秋の彼岸

2011年09月25日 | 日記


         
 敬老の日が19日の祭日。
 20日が彼岸の入り。
 仏壇のある家は結構忙しい。
 祖先を敬う気持ちや、信仰心の篤い家庭では仏様への気配りが大変である。
 母方の叔母3人はキリスト教信者なので、仏壇に手を合わせることはない。
 人それぞれ、無宗教であってもとやかく言う必要もない。
 亡き父は無宗教だった。形だけは世の習いに準じていた。
 肉体は亡びても魂は残る。
 父の魂はまだどこかにいるのだろう。残った妻、娘たちの最期を見届けるまでは、きっと。
 父の考えに賛同した少女期の私。人として生まれて、ある時期訪れる「自我」、自分というものの意識。その意識は少女期にはいっそう強まる。まだよく分からない。私もそのうち、新たな生命の心の中に宿って、「自我」が芽生える時を迎えるのかも。そう考えると、生きるって不思議で面白い。
 こんなことを書くつもりではなかった。
 孫たちが声をかけたり、集金人が来たり、落ち着いてキー打ちなど出来はしない。
 彼岸の入りから彼岸明けの明日まで、仏壇へのお供えを欠かさないので忙しくはある。
 死後の世界、宗教など、未だ分かっていないが、父が仏様になっていようといまいと、お供えをすることだけで、心が安らげる。
 大したものではないが、簡単につくったあたたかいものをあげている。
 地元に嫁いだ女たちは、こうしたことを苦もなくこなすので頭が下がる。

 9月23日。
 彼岸の中日。
 朝歩きはやめて、早くから「おはぎ」の用意。大きい小豆にしたので、半殺しのおはぎになってしまった。
 パック詰めの小豆を利用したこともあったが、娘に見破られた。母がコトコト煮た小豆の味を娘は忘れなかった。以後、自分で煮る。



 仏様たちは、23日の中日に自分のおはぎを持って、仏の集まりに参加。だから、朝早く美味しいおはぎ(春はぼたもち)を作ってあげなければ会合に間に合わない、と言われている。つまり、朝寝坊するような女は、嫁失格というわけだ。



 9月24日。
 早朝歩きで萩の花を見かけた。
 この家の垣根にあったような気がして、歩く道を変えた。
 ご夫婦だけの閑静な佇まい。萩の花が似合う家。
 息子さんたちは、大学教授になっているらしい。



 今朝も散歩を休んで、「炊き込みご飯」作り。
 春、山で採ったネマガリダケ、自家製のゴボウ、人参、コンニャク、油揚げ、ヒジキを入れて炊いた。シソの実を上に。

 ご近所から青いトマトをいただいた。青いトマトのチャツネ、一夜漬けに変身。



 母は顔色もよく、状態が落ち着いて見える。
 午後から病室に行く。