nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

彦根城

2013年11月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 彦根城は、慶長5年(1600年),井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から移ってきた。その後直政は城を彦根山に移そうとしたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ケ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成。築城を始めてから実に20年の年月を要したもので、城域面積75,800坪、周囲4km、高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。江戸時代を通じて、彦根城は、井伊氏の居城だったが、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのち禄高は、30万石から20万石に減封された。昭和26年(1951年)に彦根城天主閣をはじめ天秤櫓、太鼓門櫓、三重櫓、佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天主閣を国宝に、同31年(1956年),には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。

[所在地:滋賀県彦根市金亀町]

アクセス>JR彦根駅から徒歩約10分

彦根城略図

中堀

 

佐和口多門櫓正面左側(要文化財)   ▼佐和口多門櫓正面右側(重要文化財)

 

内堀                表門橋

 

 登り石垣

表門山道

 

                                                             鐘の丸

  

天秤櫓(重要文化財)

 

太鼓門櫓(重要文化財                    ▼本丸跡

 

                    表御殿のひこにゃん

 

天主閣(国宝)

大手門橋               内堀

 

2013/11/09  訪城

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井伊直政(1561年~1602年)

 井伊直政は、今川氏の家臣で代々遠江の井伊谷に居住していた。井伊氏の直親の子である。直親が家康や織田信長に通謀したという疑惑をかけられ殺害された時、直政はわずか二歳であった。今川氏真はこの嬰児をも殺せと命じたが,助命を乞う者があってその者のもとに養育され、以後寺から寺へ艱難流離の生活をおくった。幼少期の荒涼たる生活は、後年、直政の人物に幅と奥ゆきを形成したものと想われる。のみならず家康は、浜松の城下で鷹狩りの最中に直政を見出した時、自分に相似た暗い過去をもつこの端正な面だちの少年に、憐憫をこえた不思議な親近の情を感じたのではないか。家康自身、三歳で母に生き別れ、六歳で人質にとられ、八歳で父を暗殺されている。直正は二十二歳の天正10年(1582年)を境に、破竹の勢いで頭角をあらわしていった。この年の六月,例の伊賀越えの難においては、小姓組の一人として家康にこ従したにすぎない直政は、まもなく家康が甲州に入り,信州から南下してきた北条氏直の大軍と対峙した時、その講和の使者に立てられて大任をはたした(10月29日)。同年、武田の遺臣74騎と名ある坂東武者43騎を与えられ、同時に武田の「赤備え」(赤一色の武装)を継承することを命じられている。武田の軍団の有能な遺臣を配下にしたことは、その後の直政の活躍の大きな原動力となった。小牧・長久手の戦ののち、秀吉が「赤鬼」と称すべき勇姿を戦場に馳せ巡らせた井伊直政と、榊原康政・本田忠勝の三人を絶賛したことがある。これを聞いた家康は、彼らが悦ぶだろうと、三人に告げると、直政は毅然として、股肱(ここう)の臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではないと秀吉を批判し、さらに、秀吉は、自分たちを誘惑する底意があることを指摘した。そして、「たとえ天下を賂(まいな)うとも、この直政は他人の禄を貧(むさぼ)るべくもござらぬ」と言い放った。新参ながら、譜代の気骨を常に失わなかった婆娑羅大名であった。関ヶ原の戦で受けた戦傷がもとで、中一年おいて佐和山に没した。譜代最大の大名(30万石)でもあった。



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