nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

高知城

2015年04月05日 | 高知県の城郭・環濠

もともとこの地には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より築城に取り組んだが、水はけが悪いために、天正19年(1591年)僅か3年で長宗我部元親は浦戸城へ本拠を移した。慶長5年(1600年),関ヶ原の戦で長宗我部元親の子・盛親は西軍に与して改易され、代わって、関ヶ原の戦功で遠州掛川より土佐一国24万2千石を与えられて入国した山内一豊は、浦戸城は城下町を開くには狭いため、長宗我部氏が一旦築城を断念した標高約44mの大高坂山に、慶長6年(1601年),新城を築くことにした。難工事の末城の全容が完成したのは10年後、二代藩主・山内忠義の治世に移った慶長16年(1611年)である。四重六階の天守は、山内一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれています。高知城は、日本で唯一本丸の建物がすべて現存する江戸時代の姿を今に伝える城郭である。昭和9年(1934年)、国の重要文化財に指定されました。

[所在地:高知県高知市丸の内]

アクセス>JR高知駅より徒歩約25分

北から見た天守閣

西側(右側)に東多門櫓がついて、天守閣とともに本丸を厳重に囲い込んでいる。

 

高知城の沿革 

高知城の概略図

                          高知城の碑

 

追手門 

 石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えの門。

石樋の説明

石樋           ▼石垣

 高知城の石垣は、近江の技術集団・穴太衆(あのうしゅう)によるもの。雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されています。

 

 

天守閣

 

西から見た天守閣と本丸御殿(共に国の重要文化財)

横連子の武者窓の説明

横連子の武者窓(物見用)  ▼鉄砲穴(△穴)と弓矢穴(○穴)

 

知城の模型

土佐漆喰の白壁の説明

鉄砲狭間

天守閣よりの眺め

 

西多門櫓         ▼山内一豊像

 

2015/04/01 訪城 

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長浜の戦    永禄3年(1560年)

 土佐の中央部の支配をめぐり、長宗我部国親と本山茂振が激突。長宗我部氏が勝利する。、長宗我部元親も初陣として参加。

朝倉城の戦  永禄5年((1562年)

 本山茂振が、朝倉城を攻めて、長宗我部元親と激突。長宗我部元親が勝利し、土佐国の中央部を領有する。本山氏は衰退。

安芸城の戦  永禄12年(1569年)

 長宗我部元親が、土佐統一のために安芸地域に侵攻し、安芸国虎と激突。安芸国虎が敗れ、将兵の助命を条件に安芸国虎自刃

四万十川の戦   天正3年(1575年)

 長宗我部氏に対して一条兼定が再起の挙兵する。四万十川の拠点を攻められ一条兼定は、敗走する。南伊予の戸島に隠棲し、10年後死去。長宗我部元親が五代・一条内政の後見人となる



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