nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

清州城

2013年05月09日 | 愛知県の城郭・環濠

 清州城は、応永12年(1405年),管領斯波義重によって築城された平城です。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、下津城が消失し、文明10年(1478年)守護所が清須(清州)に移転することで尾張国を支配する。その後、織田信長の居城となり、本能寺の変の後、清州城主は次男の織田信雄となり、天正14年(1586年)に、大改修され、その後、豊臣秀次、福島正則と替わり、関ヶ原戦後、は、松平忠吉、徳川義直が城主になりました。その後、徳川義直が名古屋城へ移って慶長10年(1610年)廃城になりました。現在の天守は、平成元年(1989年)RC構造で建設された模擬天守である。           

 [所在地:愛知県清須市清州字古城]

アクセス>JR東海道・清洲駅から徒歩15分。

  

                                             清州城の石垣

   

 ▼清州古城跡碑

  

                               

信長塀          ▼井戸

 

                                             庭 園

 

模擬天守     

                 

書院                          ▼天守よりの眺め

 

2013/05/08 訪城  

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織田氏内紛 文明10年(1478年)

 織田氏、織田敏定[尾張南部]と織田敏広[尾張北部]で分割支配

 織田敏定、織田敏広が争いを繰り広げる。翌年、和議が成立する。織田敏定が、清州城で尾張南部を、織田敏広が岩倉城で尾張北部を治める分割支配がはじまる。

岩倉城の戦  永禄2年(1559年)

 織田信長が尾張を統一する。

 駿河の今川義元軍25,000騎が尾張に侵攻する。織田信長軍の精鋭2,000騎は、豪雨と濃霧で油断して、桶狭間の木々の下で昼食を取っていた今川義元の本陣を午後1時に急襲する。今川本隊反撃できず敗走。大高城へ輿で逃げる今川義元の首級を上げる。

小牧・長久手の戦 大将2年(1584年)

 織田信長死後の跡目争いで、織田信勝・徳川家康連合軍20,000騎と羽柴秀吉軍70,000騎が、争う。秀吉方の、三河撹乱作戦の失敗に終わる。

  

『織田信長』の問題      

[問1] 信長が、家臣に命じていた日ごろの心構えは?  

①朝起きたら、まず、わしに向かって参拝せよ。

②食事の前には、必ず、わしに感謝して合掌しろ。

③常に、わしのいる方向には足を向けるな。

[問2]桶狭間の戦の最高の功労者はだれか?

①今川義元を討ち伏せ、首を掻っ切った毛利新介。

②今川義元の動静を探った梁田政綱。

③今川義元に真っ先に斬りかかった服部小平太。

[問3]長篠の戦いで全兵士に持参を命じた物は何か?

①火縄を1本、持ってこい。

②柵用の木を1本、持ってこい。

③鍬か鋤を1本,持ってこい。

[問4]織田家への奉公を誘われた軍師はどう答えたか?

①禄はいらない。そばにいるだけで、満足に存ずる。

②3000貫というのは安い。もう一声あってしかるべし。

③いかに禄を下されようとも、信長公には仕えたくない。

[問5]信長が整備した幹線道路の目玉はどんなことか?

①ホウキを用意しておき、掃除をさせた。

②茶店を開かせて、休息をとれるようにした。

③馬の無料レンタルショップを開かせた。

                                                                                          

 

『織田信長』の問題の答

[答1]③

[答2]② 梁田は、この地の郷士で、地理に詳しかった。『遺老物語』によると、3000貫の知行を得た。情報を重視した。

[3]②

[答4]③

[答5]①



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