仁治元年(1240年)、秋庭重信が備中有漢郷の地頭となり、高梁川を天然の堀とする要衝の臥牛山の大松山に城を築く。その後小松山まで拡張され、高橋氏、秋庭氏,上野氏、庄氏と城主がめまぐるしく変わり、永禄4年(1561年)、成羽鶴首城の三村家親が松山城を奪取する。
三村氏は毛利氏と結んで備前の宇喜多氏と戦い、三村家親の子三村元親が城主であった元亀年間(1570年~1573年)には松山城は大松山と小松山を範囲とする一大城寒となった。だが、毛利氏と宇喜多氏が和睦すると三村元親は毛利氏に離反して織田信長方につき、天正2年(1574年)から備中兵乱と呼ばれる毛利氏と三村氏との戦いとなり、松山城は、翌年、毛利方の小早川隆景に攻め落とされ三村元親は自害し、その後、宇喜多氏が織田方と結んで毛利氏と戦い、天正10年(1582年)、の本能寺の変で、毛利氏と織田氏は和睦し、松山城は毛利の領有となった。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、備中は幕府の直轄地となり、のち5万石で板倉氏が入った。明治6年(1873年)の廃城令で、御根小屋は取り壊され、山上の建物は放置され荒廃したが、昭和・平成時代に復興修理が行われ、国指定重要文化財の天守・二重櫓・三の平櫓東土塀などが残る。
[所在地:岡山県高梁市]
<アクセス>JR備中高梁駅より車で10分。下車後徒歩約20分。
▼備中松山城の絵図
絵図の小松山城跡(天守・櫓・土塀等があります)まで登ります
▼備中松山城の概要
▼中太鼓丸櫓跡付近の遊歩道
▼大手門跡前 ▼重層的な石垣の連なり
大手門跡から二の丸方向を見上げる。
左手は三の丸の石垣。
▼土塀 ▼三の丸
▼三の丸から二の丸への石段
▼二の丸の石垣 ▼二の丸と本丸(後方の建物)
▼二の丸から見た天守 ▼本丸と天守
手前右側が五の平櫓、左側に六の平櫓。 本丸の標高は432m,その中央に2重2層の天守が建つ。
▼本丸の土塀 ▼二重櫓…天守の北側
▼天守北面 ▼本丸の石垣と土塀
2018/04/07 訪城