nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)へ

2014年03月11日 | 文化・歴史散策

2014/03/09  阪急京都線・西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)に登山してきました。              

アクセス>阪急京都線・西山天王山駅・・・柳谷観音・・・天王山山頂(山崎城跡)・・・観音寺(山崎聖天)・・・水無瀬神宮・・・桜井駅跡・・・JR東海道線・島本駅

 

 

 

谷寺(柳谷観音

 

                  天王山山頂(標高270.4m

  

山崎城跡・・・山崎城は、天王山山頂に築かれた

 

            山崎城跡よりの眺め

 

酒解神社

 

  

旗立松         ▼観音寺(山崎聖天)

 

観音寺(山崎聖天)・・・天王山麓の城郭寺院である。

 

水無瀬神宮

 

桜井駅跡(国指定史跡

 とは大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所の事。30里(当時の一里は約530mで、30里は約16km)ごとに設けられた。

楠木公父子子別れの石造

 1336年、戦に先立ち、劣勢を悟った楠木正成は、京都をいったん足利方に明け渡して軍勢の増強を図るべきと軍議で献策するが、後醍醐天皇は受け入れなかった。出兵を命じられた正成は、「今度の戦いは必ず敗北する」との意見状を後醍醐天皇に送っている。正成は、死を覚悟して、一族郎党約500騎をもって、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった時、正成は数え11歳の嫡子、正行を呼び寄せて「おまえは、故郷の河内に帰す」と告げた。今生の別れになった桜井駅の別れ。湊川の戦で、新田軍は、すぐさま敗走したが、楠木軍は善戦する。しかし、しだいに敗色が濃くなり、正成は死を覚悟した。最後は、弟・楠木正季とお互いに刺し違えて自害した。正成はの生涯は、「太平記」に活写され、敗戦を見通しながら、御醍醐天皇に従って死地に赴いたその最後の姿は、長く人々の心に残ることとなった。

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湊川の戦  延元1年(133年)

 九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のため, 新田義貞10,000騎、楠木正 成・正季500騎で戦うが、新田義貞が、すぐさま敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・楠木正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、入京する。

楠木正成  (生年不詳~1336年)

 金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉・北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年後醍醐天皇に応じて赤坂城で挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあり、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。

 



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