天正13年(1585年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武功を立てた羽柴秀吉の甥、羽柴秀次は、同年の8月23日,の論功行賞で近江八幡430,000石を与えられると,安土城の隣地の鶴翼山、通称八幡山(標高286m、比高100m)の南半分を利用して放射状式連郭山城と居館を築いた。山上の本丸等の主郭部と山麓の居館部が同時に構築され、石垣によって固められた。城下町は、安土城下町の町民を移住させて進められ近隣からも移住を促した。琵琶湖から水を引いた八幡堀によって町の周囲が防衛された。秀次の尾張清州移封で京極高次が28,000石で入るが、文禄4年(1595年)の秀次が切腹させられた時、廃城となった。現在、壮大な石垣を残すのみですが、周遊歩道が整備され、本丸跡には、村雲御所瑞龍寺門跡が建っています。
[ 所在地:滋賀県近江八幡市宮内町]
<アクセス>JR近江八幡駅下車徒歩約30分でロープウェイ公園駅。公園駅からロープウエイで近江城跡駅へ。
▼八幡山城の概要
▼八幡山城の概略図
▼八幡山城略図
▼西の丸址・・・・・琵琶湖の眺め最高!
▼北の丸址
▼瑞龍寺山門(本丸への虎口跡)
▼村雲御所・瑞龍寺門跡の概要
▼村雲御所・瑞龍寺本堂(本丸跡)
文禄5年(1596年),豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公が、豊臣秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から京都村雲の地と瑞龍寺の寺号及び寺領1,000石を賜り創建され、昭和36年(1961年)に京都よりこの八幡山へ主要建物が移築されました。日蓮宗唯一の門跡寺院です。
▼二の丸址
▼八幡堀 ▼八幡堀
▼近江八幡の町なみ(新町通り)
2013/10/02 訪城
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◆豊臣秀次(羽柴秀次) (1568年~1595年)
豊臣秀吉の姉、とも(日秀尼公)の子として生まれる。天正13年(1585年)近江国八幡山城主となり、ついで尾張・伊勢を領する100万石の大大名となった。天正19年(1591年)秀吉の子鶴松が亡くなると秀吉の養子となり、跡継ぎとして関白になった。しかし、秀頼の誕生により跡継ぎの地位が危うくなったのか次第に粗暴な振る舞いが目立つようになったと言われているが、この史実のほどは、明らかではない。ただ、折に触れて秀吉と衝突したことは確かで、最後は、謀反の疑いをかけられ高野山に追放され、切腹を命じられた。二十七歳の生涯を閉じた。さらに、妻子など40人余が京都三条河原で見せしめに斬首された。