長良の鵜 ズボラ余生

「ズボラ余生とは」:
何事も、前向きに捉え、楽天的に生きていくことです。

臓器移植について(4)

2010-08-12 08:13:37 | Weblog
もう一つは、長生きすれば幸せかという問題がある。
坂本竜馬や吉田松陰を上げるまでもなく、若くして死んでも立派な業績を残した人もいる。
逆に、植物人間でとにかく生きながらえているという人もいる。
だからといって、これらの人は社会に役立たないから、殺してしまえということにはならない。
そうなると、今度は、脳死を定義したように、今度は安楽死を定義するようになる。
しかも、国民がよく分からない間に、議員たちが寄ってたかって、そのような法案を成立させてしまったら、どういうことになるだろうか。
このように、人間の生死が次々と法律によってゆがめられていくということに対しては、私は賛成することは出来ない。

臓器移植について(3)

2010-08-12 08:12:51 | Weblog
また、人間の死に、臓器移植法で、新たな死が定義された。
これは、臓器移植の患者が多いのに対し、臓器の提供者があまりにも少ないために、法律で、死の新しい定義をしたものである。
乱暴な言い方が許されるなら、次々と勝手に死の定義が増えていくのではないだろうか。
例えば、現在自殺者が、年間3万人もいる。
そうなると、そこから臓器移植が出来ないかと考える。
そして、自殺者は脳死と定義するとか、本人の同意が必要ないということにするというような話である。
臓器移植が行われる前には、脳死で臓器を取り出すなんて考えられなかったのだから、自殺者についても、このようなことが絶対に起こらないとは誰にもいえない。

臓器移植について(2)

2010-08-12 08:10:31 | Weblog
また、人工透析の患者に限らず、身体障害者が立派な人生を送っている人も多く、私はそういう人には1日も長く生きていて欲しいと思う。
ここで、立派なというのは、人に感動を与え、しかも後世に残るような業績を残していることとでも言ったらよいのでしょうか。
ところで、人工透析も初期のころは、技術的に十分でなく、透析を行っていてもたぶん多くの人が死んでいったのではないだろうか。
それが、技術の進歩で、かなりの人が長生きできるようになった。
そうすると、今度は人工透析では、時間がかかるし、苦痛もあるので、臓器移植がしたいという。
私は死ぬのはいやだから1日でも長くいきたいというようなことになる。
人間は、そのように、死への恐怖と生への欲望には限りがないと思う。

臓器移植について(1)

2010-08-12 08:09:47 | Weblog
ブログの性格上、短い文章にならざるを得ず、やはり誤解を招いているようだ。
臓器移植に線引きについては、人工透析の患者だけでも25万人いるというのに、臓器移植が出来る人はほんのわずかしかいない。
そこで、何らかの、線引きが出来ないかと思ったのであるが、臓器の適合・不適合があるため、線引きは難しいのかもしれない。