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瞑想と精神世界

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思考と瞑想の心理学02:自覚も記憶もされない思考

2010年06月29日 | 思考と瞑想の心理学
最初は、別ブログで考察していたものをここにほぼ再録するつもりであった。しかしいくつかの記事を読み直してみて、当時とは順番を変えたり、内容を少し整理したほうがよいと判断した。そのつもりでお読みいただければ幸いである。

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ヴィパッサナー瞑想では、呼吸に伴う腹の膨らみ、縮みに集中しつつ、気が散ったり、雑念が浮かんだりすれば、そのつどそれに気づいたということを簡単な単語で確認していく。これをラベリングという。たとえば、雑念が浮かんだら「思考」などと確認して、また腹の動きに戻って集中していく。

ところでヴィパッサナー瞑想をしているとよくこんなことがある。雑念がいくつか続いてから、はっとそれに気づく。そして「あれ、何でこんなことを考えていたのだろう」と振り返えると、雑念の二つ前、三つ前ぐらいまでは連想の流れを思い出せるが、それ以前については思い出せない。結局、腹への集中からはずれた最初の雑念は思い出せないというようなことである。

瞑想中でさえこうなのだから、「日常の思考」も実態はこんなものであろう。いや、もっと無自覚であろう。つい先ほど考えていたことが思い出せないし、思い出そうすらしないままに消えていくのだ。瞑想中で、雑念は雑念としてそのつど自覚していく訓練をしていてさえ、記憶に残らないほど無自覚に連想が続いてしまう。まして、日常の「散漫な思考」においては、ほとんど無自覚に次々に思考が浮かんでは消えていくのであろう。

だからこそ「日常の思考」を「日常の思考」全体として問題意識をもって探求する必要があるのだ。つまり、ほとんどの「日常の思考」は、無意識的な執着や衝動に突き動かされつつ繰り返されていく。自覚的なコントロールなしに繰り返される。そして、とくに強い執着や抑圧されたコンプレックスに関係する場合は、まるでむさぼるかのように同じパターンの思考を繰り返すのだ。しかも自分自身では、そのことに無自覚である。これが「むさぼる思考」である。

自覚的なコントロールがなされない思考は、自己増殖して強力な力をもつようになることもあるだろう。完全に自覚的なコントロールができなくなってしまう。自分で不合理だと分かっていても、同じ思考を繰り返す。これが「強迫観念」と呼ばれるような病的な状態だろう。

このような日常的な思考が、全体として現代心理学の研究対象とならなかったということ自体が不思議である。「日常の思考」の全体像を明らかにしていく必要がある。

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