瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』07

2012年01月04日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章の三回目である。

リアリティについて語る三つのおもな方法、類推法、否定法、指示法のうち、中観派は、その否定的は方法の徹底性において群を抜いている。以下はその中観派の方法のかんたんな説明である。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ(続き)

◆中観派‥‥否定的方法のもっとも純粋な形態を代表する
言語は二元的ないし相関的であり、それゆえどんな肯定も否定も、自らに対立するものとの関連でのみ意味をもつ。いかなる言説も、それと対立するものとの兼ねあいによってのみ意味をなす。それゆえ中観派は、すべての言説が純粋に相対的であることを明らかにする。ただし中観派は、絶対的な実在はないと主張しているのではなく、リアリティに適用できる観念などないと指摘するのである。それはリアリティを理解せんとする理性の拒絶である。リアリティとは理性の不在(空)なのである。(P97~99)

中観派は、「真実をおおい隠す観念の諸構築物」を根こそぎ引き抜いて廃棄することを本分とする。そのため特定の哲学ではなく、あらゆる哲学の批判なのである。彼らがすべての二元論的概念を破壊する唯一の理由は、象徴的・地図の様式の知にのみ依存せんとするわれわれの習慣をぶちこわし、そのことによって、それのみがリアリティをに触れている非二元的な様式の知に門戸を開かせるためである。思考の全面的否定は虚無主義ではなく、智慧、すなわち非二元的洞察の入口なのである。(P103 )

われわれのリアリティの知覚は、ほとんど気づくこともない無意識の概念によっていつも歪められている。物とは、たまたま実用的あるいは美的にわれわれの興味を引き、その興味のゆえに名称が与えられ、排他的で独立した存在と錯覚される感覚的性質の集合体である(ジェームズ)。思考はリアリティを、簡単に把握できる小片に切り刻むことによって物を生み出す。人は考えているとき、リアリティを歪め、物を作っているのだ。「そうすることで現実の本質そのものが、流れ去ることを許してしまう。」(ベルグソン)こうしてわれわれは、世界を幻だらけにしてきた。だからこそ中観派は、リアリティとは概念的な敷衍の不在であり、分離したものの不在(法;ダルマ)であるというのだ。(p104~107)

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