瞑想と精神世界

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私たちに共通する盲点(3)

2009年07月30日 | 瞑想日記
日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味があると、最初に書いた。ひとつは、まさに私たち自身が、自分の脳内おしゃべりに充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということだった。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちの人格の質を決定しているということだ。無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を形づくっているということだ。

二つ目の意味は、学問的なものだ。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する学問分野がない。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずである。思考心理学というのはあるようだ。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではない。

なぜなのか。まさに盲点だからなのだが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからだ。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてくるが、瞑想を行うなどしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないだろう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもない。

もし、このブログを読んでくださった人のなかで、上述のような意味で日常的な思考を研究した例を知っている方がいれば、ぜひお教えください。
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1 コメント

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思考の研究 (寧応)
2009-08-02 08:54:23
初期仏教が詳しく研究してますよ。
日常的な思考を浄心所25種、不善心所14種、同他心所13種に分類してます。分類し、理解したところで、止められませんけどね。
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