瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ニューエイジをめぐる対話

2019年06月02日 | 瞑想日記
2001年1月07日から2001年7月22日まで、パラトラパ雅さんとNOBORUとの間でニューエイジをめぐる対話を行った。この対話は、もともとYahoo!掲示板>科学>オルタナティブ>精神世界フォーラムで行われたものである。
 それで、当時の対話の形をできるだけ残しつつ、しかも重複する部分などを整理しつつ、二人が対座して対話しているような形をとって、ここに再録する。
パラトパラ雅さんは、本人にお断りしていないので本名は伏せるが、四国のある県の国立大学の先生である。
 
目次
はじまり
対話(1)権威主義をめぐって(1)
対話(2)権威主義をめぐって(2)
対話(3)前世療法をめぐって(1)
対話(4)前世療法をめぐって(2)
対話(5)『カルト資本主義』をめぐって
対話(6)新霊性運動の捉え方
対話(7)「新霊性運動」の歴史的な意味
 はじまり
NOBORU:
  パラトラパ雅さん、こんにちは。 そちらのサイトに元旦に書かれた「新世紀のメッセージ」:「心と魂のニューパラダイムの創生に向けて」、読ませていただきました。 精神世界、ニューエイジにかかわる大切な問いかけを含む内容に、感銘を受ました。少しでも多くの方に読んでいただきたいですね。( http://homepage1.nifty.com/paratorapa/ 現在こののページはは存在しない。 )
 読んでまず、感じたのは、精神世界・ニューエイジ運動に係わる者として、この運動を内側から批判的に吟味したり、自省したりすることの大切さでした。 私の印象でも、精神世界・ニューエイジ系の掲示板などで、自らの立場をその思考の前提にまで溯って、批判的に吟味する姿勢というのは、それほと多くないと感じます。 瞑想や修行など体験から得るものは非常に大切ですが、一方で歴史や時代をしっかり捉える眼を失わず、知的な思考や学びの大切さも忘れずに、自分がかかわる潮流をチェックし続ける姿勢も同じように大切だと思います。 パラトラパさのメッセージは、それを呼びかけていると思います。
paratorapa:
 ありがとうございます。 それぞれが各自のやり方で霊性の向上をめざしていくのがニューエイジの個の感覚を重んじるスタイルといえるでしょう。 しかし,自分の中にばかり入り込んでしまったり,自己愛ばかりが増長して,他者との交流,共感,共有がおろそかになってしまっては元も子もありません。 また,仲間内だけで凝り固まって,自分たちだけが真実に迫っている,特別な存在なのだと思うようになっても,逆に社会的孤立を深めるだけでしょう。
  最初は個人の信念だったものが,大勢の人々に共有され,それが社会のシステムの中に定着していくプロセスでは,多くの摩擦や葛藤も起こるように思います。その中で淘汰され,消えていくものも出てくることでしょう。 この運動が共有され,定着していくためには,倫理やモラルという社会的,集合的な基準の確立抜きには語れない部分もあるように感じます。自己責任と社会的責任の両方が問われているのではないでしょうか?
NOBORU:
  パラトラパ雅さんの新世紀のメッセージや、サイババ問題などに関連して 「私にとってのニューエイジ」ということを考えています。 「ニューエイジ」と一言でいっても、固定的な定義付けなど不可能でしょう。 私は、ニューエイジ・ムーブメントという言葉は出来るだけ広くとっておいた方がいいと感じています。
  19世紀西欧のスピリチュアリズムや東洋の神秘的伝統などの影響を受けながら、 組織化された宗教よりも個人の直接的な霊的な覚醒を大切にする、 広く大衆化された運動ぐらい感じで。 もっと簡単に言えば、伝統宗教や組織にしばられない大衆化された霊的・精神的な関心の広がり、 ぐらいの感じでしょうか。
 こうした関心の広がりや動きそのものは、非常に重要であり、 未来を開く可能性をはらんでいると思っていますし、 私自身そのことを大変好ましく思っています。
  また、個々人が自由に自己を探求しようとする特徴があるので、 そこに含まれる考え方や修行の形態には様々なものがあって、 本当に幅広い裾野をもっていると思います。 しかし、だからこそ逆に、疑問視せざるを得ない考え方や運動もこの流れの中に混ざってきて、 時に大きな影響を与えることがあると思うのです。 そんな潮流の中で私たちがすべきことはなんでしょうか。
 私も「伝統宗教や組織にしばられず、かつ大衆的に広がる霊的・精神的な関心」の中に身をおいています。そうした潮流をニューエイジ・ムーブメントと考えていいと思います。 現代の行き過ぎた科学主義や物質主義を打開していくために、こうした関心がさらに広がっていくことは、とても大切ななことだと思います。 しかし、それが大衆化すればするほど、自分が間違った方向に進んでいないかどうか、ひとりひとりが絶えずチェックしていくことが重要になると思うのです。サイババ問題は、そうした内なる問いかけのよい機会を与えてくれたと思っています。
  ではどんな問いかけをして行けばいいのか。私が、自分自身で行っていきたいと思っているのは以下のようなことです。
1)内実を伴わない権威主義的な傾向に陥っていないか。
2)実証的に確認していくという姿勢を失っていないか。
3)すべてに対して開かれた在り方を失っていないか。
4)個としても集団としても自己肥大化するエゴイズムに陥っていないか。
  いま考えられるのは、こんなところです。ただ、現実には自分や、属する集団がこうした傾向に陥っていないかどうかを確認するのはかなり難しいのかもしれません。人間は自分を守るためにいくらでも「自己正当化」してしまうものだからです。
 
★このあと、「では、この四点をめぐって対話をしていかないか」との
パラパトラ雅さんからのお誘いがあり、
私(NOBORU)も願ってもないこと快諾し、対話が始まった。

対話(1)権威主義をめぐって(1)へ
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