瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ダンマを拠りどころに

2007年04月08日 | 瞑想日記
最近、地橋先生の今日の一言は、エゴに関係する言葉が続いている。

たとえば、

「エゴを乗り超えていく決意が不動のものであれば、価値観のオーダーが自ずから入れ替り、判断機軸の最上位に位置するだろう。
 すると、何をしていようとも、エゴ感覚が顕わになった瞬間を逃さず、サティが入るようになる……。」(4月6日)

「妄想から生まれたエゴの印象を拠りどころにするのではなく、自己に顕わになったダンマを拠りどころにする……。
 過去の経験と知識と技術の集積が正しく配列されて、一瞬一瞬の情報処理と反応の仕方を決めている状態……。」(4月7日)

エゴは、私にとって関心の深い問題なので、よき刺激となった。最初の言葉。「エゴ感覚が顕わになった瞬間を逃さず、サティが入る」 どこまで厳密にできるかと聞かれると自信はないが、私自身、エゴ感覚にできるだけ差ティを入れることを心がけてきた。凡人にとっては、ほとんどすべての言動に「エゴ感覚」が伴うから、現実には一切の知覚と思考において「エゴ感覚」を識別し、サティするということだろう。これからも、「エゴ感覚」にもっと鋭くサティをしていきたい。

次の言葉。「自己に顕わになったダンマを拠りどころにする」 エゴに関係する一切を振り落としたときに顕になる「何か」。ここではそれがダンマと呼ばれている。エゴという幻想は、いずれは消え失せる。しかし心配はいらない。エゴという束縛がなくなったとき、そこに顕になるのは、束縛なきダンマだ。エゴにしがみつくより、ダンマのもとに立つ方が、はるかに大きな解放なのであろう。