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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

何が変わったのか

2006年03月29日 | 瞑想日記
この一・二年で自分の中の何が変わっただろうか。ときどきしっかりと自覚化しておくことが大切だ思った。

ひとつはコンプレックスの自覚化だろう。コンプレックスの代償という意味での行為もめっきり少なくなったような気がする。もし、そうした動機に駆り立てられたとしても、すぐ自覚化できる(サティできる)ようだ。

上とどこかで関係していると思うが、家事などでのどんな些細な仕事もほとんど労をいとわなくなった。瞑想であろうと、自分の大切な研究であろうと、こうしてパソコンに向かうことであろうと、洗濯物を干すことであろうと、自分の中ではあまり優劣の序列がなくなった。

同じように、職場で自分に与えられた仕事に、自我の利害関心を超えて打ち込んでいくという姿勢も、おそらく実践のなかで徹底していくことになるだろう。

自分の中のこうした変化は、つねに自覚化して、さらに徹底させていくことが重要だなと思った。

偉大な探究3

2006年03月29日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
《要約》「偉大な探究」を止めようとする努力もまた、それ自体、探究である。

もし「スピリット」が偉大な探究の未来の産物といて見出されることがないのであれば、選択肢は、たった一つしかない。「スピリット」は、たった今、十全に、完全に、現前しており、そしてあなたは、それに完全に気づいているはずだ、ということである。そして、秘密とは、常に現前しているこの状態を認識することであって、未来において、「スピリット」が現前するように仕組むことではない。

この、常に現前する「スピリット」を、ありのままに認識することが、偉大な非二元の伝統なのである。西洋のプロティノスからエックハルトまで、東洋のナーガールジュナからイェシェ・ツォギャルまでの非二元の伝統の核心は、絶対的なリアリティと相対的な世界とは「二つではない」(非二元)ということである。

ところが、わたしたちは、「今」という「現前」に安らぐ以外は、何でもするのである。わたしたちは、「純粋な現前」に安らぐことはない。いつもどこか別の場所に行きたいと願う。偉大な探究はゲームである。それも終わることのない形をとる。p354-356(『統合心理学への道』より)

『存在することのシンプルな感覚』は、前にも書いたようにウィルバーの膨大な著作からのアンソロジーである。その最後に『統合心理学への道』の終章「常に、すでに」が収録されているわけだ。

ところで『統合心理学への道』の第10章は、まさしく「瞑想の効果」と題され、瞑想が論じられている。偉大な探究は「スピリット」の大いなる敵とされながら、しかし一方でウィルバーは、瞑想の効果を熱心に語っている。この包括性こそが、ウィルバーの魅力であり、また深く信頼できるところだと感じる。