瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

喪失や痛みの経験から

2005年11月18日 | 瞑想日記
◆エゴを超えたところで
夏の瞑想合宿から3ヶ月、これまで妻との間は全く問題なかったのだが、この一週間、私が妻の言葉に腹を立てることが3度ほどあった。3ヶ月たって私の方に合宿のときの気持ちを忘れかけたところがあったかもしれない。一方で、またまた合宿の最中のように妻と生き方や価値観の上でますます乖離していくような淋しさ、孤独感が湧きあがった。

今日、私に浮かんだのは「私がもっともっと透明になっていけばいいのだ」という言葉だった。「透明」というのは、要するにエゴで色づけられない心でということだ。妻の言葉につい腹をたててしまうのはエゴ。エゴを抑圧するのではなく、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止める。妻の言葉への反応で自分のエゴが見え、エゴを超えたところで受け止めることを学ばされている。私は妻との関係の中で大切なことを学んでいくもののようだ。

そして「慈悲の瞑想」を、私が地橋先生から感じとったような「透明」な波動として妻に届くよう集中して行うようになっていくだろう。

◆命そのものの苦
The Power of Now を読んでいて次のような文章に出会った。

You must have failed deeply on some level or experienced some deep loss or pain to be drawn to the spiritual dimension.

人は、ある程度手痛い失敗をするか、深いところでの喪失や痛みを経験することで、スピリチュアルな次元に引き寄せられる。

たぶんこの文章だと思う、あるいはもう少し前の文章だったかもしれない。読むとすぐ何かが胸にジーンと響いてきた。最近こういう読み方が増えているようだ。バイブレーションが直接伝わってくるような感じだ。

この文章から感じたのは、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということ。それは、人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦だ。その苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。現実の生活において失敗や病気や別離の苦しみがあってもなくても、生滅変化する命そのものの苦に深い次元で出会うことが、覚醒への道につながる。そういうことだった。