goo blog サービス終了のお知らせ 

瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート4:続き

2005年01月07日 | 瞑想合宿レポート
◆もう一つの渇愛
3日目、朝起きてすぐの座禅は、そこそこに出来たが、自宅で行っているとき同じようなものだ。朝で条件がよいから、最悪の状態にはならなかっただけだろう。その後の座禅はだいたい、サティが入る前に次々と妄想が展開してしまう状態だった。

ただし歩行瞑想は、比較的よい状態だった。少しは心随観ができたかも知れない。この違いは、どちらかというと得意な座禅の方では期待や渇愛があって瞑想にならず、逆に苦手な歩行瞑想では最初から期待していないから、かえってよい状態になるということなのか。

ともあれ、座禅をしたり、歩行瞑想をしたり、ときには条件や雰囲気を変えて喫茶室で座禅をしたりして、途方にくれながらも瞑想を続けていた。夕方、風呂からでたあと喫茶室で瞑想するが、思考=妄想ばかりでほとんどサティが入らない。少しは入ってもすぐに妄想に巻き込まれる。何の洞察もない。場所を移動し、一階の部屋で座禅。これも同じようにダメ。

困り果てて一階の部屋からでた。階段を上がる。一段上がる度に足の上げ下げや移動、筋肉の動きにサティをしていく。歩行瞑想と同じだ。こんな動作にはサティが入りやすいのだが、いつしか思考モードになっていた。「さて、どうしたらよいのだろう」と考えていた。そのときふと、自分が本当は何も求めているのかが分かった気がした。「やはりそうだった」と実感した。

瞑想合宿レポート4

2005年01月06日 | 瞑想合宿レポート
◆やはり渇愛か
最初の面接(2日目)で先生にこのひどい状態を伝えると、「前回の前半の状態とよく似ているが、単純に同じ轍を踏んでいるとも思えない。かといって他の原因も考えられないので、やはりよい瞑想への渇愛があって、心はより巧妙な隠蔽工作をしているのではないか」ということであった。

私自身、前回のようなサマーディのへ単純な渇愛にはもう囚われてはいないと感じていた。しかし、「渇愛があればよい瞑想はできない」と体験的に知ってしまった心は、表面的な渇愛は消し去っても、より巧妙で手が込んだ手口でやはりどこかに渇愛を隠蔽しているのかも知れない。

まったくサティが入らず瞑想状態にならないというのは、心がある現象を明確に引き起こしているとうことだ。渇愛なり何なりの不善心所がその現象を引き起こしているのは確かだろう。もしそれをサティによる洞察で解消するなら、それが本質的な自己理解につながっていく可能性もある。先生に、そう言って励まされた。


瞑想合宿レポート3

2005年01月05日 | 瞑想合宿レポート
◆ひとつのラベリング
今回の瞑想合宿もまた、どういう分けか瞑想がほとんどできない状態から始まった。そしてその状態が2・3日続いた。むしろ前回よりもひどかったかも知れない。「絶不調」であった。ともあれ半分夢心地のような状態で妄想を追ってしまい、ほとんどまったくサティができなかった。眠りに陥ってしまうわけではない。夢のような妄想に巻き込まれて、ハッと気づくが、サティを入れる間もなく次の妄想に巻き込まれるといった感じであった。

あまりにひどい状態に思わず「サティが全然入っていない!」というラベリングが飛び出した。その事実に対する軽い驚きをともなった言葉であった。その直後に急にサティが入るようになった。10分も経たないうちにもとの状態に戻ってしまったが、不意に浮かび上がるような、事実をそのままに捉えるラベリングが、状況をみごとに変化させることに強い印象をもった。

しばらく人が使っておらず冷え込んだコンクリートの建物は、どうしても最初は暖まりにくい。そのためか2日目あたりまでは、寒さと戦いながらの瞑想となった。しかし、瞑想に集中できなかったのは、そのためだけではない。やはり、渇愛のせいであったかと思った。あれほど注意していたのに、やはりどこかでよい瞑想をしたいという無自覚的な渇愛を心に忍び込ませていたのか。

瞑想合宿レポート2:追加

2005年01月05日 | 瞑想合宿レポート
今回の合宿で学んだことで書き忘れていたことがある。というより、あとから「これも学んだことの大切な一つだな」と気づいた。1)に関係するのでここでは1)’としておこう。

1)’瞑想の成果への隠された渇愛が、どれほど大きく瞑想の質に影響するかを今回の瞑想合宿のでいやというほど味わったが、もっと一般的に心の状態によって瞑想が直接に影響されていくことを強く実感した。善心所が瞑想につながり、不善心所が瞑想の乱れにつながる。しかし、サティにより洞察が起こったり、つかんでいたものを手放したりすると、一瞬にして瞑想がよい方向に変化する。そんなことも学んだのである。

瞑想合宿レポート2

2005年01月04日 | 瞑想合宿レポート
最初に、今回の瞑想合宿で学んだこと、印象に残った主なことを箇条書きにしてみよう。そのほうが、どんなテーマをどんな順番で書き進んでいくか、私自身にとっての整理になる。

1)合宿に行く直前に日記に「瞑想合宿に、私はまたさまざまな渇愛をぶらさげて参加するだろう。それらにどれだけ気づき、受容し、無執着になることができるのか。そんなことをじっくり見据える瞑想になるのだろうか」と書いたが、前半のテーマはまさにこれであった。握りしめていた瞑想に対する渇愛に気づくたびに私の瞑想は良い方向に向かっていった。

2)前回の合宿では、自分の劣等感とその補償としての本やホームページを通しての表現という心の在り方に気づいたが、今回はより具体的な劣等感の中身に気づき、その一部を受容することができたと思う。

3)今回はとくに無意識の心の働きの絶妙さに感嘆した。さまざまなイメージが深い意味をもって私に働きかけ、私を何かしらの統合に向かって導いてくれた。と同時に、そういう深い無意識の活動を促すヴィパッサナー瞑想という強力な方法の素晴らしさにあらためて強い印象を受け、この瞑想への確信をさらに深めた。

4)ヴィパッサナー瞑想は、心の抑圧を浮上させ、解放していく上できわめて合理的で優れたシステムであり、その基本はサティ(気づき)とラベリングである。選んだ中心対象(腹の動きや足裏の感覚など)にサティを入れつつ、意識がそこからはずれ他の対象にとらわれたり雑念したときにもサティを入れる。そしてすみやかにまた中心対象に戻る。この方法の単純さのなかに実は、無意識を浮上させる驚くべき力が隠されている。これはヴィパッサナー瞑想の基本中の基本だろうが、その力をあらためて体験し、この素晴らしい方法に出会った喜びをかみしめている。

主なものは以上だろう。他にも小さな学びは数多くあり、それらすべてを通してヴィパッサナー瞑想をさらに深めたい、この合宿にまた参加したいという思いを深めた。と同時にこの方法の素晴らしさを少しでも多くの人に知って欲しいという思いを強くした。