◆もう一つの渇愛
3日目、朝起きてすぐの座禅は、そこそこに出来たが、自宅で行っているとき同じようなものだ。朝で条件がよいから、最悪の状態にはならなかっただけだろう。その後の座禅はだいたい、サティが入る前に次々と妄想が展開してしまう状態だった。
ただし歩行瞑想は、比較的よい状態だった。少しは心随観ができたかも知れない。この違いは、どちらかというと得意な座禅の方では期待や渇愛があって瞑想にならず、逆に苦手な歩行瞑想では最初から期待していないから、かえってよい状態になるということなのか。
ともあれ、座禅をしたり、歩行瞑想をしたり、ときには条件や雰囲気を変えて喫茶室で座禅をしたりして、途方にくれながらも瞑想を続けていた。夕方、風呂からでたあと喫茶室で瞑想するが、思考=妄想ばかりでほとんどサティが入らない。少しは入ってもすぐに妄想に巻き込まれる。何の洞察もない。場所を移動し、一階の部屋で座禅。これも同じようにダメ。
困り果てて一階の部屋からでた。階段を上がる。一段上がる度に足の上げ下げや移動、筋肉の動きにサティをしていく。歩行瞑想と同じだ。こんな動作にはサティが入りやすいのだが、いつしか思考モードになっていた。「さて、どうしたらよいのだろう」と考えていた。そのときふと、自分が本当は何も求めているのかが分かった気がした。「やはりそうだった」と実感した。
3日目、朝起きてすぐの座禅は、そこそこに出来たが、自宅で行っているとき同じようなものだ。朝で条件がよいから、最悪の状態にはならなかっただけだろう。その後の座禅はだいたい、サティが入る前に次々と妄想が展開してしまう状態だった。
ただし歩行瞑想は、比較的よい状態だった。少しは心随観ができたかも知れない。この違いは、どちらかというと得意な座禅の方では期待や渇愛があって瞑想にならず、逆に苦手な歩行瞑想では最初から期待していないから、かえってよい状態になるということなのか。
ともあれ、座禅をしたり、歩行瞑想をしたり、ときには条件や雰囲気を変えて喫茶室で座禅をしたりして、途方にくれながらも瞑想を続けていた。夕方、風呂からでたあと喫茶室で瞑想するが、思考=妄想ばかりでほとんどサティが入らない。少しは入ってもすぐに妄想に巻き込まれる。何の洞察もない。場所を移動し、一階の部屋で座禅。これも同じようにダメ。
困り果てて一階の部屋からでた。階段を上がる。一段上がる度に足の上げ下げや移動、筋肉の動きにサティをしていく。歩行瞑想と同じだ。こんな動作にはサティが入りやすいのだが、いつしか思考モードになっていた。「さて、どうしたらよいのだろう」と考えていた。そのときふと、自分が本当は何も求めているのかが分かった気がした。「やはりそうだった」と実感した。