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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート14

2005年01月21日 | 瞑想合宿レポート
◆無明の雪
前回の夏の合宿の最終日。打ち上げ前の雑談のなかで輪廻と解脱の話題になった。原始仏教を熱心に信じる二人の参加者が、「解脱が最終目標とは言っても、やはりあと数回は生きたい」と話していた。冗談半分だったかも知れない。その時、私自身はどうかと自問した。驚いたことに、再び生まれてきたいという気持ちは出てこなかった。むしろ、これ以上は、生まれてきたくないというのが正直なところだった。

今回の合宿、前日の面接だったかに地橋先生にこのことを話した。先生は、意外そうな、しかし少しうれしそうな顔をして、「石井さんも、いよいよ原始仏教に近づいてきましたね」と言った。

(7日の続き)歩行瞑想のあと喫茶室でお茶を飲んだ。外は静かに雪が降り積もっていた。それを眺めながら、なぜか三人の子どもたちのことを思った。私と同じように無明を、しかしそれぞれの無明を生きていくだろう子どもたち。できれば無明を苦しんでほしくない。さまざまな劣等感や渇愛や囚われによる無明の生を苦しんで欲しくない。‥‥‥

そして気づいた。私が輪廻を繰り返したくないのは、無明の生を繰り返したくないということなのだ。無意識につき動かされるようにして無明を生きることの苦しみ、哀しみ。それを繰り返すことを少しも望んでいない自分に気づいたのである。

二階の座禅室へ行った。座禅のはじめに、参加者のひとりひとりに慈悲の瞑想をした。そして瞑想に入った。しだいに集中が深まった。さまざまなイメージ、そして性的な妄想すらあった。しかし、すっきりとした気分で瞑想を解いた。

座禅室の窓からは、裏手の木立やその向こうの集落が見下ろせた。雪が降り続けていた。無明の雪がいつまでも降り積もっていくのだと思った。と同時に、降り積もる無明の雪もやがて溶けていくことをどこかで感じていた。12月31日、大晦日の雪であった。

◆サティが続く
その夜、面接後の座禅は、深い集中の中でサティが続いた。最初は、面接の内容を反芻する思考が湧いたが、すぐに腹へのサティが連続し始めた。努力感なしにサティが続いた。腹の感覚がきわめてクリアで、その状態がずっと続いていく。一瞬、腹が巨大化し、その中に自分がいるようなイメージがあった。すぐに「イメージ」とサティすると実物大の腹に戻った。1時間後、就寝準備の鈴の音とともに、痛くなっていた足をほどいた。

瞑想合宿レポート8

2005年01月10日 | 瞑想合宿レポート
(昨日分に一部書き直しあり)
◆何度も繰り返す愚かさ
その瞬間に頭頂からスーッと気が通る感覚があった。体が緩み、抵抗なく体中で気が出入していた。声は出さなかったが、笑い出したい気分だった。何かしら神秘な瞑想体験、深い禅定や瞬間定を求める心の大ウソ、エゴのまやかし。小さなエゴのケチな欲求。そんなものはくそ食らえだ。何かがストーンと落ちた爽快さがあった。

しかし、次の瞬間にはすでに戸惑いがあった。瞑想を求める心のなかにやはり深い渇愛があった。ない、ないと思っていたけど、やはりあったのだ。とすれば私は何をすればいいのか。何も求めない心でサティをすればいいではないか。でも、瞑想を始めればまた、求める心が出てきてしまいそうだ。せっかくその愚かさを実感したのに、再び巻き込まれ、瞑想ができず、サティが入らず、苦しむのではないか。そんな戸惑いだった。

合宿に入って何回か、同じことを繰り返してきた。ひとつの渇愛に気づく。急にサティが入るようになる。そうすると、今度こそもっと深い瞑想ができそうだという次の渇愛に囚われる。そして瞑想がダメになる。その繰り返しだ。

だから、また同じことを繰り返しそうだ。その愚かさよ。しかし、深い禅定をもとめるエゴの自己満足、その滑稽さをこうして実感したからには、たとえまた渇愛に囚われても、再びここに戻ってくるだろう、何度でもここに戻ってくればいいのだ。そう思って再び瞑想を始めた。

トイレで、「今度こそうまく行きそうだ」と再び思っている自分に気づいた。そこにはすでに渇愛の心が忍び込んでいた。「また同じことをやっている」と一人で思わず笑ってしまった。しかし、その後の座禅は、就寝までずっとよい状態が続いた。サティが安定的に入るようになった。4日目にしてようやく瞑想が軌道に乗り出したのだ。

瞑想合宿レポート7

2005年01月09日 | 瞑想合宿レポート
◆求道こそ生きる意味
「真実でない部分がある」というラベリングは、どこか分析的な臭いがある。最初に出てきたのは「真実ではない」とか「ウソ」とかの単刀直入な言葉で、それをあとからあのように言いなおしてメモしたのかもしれない。

ともあれ歩行瞑想を止めて喫茶室に移動したとき、私はこの言葉から心随観をはじめていた。といってもかなり思考モードになっていた。私のいのちの底流は、求道であり、生死の真実の探求であった。そのことを私は、これまでもずっと意識のどこかでは分かっていた。しかし、この日ほどそれをまごうかたない真実として実感したことはなかった。このように明確な言葉とともに自覚したのは初めてであった。私のいのちの本質は、求道であり、それが生きる意味であった。それ以外の一切は飾り物にすぎない。

にもかかわらず私は、エゴの評価をもとめて必死になっている。そのことが、「真実ではない」こととして、「ウソ」として浮上してきたのだ。結局これは、最初の気づきをより深いレベルで捉えているようだ。そう思い至ったとき、何かしら感動があった。

この合宿でより深い内面への気づきと、劣等感からの解放とを求めるのは、私の底流から来る願いだった。しかし、合宿の体験をよいレポートにして評価されたいという渇愛はエゴだった。その渇愛が瞑想を邪魔していた。そしてその底には、求道とエゴ追求の矛盾があったのだ。自分は求道のために生まれて来たという遠い記憶が、ますますくっきりと形をとり、疑いようもない事実となりつつある。しかし一方では、相変わらずエゴの追求によってそれをかき消そうとする、その愚かしさとでもいおうか。その愚かしさとウソは、気障なセルロイドのメガネでもあった。

◆「こんなのまやかしだ」
その後は、かなり眠気の多い座禅や思考の多い歩行瞑想をしているうちに夕方になった。5時ぐらいから一階で座禅を始めた。やはり強い眠気で腹に全然集中できない。あまりにひどいので少し気を入れて集中力を高めようとした。それがきっかけとなり、最初に参加した合宿での瞑想を思い出した。やはり深い瞑想体験をしようと必死になっていた。そして同じように気を操作していた。すると何がしかの禅定に入りやすかった。

突如として「こんなのまやかしだ」と頭のなかで叫んでいた。「求める心の大ウソ」、「カニカ・サマーディなんかくそ食らえ!」 

瞑想合宿レポート6

2005年01月08日 | 瞑想合宿レポート
◆眠気と思考
しかし、それで問題が一気に解決するほど、ことは単純ではなかった。その日の夜の2回の座禅は、前半こそサティが入っていたが、後半眠気が来た。4日目の朝いちばんの座禅はとてもよかった。時折思考はあるがすぐにサティが入り、同時に腹の動きに戻れた。しかし、朝食後すぐの座禅とその後の歩行瞑想は、かなり強い眠気がずっと続いた。「昨日の気づきがあったのになぜなのか、眠気の原因は他にあるのか」という疑問が湧いた。食事が眠気の原因とは考えにくかった。すでに3回の合宿経験があり、多過ぎも少な過ぎもせずに自分の適量をとっていたからである。

ダンマトークが9時ごろに終了して最初の座禅はまあまあであった。そのあと歩行瞑想。またもや思考が多くなる。足裏の感覚に戻ろうとしても思考が次々に湧いて来る。いつしかサティを忘れて思考の団子状態となる。ハッとしてサティを入れ、また足裏に戻る。そんなことの繰り返しだ。しかし、次々湧いて来る思考にはある程度の一貫性があった。ヴィパッサナー瞑想と自分との関係を問う思考が多かったのだ。

◆気障なメガネ
実をいうと3日目あたりから、また例のメガネの錯覚が出始めていた。出たり消えたりだったが、そのときはなぜかフレームの両端が尖がったセルロイドの気障なメガネに感じられた。そこから、かなり思考モードではあったが、心随観が始まった。

私は一方で、求道者であり、生死の真実の探求者であった。それは嘘偽りない自分の姿であり、自分のいのちの底流をなしていた。他方で私は、自己愛や名利を求めようとする渇愛に囚われている。その矛盾、真実を求めながら「自己」拡大への渇愛に囚われていることのウソ、それがセルロイドの気障なメガネになって表れているような気がした。

昼食後すぐの座禅も眠気が多かった。仕方なく3階へ行って歩行瞑想を始めたが、やはり思考が多い。何とかしなくてはと、足の感覚のラベリングを実態に合わせて細やかにとっていった。たとえば、足が絨毯に着く瞬間の感覚をたんに「着」とするのではなく、感じているままに「ソフト」としたり、ラベリングはなしだが、足裏のあちこちの部位の感覚の変化を細やかに感じ取ってサティしたりした。そうすることでかなり思考が少なくなった。

そうやって足裏の感覚の微妙な変化にサティをしていると、ふと「真実でない部分がある」という言葉が浮かんだ。

瞑想合宿レポート5

2005年01月07日 | 瞑想合宿レポート
◆もう一つの渇愛(続き)
私がこの合宿で求めているのは、前回の気づきをさらに深めたいということだ。前回の合宿で私は、思いがけなく自分の劣等感を実感し、その補償として本を書いたり、ホームページ運営をしたりしている面があることに気づいた。ヴィパッサナーには、こういう洞察を起こす力があることを実感した。だからこそ、今回はさらにその洞察を深めたい、できれば劣等感を解放したいと願ってこの合宿に臨んだのだ。やはりそれが私のいちばんの動機なのだ。そう実感した。

その実感の後に、何か割り切れない感じが来た。この願いはまっとうなものだと、おそらく直感的に感じたのである。なのになぜサティができないのか。なぜ瞑想がこんなにもガタガタになるのか。そこに割り切れない、理不尽なものを感じたのだろう。そしてその瞬間に気づいた、洞察を深め、劣等感を解放したいという願いの背後に、もうひとつの別の渇愛が隠れていることを。それは、この合宿での体験をもっとよいレポートにして発表し、評価されたいという渇愛であった。

洞察を深め、劣等感を解放したいという思いは、より成長し、より自由になろうとする心の、本来の動きであり、善心所であろう。しかし、よいレポートをして評価を得たいという「期待」は、劣等感に根ざす補償行為であり、渇愛なのだ。それまで、瞑想そのものへの渇愛が妨害になっているとばかり考え、よいレポートを書きたいという渇愛にはまったく気づいていなかったのである。

◆瞑想が一変する
そう気づいたとき、「なるほど、そうだったのか!」という納得感、何かしら「腑に落ちる」感じがあった。しかし、もっと印象的だったのは、瞑想が一変してしまったことだ。階段での気づきのあと、そのまま上がっていった2階の座禅室で座った。15分ほどだったが、これまで悩まされていたのが嘘のように、苦もなく中心対象にサティが入っていく。何かすっきりしている。そのあまりの違いに感動した。

心の状態、たとえば隠された割愛が、いかに瞑想に直接影響するか、ここでまずはっきりと体験したのである。