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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート18

2005年01月27日 | 瞑想合宿レポート
◆女王と一体に
結局、起床の午前4時まで眠らなかった。起床後の座禅は、あまりよくなかった。しかし、10日目は、朝食の時間で修行は終わる。実質9日目が修行の最終日だ。よくないなりに気持ちは真剣であった。朝食後も、よくなかったが、やはり必死の瞑想を続ける。

ダンマトークのあとも必死の瞑想をつづける。昼食時間に近くなったころの座禅のときであった。しばし夢のイメージのような妄想を追っていた。そのとき再びあの女子生徒の姿が浮かんだ。彼女が、両手を上にかかげている。なぜか彼女が女王の衣装に身を包んでいる。いや昔話の女王というより、美人コンテストの女王の衣装にも見えた。栄光に両手をかざしているのだ。「えっ、彼女が栄冠を?」と思った(失礼!)。と思う間もなく、その女王に私が重なっていった。またまた「なぜ、私が女王になるんだ」という戸惑いがあった。しかし、体には解放感が広がっていた。体がどんどんと弛み、楽になっていく。その解放感のなかで昼食の合図の鈴が鳴った。

他の参加者と列を作りつつ、ゆっくりと階段を降りて行く。「今のはなんだったのか」という思いが頭を占めている。それでも「離れた」「進めた」と足の動きにサティをしつつ階段を降りる。一瞬、キングのイメージが頭をかすめた。トランプのキングだった。そのイメージとともに「もう、これと対抗する必要はないんだ」という思いが走った。「そうだったんだ」という納得感があった。

◆王と女王
昼食の前半は、女王と一体になった体験と、キングのイメージのことが気になり、ほとんどサティにならなかった。しかし、体験の意味はいまやはっきりとした。私はずっと、自分のなかの女性的なものを嫌い、否定し、押さえつけて来たのだ。しかし、女性的なものは、最高度の男性的なもの(キング・王)となんら劣るものではない(女王)。まったく対等と見なしていいのだ。一連のイメージは、それを語っていた。私のなかの女性的なものを卑下せず、拒否せず、ありのままに受け入れるならば、優れて男性的なもの(キング)と自分の女性的なところを比較して劣等意識を持ったり、無理に対抗したりする必要はもうないのだ。むしろ王と女王とは一体なのだ。ここまで分かって、私はとても楽になった。自分のなかの女性的なものの、本当の受容が起こった感じがした。

瞑想合宿レポート17

2005年01月24日 | 瞑想合宿レポート
◆一度だけの嗚咽
9日目の夜中、午前2時過ぎだったろうか、あるいは3時に近かったかもしれない。足の先が寒くて目覚めた。毛布からはみ出していたらしい。目覚めてとくに何を考えていたという記憶はない。急に何かがこみ上げて来たことだけを覚えている。

「これまでずっとたった一人で苦しんできたんだな」と思った。一瞬、これまでに経験したことのない底冷えるような孤独と辛さを感じた。そして一度だけ嗚咽した。すると体がじわーと弛み、楽になった。ふわーっと溶けていくような感覚だった。気がつくと涙が頬を伝わっていた。何かしら抑圧が解けたという感覚があった。無明の凍りがひとつ溶けた。そのうれしさが弛んだ体に広がっていた。

すでに触れたが、若き日に友人に攻撃されて深く傷ついた。それに関連した別の記憶や、それらに共通した自分の根深い劣等感が見えはじめていたことも触れた。その抑圧が、ふいに目覚めた夜中の布団のなかで溶解したようだった。

◆ダンマの風
起き上がって座禅をしようかと思った。しかし「今は、頑張りモードじゃあないな」と思って、止めた。布団のなかで思った、様々な抑圧が、抑圧による苦しみが、そして抑圧の解けない人生同士の衝突による苦しみが、世界中に渦巻いている。国家や民族も、個々の人生と同じようにトラウマと抑圧の歴史をもち、抑圧を外部に投影してその敵と戦っている。無明が無明を生んで、延々と争いと苦しみの鎖が続いていく。

しかし、たとえ微かにせよ、ダンマの風も確実に吹いている。私のなかで凍てついていたものが溶けはじめたように、あちらこちらで何かが溶けていく確かな事実がある。凍てついた何かを溶かす力は、すべてダンマだ。誰かの一言でわずかに溶けるのも、深い衝撃とともに大きく溶けるのも、すべてダンマの力による。世界を貫いてそういう力が働いているのもまた事実だと思った。

瞑想合宿レポート16

2005年01月23日 | 瞑想合宿レポート
◆天女となる
8日目昼食後の歩行瞑想も似たり寄ったりの状態だった。そのあとの2回の座禅は眠けが多く、半ば夢のような妄想に巻き込まれていた。

午後3時頃から再び座禅。前半がどんな座禅だったかは覚えていない。確かに覚えているのは、これまで何回も出現していた、あの女子生徒のイメージが再び現れたことだ。そして突然、女座りに座っている彼女のイメージのなかに私が重なっていった。一瞬、「えっ」とびっくりし、女性に重なっていく自分に戸惑いを感じた。

その瞬間、女子生徒と重なった私が天女になり、空に舞い上がっていった。依然として戸惑いを感じていた。そして、このまま天女となって空を舞うか、イメージにサティを入れるか迷った。サティを入れると、イメージは消えた。そして再び腹の動きへのサティに戻った。しかし、からだの力みが一気に抜けたかのように楽で、気持ちよく、呼吸も楽になっていた。周囲の音が遠のき、辺りが明るくなっているような気がした。腹の動きにサティしながら、その状態がしばらくして続いた。

座禅を解き部屋を出て階段を降りた。トイレに行った記憶がある。トイレのなかで先ほどの体験のことを考えた。サティを忘れ思考モードになっていた。そうか、女子生徒は私のアニマの投影だったのか、と思った。彼女と重なっていったのは、抑圧していた私のアニマと結合するイメージだったのかもしれない。だとしたら天女になったのはどういうことか。天女を吉祥天だとは意識していなかった。天女になって空へ舞い上がるイメージだけがあった。

座禅を解いた後の私には、しかし、座禅中の解放感はなかった。何か割り切れない感じ、すっきりしないものが残っていた。もしあのイメージが、何かしら抑圧されたものの解放につながっていたのなら、もっと解放感があっていいはずだ、と思った。

◆アニマ
アニマの解説を少し。ユングは、夢に出現する異性像を、アニムス・アニマと呼んで重視した。男性の夢に出現する女性像がアニマであり、女性にとっての男性像がアニムスである。男性にとっての外的態度(ペルソナ)は、力強く、論理的であることが期待される。しかし、彼の内的な態度は、弱々しく、非論理的かもしれない。このように一般に望ましいと考えられる外的態度から締め出された面が、抑圧されて夢の女性像として現れる。ペルソナとアニマは相補的なのである。「影」は、自分と同性の人物として人格化されることが多い。

瞑想合宿レポート15

2005年01月22日 | 瞑想合宿レポート
◆起床からサティが続く
8日目、2005年、元旦。といっても修行者は、いつもと同様に黙々とサティを続けるだけである。この日は、起床して服を着る動作から自然にサティが入り続けた。トイレへいく一歩一歩の足の動き、スイッチをいれ扉を開ける動作、トイレ内への移動‥‥。これまでは、トイレの中の動作のどこかでサティが途切れていたが、この日は途切れなかった。続いて、掃除機を使って部屋の掃除。かがみこんでコードを引き、コンセントに差込み、掃除機を移動させ、という複雑な動作にも苦もなくサティが入り続ける。掃除の途中で、「あ、完璧にサティが入り続けている」と気づいた瞬間、その思考にはサティが入らなかった。先生によると、前の晩のよい瞑想状態が、翌朝にも引きつがれていく傾向があるとのことだった。

その後の瞑想も、昨晩ほどの深い禅定感はなかったものの、サティがクリアに続いた。

◆達成ゲーム
8日目、9日目は、恒例の達成ゲームがある。先生のダンマトークでのお話ぶりでは、今回も達成ゲームを行うかどうか、若干の迷いがあったようだ。が、結局行うこととなった。たしかに甘いサティだとどうしても思考モードに流れることが多く、思考=エゴが裁量する範囲での洞察しか得られない。思考の入らない厳密なサティを続け、それでも浮上してくる妄想やイメージにもサティを入れていると、エゴの裁量を超えた洞察、自己変革につながる劇的な変化が起こりやすい。だからこそ純粋なサティが大切なのだ。これが、達成ゲームを行う、先生の狙いのひとつだ。

厳密なサティの意味は充分納得できる。しかし私は、せっかく瞑想が軌道に乗ってきたところへ、また新たなルールを意識して心を乱されることに抵抗を感じていた。サティを連続させる3時間という時間を意識してしまい、またサティが途切れたかどうかをいちいち厳密にチェックしていくことは、かなりわずらわしい。これまでの瞑想の流れを断ち切られるような感じだった。サティがどれぐらい続いたかに意識を奪われるのがいやであった。

ダンマトーク後の瞑想は、やはり達成ゲームを意識して全体によくなかった。3階で少し早足で歩行瞑想をした。少しは足裏の感覚に集中できるが、15分、せいぜい30分でサティの入らない思考に気づく。そうするとまた振り出しに戻って時間を計る。その繰り返しだった。