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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿に向けて

2005年08月03日 | 瞑想合宿レポート
今月12日(金)から21日(日)まで、またグリーンヒル瞑想研究所の瞑想合宿に参加予定である。あと10日しかない。今朝、瞑想中の雑念で、今から瞑想合宿のつもりで行こうと思った。

もちろん実際にはなかなか困難なのだが、できるかぎり瞑想の時間を多くし、日常生活の中のサティも合宿中のことを意識しながら厳密に行う努力はできる。また、ふだんはほとんどやらないゆっくりの歩行瞑想もやっていこう。そうやってできる範囲で合宿中の状態に近づけていきたい。最近、意欲が減退していたが、気持ちはもう合宿に入っているつもりで合宿までの何日かを過ごそうと思った。

前回も前々回も当日まで日常の雑事に追われていたが、幸い今回は比較的気持ちに余裕がある。前回までともうひとつ違う点は、食事の回数や量も合宿時に比較的近いということだ。

合宿時の食事は、朝と昼で夜がない。ふだんの生活では朝を食べない。日常生活の中では朝食を食べてすぐに活動を開始するところに問題が生じるが、合宿中はすることは瞑想だけなので、実はまったく問題ないのである。

瞑想合宿レポート22

2005年02月12日 | 瞑想合宿レポート
◆最後の夜の歩行瞑想
9日の面接終了後の瞑想は、正直言ってすっかり終了気分になってしまった。大きな仕事をし終えたあとのふぬけ状態といった感じだ。しかしこの夜から10日の朝食まで時間はたっぷりとあった。これではならじと、歩行瞑想に本気で打ち込む気になった。
 
地橋先生が、ダンマトークで歩行時のラベリングをきめ細かくすることで達成ゲームを成功させた例を話していたのを思い出し、私もやってみた。「(足を)離したい→離した→移動したい→移動→(じゅうたんに)触れたい→触れた」などと、ラベリングの数をふつうの倍以上にするのだ。こうすると思考が入る隙間がないから、サティが続きやすい。

実際にやってみると確かに思考が入る隙間がない。何か考えそうになってモヤモヤっとした「想念への欲求」が来るが、その瞬間に「思考」とサティしてしまう。こうしていると、雑念・思考が一種の欲求であることがよくわかる。ともあれこうして最後の夜は3時間近く連続で歩行瞑想を続けた。そのうち数回はサティの入らない思考があったので、ゲーム達成とはいかなかったが。

◆まとめ
最終日は、朝食後、最終面接とレポート書きがあり、その後は昼食そして打ち上げだ。ここで始めてお互いにゆっくり自己紹介したり、この10日間の体験を語り合ったりする。今回の合宿でも劇的な転換や深い瞑想体験がいくつもあったようだ。地橋先生は、そのような効果の理由のひとつが10日間という長さにあるという。決定的な体験の多くは8日目・9日めあたりに集中する。確かに私の場合も9日目に大きな体験があった。たとえ前半の瞑想がさえないように見えても潜在意識のレベルでは着々と準備がなされ、それが最後に一気に顕在化するのだろうか。

今私はこんな風に思っている。まずは腹や足裏など中心対象に集中しつつ、それでも意識に浮上してくる妄念やイメージにもサティを続ける。それは思考する自我の働きを弱め、ただクリアな自覚だけを保つということだ。こうして潜在意識への足かせが緩められて、その働きが活発になると、自我にさまざまな情報を伝えるようになる。サティは、それらの情報を見落とさず敏感にキャッチする。おそらく潜在意識の働きが活発化して自我のレベルに一気に流れ込んでくるまでに7日や8日の潜伏期間が必要なのだ。一心にサティをしているとき、意識下では刻々と準備がなされているのだろう。

瞑想合宿レポート21

2005年02月06日 | 瞑想合宿レポート
◆解釈とサティ
9日目の面接でその日の報告をした。女子生徒が女王に変化し、その女王と一体となったこと。トランプのキングのイメージを見たとき「もう、これと対抗する必要はないのだ」と感じたことなど。それがアニマとの統合だったという捉え方に先生もうなずいてくれた。そして、私の瞑想はイメージによる「形象力」に特徴があり、それが実に印象的だとの感想を伝えてくれた。

私自身は、他の人たちの瞑想との比較は分からない。しかし今回、瞑想中に様々なイメージが展開し、それが自分にとっての重要なメッセージになっていることに強い印象をもった。それは事実だ。無意識は、まるで意識的な私から独立した智者であるかのように、私に働きかけてきた。

もう一つここで確認しておきたいのはイメージと解釈の問題である。私にとってイメージをどう解釈するかは、基本的にラベリングによるサティと同じことだった。心随観で適切なラベリングが出ると、そこに深い洞察が生じる。解釈はそれと同じだ。洞察や気づきがあるところには、何かしらの変化がある。「あっ、そうだったのか」という腑に落ちる感じ、それにともなう心身の変化。だからラベリング=解釈が真実を射ていたかどうかは、自分自身にとっては明白だったのである。

◆メガネのイメージ
これに関連して面白かったのは巨大化したメガネのイメージである。そのメガネに意識を集中した瞬間に、ぼろぼろになって泣きべそをかいているメガネのイメージが来た。一瞬「瞑想による気づきに対して、図体を大きくして抵抗している。でもそれが無駄な抵抗だと自ら知っていて泣きべそをかいている」と感じた。私は、思わず一人で笑ってしまった。腑に落ちる「ラベリング」だった。

ただしメガネは、やはりその時々でかなり重層的な意味をもっていたようである。全体としては抑圧する自我の象徴なのだろうが、その時々にテーマとなっている抑圧に対応して微妙にイメージや意味を変化させているようだった。巨大化して無駄な抵抗をしたのは、アニマやそれに関連する根深い抑圧を象徴していたからだろう。しかし、その後に再びメガネは復活した。自我そのものが抑圧する機能である以上、私が自我に囚われているかぎり、メガネのイメージは続くのかも知れない。地橋先生がいうように、メガネは私の瞑想にとっての「バロメーター」の役割を果たしていくのかもしれない。

瞑想合宿レポート20

2005年01月31日 | 瞑想合宿レポート
◆なぜあの女性徒だったのか(続き)
多くの場合、アニマは男性のこころの中の抑圧されたもの、その男性にとって弱い部分(劣等機能)と結びつきやすいという。たとえば、思考型の男性は、彼の中の弱い部分、すなわち感情機能がアニマと結合している。堅い人で通っていた学者が娼婦型の女性に心を奪われたり、ドン・ファンとして知られた男性が、ただ一人の清純な女性に一途な愛を捧げたりするのも、そうしたアニマの外界への投影であったりする。(アニマの説明は、河合隼雄『ユング心理学入門』を参考にした。以下同様)

私も、思考型といってよいだろうから、感情機能が豊かな女子生徒に何らかの投影が働いたのかもしれない。あるいは、教師としての社会的な役割や規則に縛られている私の抑圧している面がアニマと結びつき、縛られずに生きる女子生徒に投影されたのかもしれない。また地橋先生が指摘していたように、彼女の中にはただおきゃんなだけでなく意外と素直で真面目な部分も隠されいて、そんなところを私が感じ取っていたのかもしれない。いずれにせよ、自覚されないいくつかの要素がからみあって、私の中のアニマが彼女に投影された。彼女にとくに好き嫌いの感情をもっていなかっただけに、ちょっと不思議な感じは残る。

◆アニマの多様性
ところでユングによると、アニマは4段階を経て発展していく。第1は生物学的な段階、次はロマンチックな段階、そして霊的(スピリチュアル)な段階、最後は叡智の段階である。

生物学的な段階では、女の子を生む機能、性の面が強調され、イメージとしては娼婦が出現する場合が多いという。次のロマンチックなアニマは、西洋の文学が多く描いてきた、一個の人格として恋愛の対象となる女性である。第3段階の霊的な段階は、聖母マリアに代表される母性と処女性をあわせもった女性像である。最後の叡智のアニマは、中宮寺の弥勒菩薩像が典型的に示している。限りないやさしさと同時に深い知恵をたたえた像である。

私のイメージの中では、女子生徒が娼婦になったり、棟方志功の吉祥天になったり、天女になったり、女王になったりしてめまぐるしかった。それらが、ユングの4段階のどれに当たるかを詮索する気はないが、ただ棟方志功の女人図を見て、横溢する女性性とその賛歌、そして宗教性との結合にはあらためて強い印象を受けた。

瞑想合宿レポート19

2005年01月30日 | 瞑想合宿レポート
◆無意識の自律性
女王と一体になる体験の前日に、似たような体験をしたことはすで触れた。例の女子生徒に自分が重なっていき、その直後に天女になって空に舞い上がった体験である。この二つは、どのように関連しているのだろうか。

おそらく天女も、自分のなかの女性性を肯定するイメージだっただろう。しかし一瞬の戸惑いのなかで、私は空を舞うイメージに身を任せなかった。それが体験を消化不良にさせたのだろう。だから、このイメージの体験後はあまり解放感がなかった。そして翌日、女王というもっと分かりやすいイメージによって再びアニマとの統合が図られたのではないだろうか。しかも女王は、王(男性性)と対となるから、統合のイメージによりふさわしい。

あるいは、9日目の明け方に、自分の根深いコンプレックスを受容する体験があった。そのコンプレックスとアニマの抑圧とは関連している。そういう深い受容があったからこそ、アニマとの充分が統合の準備が出来たのかもしれない。それが、女王のイメージとの一体化につながっていったとも思える。

ともあれ、自分の意図しないところでかってにイメージが展開し、抑圧されたものとの統合が果たされていくということに強い印象をもった。人の無意識の働きの不思議さに心を打たれた。ユングは、無意識が自律性をそなえ、かつ創造的で、ときには人格的なものとして現れてくることを指摘したというが、まさにそのようなことを自ら体験したのである。天女のイメージで未消化だった体験を、さらに女王のイメージによって再体験させるなどは、意識的な私からは独立した知恵のようなものを感じさせた。

◆なぜあの女性徒だったのか
ユングは夢の分析を進めるうちに、男性の夢に特徴的な女性像が多く出現することに強い印象をもった。そのような女性像の元型として、男性の集合的無意識のなかに潜む女性像・女性的性質をアニマと呼んだ。(これに対し、女性のなかに潜む男性性がアニムスである。)

とまあ、これは教科書的な説明だが、ひとつずっと気になっていたのは、なぜあの女性徒が、私のアニマの現実における対応人物になっていたのかということである。前にも書いたように、私は彼女に特別な感情は何ももっていなかったのである。