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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート12

2005年09月24日 | 瞑想合宿レポート
◆慈悲の波動
9日目のダンマトークが終わったあと、私の体は心地よいバイブレーションに包まれていた。心も深く静まっていた。それが、地橋先生のダンマトークから伝わってきたことは明らかだった。最初は、ダンマトークの内容が私の心に響いてきたのだと思ったが、後から振り返るとどうもそれだけではなさそうだった。ともあれ、この波動に包まれて瞑想をすれば、きっと素晴らしい瞑想になるに違いないと期待した。他の人々が去ったあと、私は一人、同じ部屋に残って座禅した。

10分、20分と過ぎた。心は静まっているし、体全体がバイブレーションに包まれていたが、何か物足りなかった。30分ほどで切り上げ、1階の部屋に移動した。そこでまた座禅をした。同じようにいい感じで心身が深く静まっていた。しかし、やはり「成果」はない。ここも30分ほどで切り上げた。再び2階に戻って座禅したが、また期待は裏切られた。「やはりダメか」と思った。

私はあきらめて3階に行き、歩行瞑想をはじめた。窓辺まで歩んで行ったとき、ふいに何かを感じた。あのダンマトーク全体を貫いて流れ、そして私にまで響いてきたものの性質が確実にわかった。それは「慈悲」の波動だった。地橋先生から、あるいは地橋先生を通して何ものかから伝わってくる「慈悲」の波動だった。それがふいに感じられた。その瞬間、眼から涙が流れ落ちていた。顔がくしゃくしゃになった。私は、あわてて1階に降りた。

それは、確かに地橋先生からくるのだが、同時に地橋先生を超えていた。生身の人間の我執によって汚されていない透明な波動のように感じた。そのようなものが確実な存在感をもって伝わってくるということに軽い驚きがあった。

ダンマトークのあと心地よいバイブレーションに包まれたとき、私は「これに包まれて座禅したら、今回の合宿の成果が得られるかもしれない」と期待した。「これを使って得るべきものを得てやる」と狙った。しかし、それはお門違いというものだった。伝わってくる波動の本質をまったく捉え損ねていたのだ。それは、自我の期待や狙いで利用すべきものではなかった。何度か座禅をして、期待や狙いが落ちていったときに、やっとその意味が心に響いてきたのだ。

瞑想合宿レポート11(後半訂正)

2005年09月24日 | 瞑想合宿レポート
(以下は、9月11日付けの訂正に基づいて、瞑想合宿レポート11の後半を書きなおしたもの)

その日(8日目)の夜、私はまだ「今回の合宿は何の気づきも洞察もないのか」という思いにとらわれていた。前回の合宿のイメージにとらわれて、それと比較して今回は気づきを深めるイメージの展開は何もないとあせっていた。そして「いや、まだまだこれからだ。これから必ず自分が得るべきものを得るぞ」と心に誓ったりしたのである。

その時、一方で私は気づいた。合宿に出発する日の明け方に見た夢のメッセージはこれだったのかと。瞑想合宿への参加を遅らせてでも自分の使命を果たすという夢。内面に向かう道としての瞑想と外的な世界での奉仕、あるいはクーサラ。結局私は、ここに帰ってきたのだ。家族ななかで、人間関係のなかでこそ徹底的に捨てて行く道へと。

合宿に向かう中央線の電車のなかで感じていた、何かをやりのこしているような、こんなことをしていていいのかというような漠然とした不安。それもまた、こうした展開の前兆だったのかもしれない。

今回の合宿全体が、この夢をめぐって、この夢の意味を深く洞察する方向へと展開しているのか。

瞑想合宿レポート11

2005年09月18日 | 瞑想合宿レポート
◆小さな転換
昼食後すぐにまた座禅をした。家族から乖離していくことの淋しさが再びよみがえってきた。しかしその時、思考モードのなかではあったが、ちょっとした転換が起こった。私は、断食で贅肉を落としていくのと同様に、心にまとわりついた様々なものを瞑想によって落としていくだろう。内面において徹底的に捨てていく道を歩むだろう。

しかし、徹底的に捨てていく道は、身近な人間関係や社会関係においても開かれているではないか。「自我」の損得勘定に惑わされずに徹底的に家事や家族サービスに打ち込んでいくことは、そのまま徹底的に捨てていく道ではないか。「自我」の利害関心を超えたところで徹底的に職場の仕事に打ち込んでいくことは、そのまま捨てる道に通じているではないか‥‥。家に帰ったら徹底的に家族サービスをしよう。仕事をしよう。捨てていく道として。

そう思ったとき、家族との乖離の不安や淋しさが完全に消えていた。そしてサティが、苦もなく続きはじめた。眠気はまったくなく、透明な瞑想状態がつづいた。みごとに善心所モードに切り替わったのだろう。気がつくと、昼前にはあったメガネの錯覚が消えていた。

さらに、翌日になってから気づいた。これが、合宿の出発する日の明け方に見た夢のメッセージではなかったのかと。瞑想合宿への参加を遅らせてでも自分の使命を果たすという夢。内面に向かう道としての瞑想と外的な世界での奉仕、あるいはクーサラ。合宿に向かう中央線の電車のなかで感じていた、何かをやりのこしているような、こんなことをしていていいのかというような漠然とした不安。すべてが、ここにつながっていたのかもしれない。

結局、合宿前に見た夢に戻ってきたのだ。あるいは、夢の意味を深めるような形で今回の瞑想合宿全体が展開していたのか。

瞑想合宿レポート10

2005年09月17日 | 瞑想合宿レポート
◆メガネの錯覚
今回の合宿で私は、深い瞑想体験への期待が渇愛になるのを避けようとするあまり、修行に向けてのテンションが全体として低下していたかもしれない。それは、自分自身の取り組みからどことなく感じられたのだが、例のメガネの錯覚の出方からも感じられた。

3日目、「今回はメガネは出ないな」と思っていたら、夕方の座禅でクリアなサティが続いたときにメガネが強く感じられた。しかし、これまでと違うのは、メガネが持続的な錯覚にならなかったことだ。瞑想が深まると現れて、時にわずらわしいほどに感じられたが、全く表れないことも多かった。結局、今回の合宿でメガネが気づきに向けての重要な役割をなすことはなかった。もしメガネが自我の抵抗を象徴しているのだとすれば、今回の合宿は、自我にとって脅威になるほど、テンションが高まらなかったということか。

地橋先生も言うようにヴィパッサナー瞑想の難しさがここにある。やる気を出してがんばろうとすると渇愛になる。しかし、渇愛を弱めようとするとモチベーション全体が下がり、緊張感のない10日間を過ごしてしまう。この点、サマタ瞑想は単純で、ひたすら頑張って集中するだけですむ。ヴィパッサナー瞑想にはこうした微妙な難しさがあるが、逆にそれが自己洞察への重要なきっかけになるのかもしれない。

7日目に妻や家族と考え方が離れていく危機感を感じた。しかし、その段階で私は、これが今回の合宿の大切なテーマにつながっているとは思っていなかった。瞑想を続けていれば前回と同じように様々なイメージが展開し、さらに深い自己洞察に導いてくれると期待していた。しかし、8日になっても気づきにつながるようなイメージの展開はなかった。「今回は何の成果もなく終わるのか」と私は少しあせりを感じ始めた。あせりは、不善心所につながり、瞑想に何かしら影響を与えていたはずだ。

8日目、昼食の直前の時間帯、あるはずのないメガネを感じながら座禅していた。その時また、家族と乖離していく淋しさを感じた。捨てて行く自分を感じた。断食をして贅肉を落としていくように、これから私は一歩一歩、世俗的価値を捨てる方向に進んでいく。それは家族との平凡な幸せを捨てて行く方向につながる。そんな予感から来る淋しさだったのだろうか。