日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

出エジプト記2:1-10 「救いの約束」

2015-11-25 11:39:52 | 説教
もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
    出エジプト 2:3

 今日の聖書箇所はモーセの生い立ちが書かれています。
出エジプト記に登場するイスラエルの民は、かつて自分たちが住んでいた土地が飢饉になったため、エジプトの国に飢饉難民として移住してきました。
 当初は保護を受け守られていたのが、この出エジプト記の時代になると王朝が変わり、奴隷の立場に落とされています。過酷な労働を強いられただけでなく、エジプトの王は、イスラエル人たちを弱体化させようと、男の子が生まれたらその出産の場面で殺戮の命令。生まれた男の子は1人残らずナイル川に放り込めだの、残虐な命令を下します。
男の子を守ったのは3人の女性たちでした。いくつかの危機をくぐり抜け、赤ん坊の命は守られ成長していきます。
パピルスで編んだ籠をしっかり防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。
王の命令は、「ナイル川に放り込んでしまえ」でした。母親も王の命令に従い、我が子をナイル川に入れたよういふるまいました。ただし、優しくそっと、命が長らえるようにと祈りを込めて。誰かが、この子を見つけ出し、守り育ててくれることを願って。
お姉さんは、弟が心配でじっと後を見守っていました。
ファラオの王女は水浴びをしようと川に下りてきたのです。そして、籠を見つけてしまいました。恐ろしい事態かと思ましたが。事柄は良い方向に進展していきます。
お姉さんは、弟を助けるために何もすることができず、ただ固唾を呑んで事の成り行きを見ていました。
 王女は籠を陸に上げ、中をのぞき込みます。不安の中で男の子は泣いています。
 その不安とは裏腹にファラオの娘、いい人でした。王女も王の冷酷な命令に逆らう人でした。王がナイル川に放り込んで死に至らしめようとしているヘブライ人の男の子と知りつつも、
その泣きじゃくる赤ん坊を憐れみ、不憫に思い、何とかしようと考えます。
男の子のお姉さんは、王女の弟への対応に心躍らせ、素敵な提案をします。王女を警護する侍女たちの間を抜けて、王女のところへ直訴したのです。
男の子の生みの母親を乳母として用いる道を提案します。
こうして、小さな命を守る女性達の業が大きく用いられるのです。
王女は、この男の子に「モーセ」という名を付けました。それは「水の中から引き上げる」(=マーシャー)という言葉から来ています。 「マーシャー」とは、ナイルの川の中から幼子を引き上げるということだけではなく、やがて、モーセを先頭にして紅海を渡ってゆくイスラエルの民のことも預言した言葉です。すなわち、あの紅海の水の中をモーセを先頭にしてイスラエルの民が、くぐって引き上げられるという救いの出来事へとつながってゆくのです。
このモーセという名前の意味は、やがてイスラエルの民を水の中から引き上げて約束の地を目指すものとなってゆきます。
葦のかごの籠は、モーセの箱舟の箱舟と同じ言葉が使われています。アスファルトとピッチは、あの大洪水の時に、ノアが箱舟を造った時に、防水に使ったものです。水が箱舟の中にしみ込んでくるのを防ぎます。つまり、このアスファルトやピッチは、水の底に沈んでしまう私たちを死から守るものなのです。赤ん坊の命を、エジプトの兵士たちが血眼になって探していました。その死から守るもの、それがこのパピルスの籠だったのです。洪水の中から救われたノア、紅海の水がわれて、イスラエルの民が救われる出来事、クリスマスの幼児虐殺他、
厳しい現実にあるものを引き上げて下さる、神の大きなみ業をあらわしているようです。
繰り返される救済の奇跡を表しているようにも思います。歴史の片隅の小さな出来事のようですが大きな出来事を示すと共に、大きな解放の出来事に通じているのです。
赤ちゃんだったモーセを、その父母が「葦のかご」に入れました。
彼らがあんだそのかごの中に、神様の救いの大きな計画が入れられました。
 ちっぽけなそのかごは、幼児虐殺の厳しい世界の中での祈りであり、礼拝であり、
神様は、その“かご”に愛をこめ、共に歩まれ、そのかごを用いて、出エジプトという大きな救いの業を起こされました。
ノアの“方舟”のような救いの出来事を起こすかごです。
 モーセの名の由来でもある“引き上げた(マーシャー)”の語も、詩編18編17節の“引き上げて”と同一であり、救い出すと同じ意味があります。神は厳しい現実に生きるものを見捨てられる方ではなく、救い出される神なのです。
モーセを助けたのは、エジプトの王女でした。敵国と思える人さえも救いに関与しています。
神の働きが広い視野で理解されていることは、出エジプト記が編纂された当時のイスラエルが、新バビロニア帝国という異邦人のただ中にいました。神はどんなに離れた国でも、救いの業をなされたもうのです。
 私達はみなで協力して、かごをあんだり、かごになることを願って歩んでいます。その籠が諸国民の救いのために用いられるということです。
 平和を乱す権力者から自由にされ、平和を実現する神様の業のために、私達の器が用いられていきます。
粗末な籠に入れられた幼子モーセは、馬小屋の飼い葉桶に入れられた幼子イエスを遠く指し示しているようにも思えます
私達の器にイエス様が来たりたもう時に、神様は大きな計画を器に入れて、実現して下さいます。
時代がどれほど困難に思える時にあっても、ここに登場する女性たちのように、あくまでしたたかに小さな命を育み、イエス様と共に歩む共同体でありたいと思います。そして、神の不思議な導きに与る喜びを知る者となりたいと思います。

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