日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

2月主題「わあ、すごいね」

2013-01-31 11:38:43 | キリスト教保育
2月の聖句
おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
        エフェソの信徒への手紙一 4:7

 2月は一年間で最も寒い季節です。でも土の中では、沢山の小さな命が土の中で春を待っていることでしょう。神様の愛の中で育ってきた子ども達の育ちを、「わあ、すごいね」と喜ぶ月にしたいと願っています。
 イエス様は、愛のみ業によって、私達を、一人の新しい人、一つの体にしてくださいました。体のどの部分も必要なように、神様からいただいている多様性を生かして、愛によって一致しなさいと勧められています。
子どもの自尊心を育たせ、やる気を高めるためにも、「ほめる」ことは大切なことだと言われています。とってつけたような「ほめる」にならないために、大人も感覚を働かせていくことが大切です。
 若者の言葉でKYという言葉があります。KYは、「空気」と「読む」の頭文字で、主に空気が読めない人を意味するそうです。
 言葉の大切さを思いますが、今は子育ても「はやく はやく」とせかせたり、言葉優位の指示型に傾いていないでしょうか。
 感覚を働かせて、他者を意識することは忘れてはならないことです。
お互いの存在を認めあい、対話することで、人は、自分も他者の存在も重んじる人になります。「わあすごいね」の言葉がそこから響きあうのです。
 コミュニケーション能力は家庭の中で育ちます。家庭で話す時間、話す内容はとても大切なことです。子どもさんと一緒に生きることを楽しんでください。
幼い子どもは、家族・周りの大人・友達に愛され、守られることによって、「自分は価値ある存在だ」と知ります。
 自分を大切にすることが、社会のルールを守ったり、出来ることをがんばるようになることにつながっていきます。そして、他者の存在を重んじる人になるのです。


マタイによる福音書5:17-20 「教えるイエス」

2013-01-31 11:35:30 | 説教
あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
                      マタイによる福音書5:20


「 新しいことを行う人は、破壊者である」と、ユダヤの指導者達は、主イエスを見て思ったかもしれません。しかし、本日の箇所を読むと、そういうことではありません。
5章17節を読むとこう書かれています。
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
旧約聖書・律法を否定するために 主が来られたのではなく、その足りないところを補い、それを完成するために主が来られたのです。
  「廃止するためではなく、完成するためである」と強調しておられます。この「完成する」という字じゃ「満たす」という意味の字が当てられています。「私が満たす」と言われるのですから、ただ承認するだけではありません。
 その内実を満たしに来たと言われます。
 それだからこそ、20節で「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」と教えられます。
 「勝っていなければ」というところは直訳すれば「過度に」です。即ち満ちあふれて、有り余るということです。
 あふれる豊かさがここにはあります。
 その言葉から、私達を満たして下さるのはイエス様だと言うことに気づかされます。私たちのうちに力を注ぎ込もうとしているのだと表明しておられます。ここには、力のあふれる真剣な愛の姿があります。
律法というものが、主イエスのユダヤ社会にありました。生活規定でありながら、民法、刑法、刑事訴訟法の法律的なものもあり、また宗教儀式、例えば犠牲の捧げ方や、神殿での礼拝の仕方などに至るまで、宗教の指針を定めたもの。それが旧約律法であります。
 それによって人間は規定され、そのように生きる事が重要だと考えられ、それを守る日とは尊敬に値する人と考えられていました。
 新約聖書の記事に出てくるものでこのようなものがあります。
 安息日には神様が休めと命じられた日であるから、何もしてはならない。出来るだけ家にいて、出歩くにしても一日1500歩までとか。仕事をしてはならないとか細かい規定がありました。
 このような律法は文字だけであります。律法を守ることの出来る人が認められ、守れない人は駄目な人間として否定されていきます。
 「早く 早く」と子どもをせかしたり、一日中「勉強しろ」とばかり言っている親も、ある意味では律法主義であるかもしれません。子どもの存在が認められているのでしょうか。親が求める理想像になった子どもだけが、認められるということでしょうか。
 ジャン・バニエはこう言います。
「神は、わたしが思い描く『理想のわたし』を愛して下さるのではなく、自分が今の自分であることをゆるしてくださり、そのままのわたしを愛してくださるのです」。
 当時のユダヤ教の指導者達のあり方は、このような神様を無視していたと言えるでしょう。
 見て下さっている、存在を肯定してくださる。気にかけてくださる。それのみではなく
私達の交わりを喜んで下さり、新しい使命を与えてくださる。それほどまでに私達を認め信頼して下さる。そんな愛の神様に出会い、溢れるばかりの力を頂くことが大切です。それを満たしに主イエスは来られたのです。
 愛の主イエスと出会い、愛の主のお働きが大きくなるようにと祈り求めていく時、本当の義が訪れ、良き業をなすものに生まれ変わっていくのです。
「人は自分自身が価値あるものだと実感できなければ、他者の価値を実感することは出来ない」と佐々木正美先生は言われます。
 自分を大切にすることが、社会のルールを守ったり、出来ることをがんばるようになることにつながっていきます。そして、他者の存在を重んじる人になるのです。

マタイによる福音書4:18-25 「人間をとる漁師」

2013-01-23 16:07:52 | 説教
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 
                   マタイによる福音書4:19

 普通、私達が師に弟子入りするとすれば、弟子となる人が師を探し、入門して、教えを受けるのですが、師であるイエスが弟子を探し、入門させ、自分の教えを説いたのです。
ここのところが、基本となります。
 「私達はイエス様に選ばれているのだろうか」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかと思います。もちろん選ばれていますが、大切なことは、主の後に従うことへの招きに応じることです。呼びかけに応えて、方向転換することです。
 二組の兄弟を主はお選びになられました。血がつながっていることよりも、大切なことがあります。主は神の家族を形成されようとしていますから。兄弟というよりも、強調したいことがあります。それは、教会の原型的なものを、二人というところからとらえていくことです。信仰共同体が想定されているということです。
 主イエスの招きの言葉がどのようなものでしょうか。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
ここのところをどのように理解したらいいでしょうか.前後関係を全く知らない人は、「人間を獲物にするのか」と、疑問を持たれる人もいるでしょう。
 人を売り物にする、人を殺して食べるということではありません。網は神の恵みで捕らえることを意味します。
 永遠の命に至る食べ物である主イエスの恵みを分け合い、人を生かすために漁るのです。誰かに売り渡すのではなく、死に至る罪から買い戻すために漁るのです。
 はじめて、この招きの言葉を聞いた時から、なんと、ユーモアのあふれる主のお言葉であろうかと、思います。
 漁師の賜物が、その働きでは生かされるということもこの言葉には含まれているように思います。
 森に木を植える運動をしている漁師 畠山重篤(はたけやましげあつ)さんがいらっしゃいます。森と漁の関係をどのように捉えておられるのでしょうか。森から川を通って、魚の餌であるプランクトンの餌が流れるということです。森で培われる滋養分が水を通じて川から海に流れこみ、海の豊かさとなることに気付かれたのです。
人間をとる漁師というのは、漁師の家族共同体を破壊することでしょうか。広い視野でこの出来事を考えさせられていきます。
 マタイによる福音書8:14では、主がペトロの姑を癒す記事があります。
又27章56節では、彼らの家族が、主を中心にした交わりに加えられています。漁師家族の共同体の救いにつながっているようです。
 漁師という言葉で、弟子になる以前と以後がつなげられいるのは注目することです。
 4章23節以下で多くの群衆が主イエスに従ったという言葉が書かれております。
25節の従ったという言葉と20節の「弟子達が従った」という言葉は同じ言葉が使われています。
 しかし、本質的に違う点があります。
 群衆達は主を十字架につける側に立ってしまいます。ここで押さえて置かないいけないことは、最初に戻ります。癒しの業に関わる社会事業は、後ろへ従うように招かれる主イエスの主導権を大切にしなければなりません。
 神本位に神中心に生きるように方向転換すること、神の支配を伝え、方向転換するように人々を招くことが大切です。
 そのために、み言葉を語り伝えることをないがしろにしてはなりません。
 主が実現される神の国に招かれ,体験するために見落としてはならない大切なことです。


マタイによる福音書3:13-17 「イエスの洗礼」

2013-01-16 17:40:36 | 説教
今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。
       
                        マタイによる福音書3:15


 荒野にヨルダン川という川が流れ、バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に洗礼を授ける仕事をしていました。罪を悔い改め、神様に罪を赦していただくために洗礼を受けなさい”。そう言って、ヨハネはたくさんの人々に洗礼を授けました。
イエスさまも、ヨルダン川のヨハネのところに来て、洗礼をお受けになりました。
今日はそのことを記念する聖日です。
罪のない方であられるイエス様がどうして、罪の悔い改めの洗礼を必要とされたのでしょうか。
 主イエスはマリアの胎に下り、エジプトに下り、ガリラヤに下り、荒れ野に下り、そして洗礼を受けられたのです。主イエスの姿勢は一貫して自分を低くしています。主イエスの洗礼もその姿勢が現れています。
 主は洗礼を受けることをヨハネに問われ、躊躇するヨハネに対してこのようにお答えになられました。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。
 「正しいこと」ヘブライ語ではツェダカーと言います。正しいことの意味の中には救い・勝利・ゆるし・解放・恵みなどの意味が含まれています。その「正しいこと」が実現するために、主イエスは洗礼を受けられたのです。
 バプテスマのヨハネはいったい具体的には、何をしたのかといえば、ヨルダン川の川辺で、悔い改めのバプテスマをというものを宣べ伝えていたわけです。
 神の国が近づいている、つまり、神様の公正な裁きのときが近づいている。だから、今、罪を悔い改めて、バプテスマを受けなさいというメッセージと、バプテスマを授けていたわけであります。
 彼が、何でそんなメッセージをユダヤ人にしたのかといえば、当時のユダヤの人々が、すっかり選民意識の上に、あぐらをかいてました。異邦人に神を伝える立場にある私達は悔い改める必要はない、悔い改めるのは、異邦人だと思っていました。ヨハネは、そのような選民意識にあぐらをかいているユダヤ人こそ、悔い改めなければならないのだと主張しました。「ユダヤ人というだけで、神のさばきの前に耐えられるわけではないのだ」「悔い改めて、神様に喜ばれるにふさわしい生活を行いなさい」と宣べ、そのように決意をするものに、罪の許しを得させるバプテスマを受けよと、ヨハネは教えていたわけでありま
 イエスはそのようなヨハネのしてきたことを否定することをしたくはなかったのです。それを受け継ぎ、それを超えた次元に運ばれようとされました。
 それと悔い改めた罪人と同じ位置に立って、共に歩もうとされたのです。
イエスさまが洗礼を受けになった時、3つのことが起こりました。一つ目は、イエスさまに向かって、天が開いたということ。二つ目は、神さまの霊が鳩のように降って来たこと。そして三つ目は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という神さまの声が聞こえたということです。
 天が開いた。これは、天国の入口が開いたということです。
 その入口までどうやって登ったら良いのでしょうか。主の十字架がその架け橋となります。聖霊がそこに導くのです。そして、愛しているという神様からのメッセージが、聞こえてきました。
 主が洗礼を受けられ、悔い改める群に加わって下さったということは、そのような祝福が人々に及んだということです。
又清められるためではなく、清める力を与えるためイエスはその洗礼を受けたとも言えます。
洗剤を用いるとがんこな汚れは落ちます。水だけでは、こびりついた汚れや油はなかなか落とせません。
 私たちの罪を洗い落とすことは、水によっては洗い落とせません。罪を洗い流す力はイエス様の愛の力です。
 「心に適うこと者」とは神がお喜びなさることです。主イエスが私達と共に歩む姿勢を始動した時、神様は喜ばれたのです。
 主の愛のみ業を受けとめる時、神様は喜んで下さるように思います。
 又神様は主イエスを通して私達と一緒に喜びたいと思われているかもしれません。