イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネによる福音書9:9
主イエスの時代は現代のように点字は開発されていませんでした。当時、盲人は、働くことも、学ぶことも不可能な悲劇的状態でした。出来ることと言えば、物乞いをすることだけの、悲劇的状態だったでしょう。 ましてや、生まれつきとは、治る可能性がないことを意味していたでしょう。彼の場合は、絶望的な悲劇的な状態、と言うべきでしょう。この生まれつきと言う点が、議論の題材になりました。
誰が罪を犯したからですか。この人が罪を犯したからですか?それとも両親ですか?当時は、肉体的な障害は、罪の報いである、と言う考え方が有りました。今もあります。不幸の裏には、必ず罪があるとする考え方です。この人は生まれつきの盲人でしたから、この人の両親でしょうか?とも、問われたのです。
「誰が罪を犯したからですか?」と言う質問に対して、主イエスはいわれました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」主イエスは、からだの障害や苦しみ不幸の原因として、罪を捜し出すことを断固として拒否されたのです。
そして「神のみ業が現れるためです」とおっしゃいました。過去ばかりに目をやるのではなく、これから始まる未来に目をやるようにと促しておられます。そこでの主語は人間ではなく、神様です。この主イエスの言葉にどれほどの人々が救われたでしょう。
アメリカではこのしょうがい者を、special talented peopleと言うのだそうです。
人は、確かに、不摂生が原因で病にかかったり、不注意で事故に会うこともありますが、多くのわざわいは、当人の責任を超えたところで起こっています。
主イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)と不思議な答えをされました。これは、弟子たちの疑問への答えというより、問い自体を見直させるものです。
彼らは、この人が特別に神ののろいを受けていると思い、その原因を尋ねたのですが、イエスは反対に、この人が今まさに、神の祝福を受けようとしていると言われ、その思いを、因果応報的な発想から自由にし、その目を過去から将来に向けさせようとされました。
宗教の中には、わざわいの原因を過去に求め、それを断ち切ることによって幸せになれると説きますが、イエスはわざわい自体を聖別し、祝福の原因と変えてくださったのです。
主イエス様は、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。そして、言葉だけではなく、主イエスは、大変珍しい方法で、この盲人を癒されたのです。まず主イエスは、つばきを利用して泥を作り、それを盲人の目に塗ったのです。眼が見えない盲人にとって、水で洗う必要を感覚的に感じた事でしょう。
泥をここで用いたのは、薬であると見るよりは、神が土を捏ねて人間を造りたもう、という旧約聖書の最初の物語りへと我々の思いを向けさせるためのものであると思います。すなわち、主イエスはこのことを通じて、新しい人間の創造がイエス・キリストによって行なわれるということへと我々の注意を喚起します。
新しい人間の創造が一瞬にして出来たということではない。今学んでいる出来事も、新しい人間が少しずつ目を開いて行く事情を我々に示しています。
盲人はイエスによって目が開かれました。 イエスのことを節ごとにかっての盲人は次のように告白しています。 11節「イエスという方」17節「預言者」31節「神をあがめ、そのみ心を行う人」33節「神のもとから来られた方」38節「主」
これらのイエスの呼び方に進展が見られ、最後の主は盲人の最高の告白です。
6節で主は「唾で土をこねてその人の目に塗った」と書かれています。つばが病や傷を癒すことは昔の人に信じられていました。
ここでのつばきは泥をつくるための水として機能しております。最初の人間を神様が作られたときは土をこねてつくりました。そのシーンが重なるようです。今、主はこの人の目を新しく創造されたのです。神による新しい創造が起こったのです。
つかわされた者であられる主イエスを通して啓示の光、救いの光を受ける時、わたし達の心の眼に新たな創造が起こり、これから始まる救いを悟るのです。
業と訳されている言葉です。
主イエスは、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。
業という言葉はギリシャ語ではエルガーという言葉が使われています。
業(エルゴン)の複数形が使われています。
神の業がひとつひとつをとれば、マイナスと思えることもあるかもしれません。
しかし、ひとつひとつでは、期待外れであっても、つながって複数形になれば、奇跡となる神のみ業が見えるようになるのではないでしょうか。
目 が開かれたという良いことがおこりましたが、後に彼は村八分にされてしまうような悲しい経験もします。しかし、そのことによって、イエス様を救い主と信じて、告白しています。
目の見えない人を黙らせようとする力 救いからは遠いとみなす力に対して、神を讃美して、大きな救いを語る人に変えられていきました。
エルゴンはエネルギーの語源に当たる言葉です。
ガリレオガイレイは、釘の頭に重い物をのせても、釘は木の中にはいりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆくのを見て、運動する物体には何らかの固有の「ちから」があるのだと主張しました。
神は生きて働いておられます。又そのことゆえに大きなエネルギーが、数々の業を通して働くことでしょう。
神のみ業とは、マイナスも埋められて、プラスに変えられて、多くの人の救いへと結びつけられていくことです。
ヨハネによる福音書9:9
主イエスの時代は現代のように点字は開発されていませんでした。当時、盲人は、働くことも、学ぶことも不可能な悲劇的状態でした。出来ることと言えば、物乞いをすることだけの、悲劇的状態だったでしょう。 ましてや、生まれつきとは、治る可能性がないことを意味していたでしょう。彼の場合は、絶望的な悲劇的な状態、と言うべきでしょう。この生まれつきと言う点が、議論の題材になりました。
誰が罪を犯したからですか。この人が罪を犯したからですか?それとも両親ですか?当時は、肉体的な障害は、罪の報いである、と言う考え方が有りました。今もあります。不幸の裏には、必ず罪があるとする考え方です。この人は生まれつきの盲人でしたから、この人の両親でしょうか?とも、問われたのです。
「誰が罪を犯したからですか?」と言う質問に対して、主イエスはいわれました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」主イエスは、からだの障害や苦しみ不幸の原因として、罪を捜し出すことを断固として拒否されたのです。
そして「神のみ業が現れるためです」とおっしゃいました。過去ばかりに目をやるのではなく、これから始まる未来に目をやるようにと促しておられます。そこでの主語は人間ではなく、神様です。この主イエスの言葉にどれほどの人々が救われたでしょう。
アメリカではこのしょうがい者を、special talented peopleと言うのだそうです。
人は、確かに、不摂生が原因で病にかかったり、不注意で事故に会うこともありますが、多くのわざわいは、当人の責任を超えたところで起こっています。
主イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)と不思議な答えをされました。これは、弟子たちの疑問への答えというより、問い自体を見直させるものです。
彼らは、この人が特別に神ののろいを受けていると思い、その原因を尋ねたのですが、イエスは反対に、この人が今まさに、神の祝福を受けようとしていると言われ、その思いを、因果応報的な発想から自由にし、その目を過去から将来に向けさせようとされました。
宗教の中には、わざわいの原因を過去に求め、それを断ち切ることによって幸せになれると説きますが、イエスはわざわい自体を聖別し、祝福の原因と変えてくださったのです。
主イエス様は、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。そして、言葉だけではなく、主イエスは、大変珍しい方法で、この盲人を癒されたのです。まず主イエスは、つばきを利用して泥を作り、それを盲人の目に塗ったのです。眼が見えない盲人にとって、水で洗う必要を感覚的に感じた事でしょう。
泥をここで用いたのは、薬であると見るよりは、神が土を捏ねて人間を造りたもう、という旧約聖書の最初の物語りへと我々の思いを向けさせるためのものであると思います。すなわち、主イエスはこのことを通じて、新しい人間の創造がイエス・キリストによって行なわれるということへと我々の注意を喚起します。
新しい人間の創造が一瞬にして出来たということではない。今学んでいる出来事も、新しい人間が少しずつ目を開いて行く事情を我々に示しています。
盲人はイエスによって目が開かれました。 イエスのことを節ごとにかっての盲人は次のように告白しています。 11節「イエスという方」17節「預言者」31節「神をあがめ、そのみ心を行う人」33節「神のもとから来られた方」38節「主」
これらのイエスの呼び方に進展が見られ、最後の主は盲人の最高の告白です。
6節で主は「唾で土をこねてその人の目に塗った」と書かれています。つばが病や傷を癒すことは昔の人に信じられていました。
ここでのつばきは泥をつくるための水として機能しております。最初の人間を神様が作られたときは土をこねてつくりました。そのシーンが重なるようです。今、主はこの人の目を新しく創造されたのです。神による新しい創造が起こったのです。
つかわされた者であられる主イエスを通して啓示の光、救いの光を受ける時、わたし達の心の眼に新たな創造が起こり、これから始まる救いを悟るのです。
業と訳されている言葉です。
主イエスは、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。
業という言葉はギリシャ語ではエルガーという言葉が使われています。
業(エルゴン)の複数形が使われています。
神の業がひとつひとつをとれば、マイナスと思えることもあるかもしれません。
しかし、ひとつひとつでは、期待外れであっても、つながって複数形になれば、奇跡となる神のみ業が見えるようになるのではないでしょうか。
目 が開かれたという良いことがおこりましたが、後に彼は村八分にされてしまうような悲しい経験もします。しかし、そのことによって、イエス様を救い主と信じて、告白しています。
目の見えない人を黙らせようとする力 救いからは遠いとみなす力に対して、神を讃美して、大きな救いを語る人に変えられていきました。
エルゴンはエネルギーの語源に当たる言葉です。
ガリレオガイレイは、釘の頭に重い物をのせても、釘は木の中にはいりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆくのを見て、運動する物体には何らかの固有の「ちから」があるのだと主張しました。
神は生きて働いておられます。又そのことゆえに大きなエネルギーが、数々の業を通して働くことでしょう。
神のみ業とは、マイナスも埋められて、プラスに変えられて、多くの人の救いへと結びつけられていくことです。