日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ヨハネによる福音書9章1節-12節「御業が現れるために」

2016-02-23 11:28:14 | 説教
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
                            ヨハネによる福音書9:9

 主イエスの時代は現代のように点字は開発されていませんでした。当時、盲人は、働くことも、学ぶことも不可能な悲劇的状態でした。出来ることと言えば、物乞いをすることだけの、悲劇的状態だったでしょう。 ましてや、生まれつきとは、治る可能性がないことを意味していたでしょう。彼の場合は、絶望的な悲劇的な状態、と言うべきでしょう。この生まれつきと言う点が、議論の題材になりました。
 誰が罪を犯したからですか。この人が罪を犯したからですか?それとも両親ですか?当時は、肉体的な障害は、罪の報いである、と言う考え方が有りました。今もあります。不幸の裏には、必ず罪があるとする考え方です。この人は生まれつきの盲人でしたから、この人の両親でしょうか?とも、問われたのです。 
  「誰が罪を犯したからですか?」と言う質問に対して、主イエスはいわれました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」主イエスは、からだの障害や苦しみ不幸の原因として、罪を捜し出すことを断固として拒否されたのです。
そして「神のみ業が現れるためです」とおっしゃいました。過去ばかりに目をやるのではなく、これから始まる未来に目をやるようにと促しておられます。そこでの主語は人間ではなく、神様です。この主イエスの言葉にどれほどの人々が救われたでしょう。
 アメリカではこのしょうがい者を、special talented peopleと言うのだそうです。
人は、確かに、不摂生が原因で病にかかったり、不注意で事故に会うこともありますが、多くのわざわいは、当人の責任を超えたところで起こっています。
 主イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)と不思議な答えをされました。これは、弟子たちの疑問への答えというより、問い自体を見直させるものです。

 彼らは、この人が特別に神ののろいを受けていると思い、その原因を尋ねたのですが、イエスは反対に、この人が今まさに、神の祝福を受けようとしていると言われ、その思いを、因果応報的な発想から自由にし、その目を過去から将来に向けさせようとされました。
宗教の中には、わざわいの原因を過去に求め、それを断ち切ることによって幸せになれると説きますが、イエスはわざわい自体を聖別し、祝福の原因と変えてくださったのです。
主イエス様は、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。そして、言葉だけではなく、主イエスは、大変珍しい方法で、この盲人を癒されたのです。まず主イエスは、つばきを利用して泥を作り、それを盲人の目に塗ったのです。眼が見えない盲人にとって、水で洗う必要を感覚的に感じた事でしょう。
 泥をここで用いたのは、薬であると見るよりは、神が土を捏ねて人間を造りたもう、という旧約聖書の最初の物語りへと我々の思いを向けさせるためのものであると思います。すなわち、主イエスはこのことを通じて、新しい人間の創造がイエス・キリストによって行なわれるということへと我々の注意を喚起します。
 新しい人間の創造が一瞬にして出来たということではない。今学んでいる出来事も、新しい人間が少しずつ目を開いて行く事情を我々に示しています。
盲人はイエスによって目が開かれました。 イエスのことを節ごとにかっての盲人は次のように告白しています。 11節「イエスという方」17節「預言者」31節「神をあがめ、そのみ心を行う人」33節「神のもとから来られた方」38節「主」
これらのイエスの呼び方に進展が見られ、最後の主は盲人の最高の告白です。
6節で主は「唾で土をこねてその人の目に塗った」と書かれています。つばが病や傷を癒すことは昔の人に信じられていました。
ここでのつばきは泥をつくるための水として機能しております。最初の人間を神様が作られたときは土をこねてつくりました。そのシーンが重なるようです。今、主はこの人の目を新しく創造されたのです。神による新しい創造が起こったのです。
 つかわされた者であられる主イエスを通して啓示の光、救いの光を受ける時、わたし達の心の眼に新たな創造が起こり、これから始まる救いを悟るのです。
 業と訳されている言葉です。
 主イエスは、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。
 業という言葉はギリシャ語ではエルガーという言葉が使われています。
業(エルゴン)の複数形が使われています。
神の業がひとつひとつをとれば、マイナスと思えることもあるかもしれません。
しかし、ひとつひとつでは、期待外れであっても、つながって複数形になれば、奇跡となる神のみ業が見えるようになるのではないでしょうか。
目 が開かれたという良いことがおこりましたが、後に彼は村八分にされてしまうような悲しい経験もします。しかし、そのことによって、イエス様を救い主と信じて、告白しています。
 目の見えない人を黙らせようとする力 救いからは遠いとみなす力に対して、神を讃美して、大きな救いを語る人に変えられていきました。
エルゴンはエネルギーの語源に当たる言葉です。
ガリレオガイレイは、釘の頭に重い物をのせても、釘は木の中にはいりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆくのを見て、運動する物体には何らかの固有の「ちから」があるのだと主張しました。
神は生きて働いておられます。又そのことゆえに大きなエネルギーが、数々の業を通して働くことでしょう。

神のみ業とは、マイナスも埋められて、プラスに変えられて、多くの人の救いへと結びつけられていくことです。


マタイによる福音書4:1-4

2016-02-23 11:24:51 | 説教
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
                                  マタイによる福音書4:4



 レントとは日曜目を除いたイースター前の40日間のことを言います。この日数は、荒野でイエスが悪魔の試みにあった40日間に対応してします。
 荒野は人間が住みにくいところです。人が生きにくい世界です。そこには獣やまむしやさそりが住んでいます。そんなところで、あえて、主イエスは過ごされました。
ヘブライ人への手紙4:15にこうあります「 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。
 40日40夜断食をしたイエスは、荒野で悪魔の試みを受けます。
マルティン・ルターが、彼を悩ますサタンに向かって、インクの壺を投げつけたという話が伝えられています。彼にとっては悪魔は、現実的な存在だったのでしょうか。
創世記初めには人間の創造と蛇の誘惑によって堕罪が起き、人類が楽園を負われた記事があります。アダムは神に従順ではなく、自分が神になろうとしました。このアダムが犯した罪が人類全体に影響を与えていると言われています。人間の原罪の問題です。しかし、キリストは、アダムが克服出来なかった悪魔に勝利し、神への従順を示されました。
 恵まれた環境の楽園でさえも罪を犯したアダムですが、キリストは荒れ野においても罪を犯されずに、強力な悪魔の誘惑にも打ち勝たれました。
「石をパンに変える誘惑」「神殿の屋根から飛び降りる誘惑」と、自分の欲望を神としたり、神様を試すという誘惑に合うわけであります。しかし、イエスはそれらの誘惑に勝たれました。
 イエス様は悪魔から石をパンに変えるように試みられました。
 さて、この言葉は、荒野に行かれて40日間の断食をなさったできごとの中で出てきます。
そこで悪魔がイエスさまに語りかけて、神に従う道を阻止しようとたくらみます。悪魔はイエスさまに「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と誘ったのです。
40日間の断食といえば、食べなければ死んでしまうような極限状態です。しかし荒野には、食べるものはありません。石ころならゴロゴロしています。
ちょうど、石の形はちょうどパンにも似てたりします。
「あなたが神の子ならば、あなたの力を使って石をパンに変えてみてはどうですか」‥‥と悪魔はイエスさまを誘惑します。
 しかしここに悪魔の大きなワナがありました。もし本当に、イエスさまが石をパンに変えて食べて生き延びたとしたら、イエスさまという方は我々とは縁遠い方だということになるでしょう。わたしたちは、石をパンに変えることができないのですから。
 この悪魔の誘惑に対して、イエスさまは標記の言葉をおっしゃったのです。そしてこれは旧約聖書の言葉の引用です。旧約聖書の申命記8章3節にこのように書かれています。‥‥「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
 標記の格言は、私たちを生かしてくださるのは神さまであり、その神さまの言葉に従った時に、私たちが生きていくために必要なものは神さまがちゃんと備えてくださる‥‥というのがもともとの意味です。
 荒野で飢えたイスラエルの民が、神の言葉を信じてそのマナで命をつないだことを思い出させます。人は、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言っています。
 0歳ではいった園児は、卒園する頃には、体も大きくなり、その成長ぶりに驚かされます。たくさんごはんを食べて、体がつくられて、子どもは成長していきます。
ところが、先生達は、もうこれ以上大きくなることはありません。
 食は体をつくるために必要ですが、それだけで人間は成長していくものではありません。
人間は、体だけで出来ているのではありません。目には見えないけれども心というものが存在していて、これが実に大切なものなのです。
キリスト教ではさらに魂と言う存在を語る場合もありますが、いずれにしても心は生きていて、心にも栄養を与えなければ、大きく成長しない、おっきな心にはならないということになるのです。
人間の歴史は、この小石をパンに変換することで人間の生命を維持し、暮らしを造ってきました。化石燃料(石炭、石油の利用)によって果たした人間の業績は、小石をパンに変換することそのものでした。
しかし、パン・経済至上主義は倫理観の欠落・自然破壊を生みだしていきます。
食べ物だけでは、人は育たないのです。
愛 忍耐 希望 正しいことを選び取る力 このようないわば豊かな心を育てる栄養となるものが、神の言葉であり、み言葉の説き明かしを中心にした礼拝です。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とは、肉体は、パン(食べ物)で生きるのですが、魂は、神のことばすなわち聖書に記された神の口から出た一つ一つのことばによって生きるということです。
それは、単に安らかな人生を送ることができるだけでなく、永遠に生きることをも意味しています。「生きる」は、「死を突き破って永遠に生きる、さらに、神のいのちで生きる」という意味も含まれています。希望が生きる力であり、愛なる神様が与えて下さる希望です。

ヨハネによる福音書6:1-15「奇跡を起こすイエス」

2016-02-23 11:21:05 | 説教
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」。

ヨハネによる福音書6:9

3月頃の過ぎ越しの祭りの時、イエスはガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。男性だけで5000人の人がイエスの後についてきました。
イエスはこの5000人以上の人々を憐れまれたのです。その心を明らかに弟子たちに指し示すために言葉を語られました。
この言葉が、現実の中に埋もれる私達の魂を呼び覚ますのであります。その言葉というのはフィリポへの問いかけであります。6節を読みましょう。6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
意味がわかりにくいかもしれませんが、「どこでパンを買えば良いか」というのは、「どこからパンが調達出来るのか」という言葉であります。私達に考えさせ、私達の目を開かせるためにイエスの呼びかけと受けとめて良いでしょう。
パンをどこから調達するのかという言葉は、イエスの愛の呼びかけであり、私達の目を違う世界に開かせるのであります。
200デナリでは、すなわち100万円くらいでは5000人の人を養うことは出来ません。又たとえお金があってもそれだけの食料をどこから買うのかという現実があります。
 そこで5つのパンと2匹の調理された魚のはいったお弁当をもった少年が目に写りました。主イエスの愛の応答するように自分のお弁当を差し出す少年が目に入ってきました。
五つのパンと二匹の魚、合わせると七という数になります。完全数といわれる数字の一つであります。少ない数ですが、整った数であります。キリストの目から御覧になれば、十分用いることができる、という意味が込められています。未熟な少年の持つわずかなパンと魚をキリストは人を養う糧としてお用いになります。それを増やして5000人の人をイエスは養われたのです。

「天国の始まりは小さくて、からし種のようだ」と主が言われます。それは現実の中で見えにくいのですが、「どこから4000人分の命の糧を調達すれば良いか」という主イエスの語りかけによって見えてきたのです。
もちろん主イエスは無から奇跡を起こすことも出来ましたが、少年のお弁当を用いたのです。それは、神の国の実現のために私達の小さな力を主が求めておられるということでしょう。わたしたちはひとりではどうにもならないし、集まってもどうにもならないのですが、集まって神様の力を頂いた時にはじめて人の力を超えたことが起きる、そう信じます
「どこから調達出来るか」という問いかけには深い意味がありますし、これがヨハネのこの箇所の中心に思えます。
 それは、私達の目を開かせ、又持っている小さなものを大きな力へとつなげるための呼びかけのような気がします。
 又愛と思いやりが、神に養われる時に厳しい現実を切り開いていくと信じています。
この少年は自分の分だけをのけて、4つのパンと1匹の魚を差し出すことも出来たでしょうが、この少年は、持っているものをすべて捧げたのです。それを見た弟子達は
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。悲観的であります。しかし、キリストはその少年の心を受けとめ、それを感謝してさき、増やされたのであります。
たとえ少なくても、主は豊かに蒔く者を大いに祝福してくださるのです。
その二つのコインに、神様を掛けて、見事に大事業を成し遂げたのです。
神様は、私たちの、小さな力も用いてくださいます。ですから私たちは、どんなに貧しくても、どんなに小さくても、真心を込めて、持てるものを、主に献げていきたいと思います。
食べ終わった後、残ったパンを集めると、それは十二の籠にいっぱいになったと書かれています。

 パン屑と書いてありますが、落としたものではありません。食べ切れずに残したものです。それが十二の籠に、いっぱいになったというのです。
では、この十二の籠いっぱいに残ったパンは、その後どうしたのでしょうか。
それよりも、なぜ主イエスは、残ったパン屑を、集めさせたのでしょうか。
主イエスは、「少しも無駄にならないように」、と言われました。ここに出てくる「無駄にする」という言葉は、他の箇所では「失う」とか、「滅びる」と訳されています。
あの有名な、3章16節の御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この御言葉にある、「滅びる」という言葉も、原文では同じ言葉です。
主イエスは、残ったパンを、一つも無駄にすることなく集めなさい、と言われています。
それは、私たちを、一人も失うことなく救いたい。一人も滅びることなく救いたい、という思いを示唆しています。実際、これはユダヤ人の宴会では、普通に行われていたことでありました。ユダヤ人はこういうあまりもののことをペーアーと呼んでいました。ユダヤ人が盛大な宴を張る時にも必ずペーアーを残します。それを貧しい人へ施します。特に宴会の給仕をしてくれた僕にお下がりとしてふるまうために残さなければなりません。
 又はみなを滅びから救うために主ご自身が貧しく、飢えられたということを示しているようです。それほどまでに、民衆の飢えを自分のことのように考えられたのでした。

ヨハネによる福音書5:1-8「いやすキリスト」

2016-02-05 10:01:00 | 説教
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
 
ヨハネによる福音書5:8

ベトザタの池での病人の癒しの話。多くの人に親しまれている箇所です。
この池は口語訳では「ベテスダ」と呼ばれていて、キリスト教関係の病院の名前に用いられたりしています。この池には5つの回廊があり、そこには病気の人や体に障がいを持った人が大勢横たわっていました。間欠泉のようなものだったのでしょうか、池の水が動く時、最初にその水に入った人は癒されると言われていたからです。ここにいた38年間病気で苦しんでいた人とイエスさまが出会います。
長い間患い癒されることがなかった人に向かって、イエスさまは「良くなりたいか」と問いかけられます。この男の心にある希望を捜し出しているようです。
そして、関わろうとしている主イエスの姿があります。
金子みすずさんの詩に「さびしいとき」という詩があります。
私がさびしいときに
よその人は知らないの

私がさびしいときに
お友だちが笑うの

私がさびしいときに
お母さんややさしいの

私がさびしいときに
仏さまはさびしいの

さびしいという状態は友人や知人があまりいないことを指すことだけではないと思います。というのは、周りに人がいても、人は誰でもみんなさびしいと思うことがあるのではないかと考えるのです。誰にも言えないような深い悩みを抱えた時にも孤立感はあるでしょう。
絶望と孤立は人を床に伏させます。
 今日読みました聖書もそのような物語のひとつです。ベトサダの池のところに38年間病気のまま横たわっている人がいたというのです。
38年という歳月がどれだけの苦痛をその人に与えたのかは想像するに余りあります。しかもその人は、イエスが声をかけたとき「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と言っています。ベトサダの池の水が動くときに池の中に入れば病気がいやされるという言い伝えでした。でも、38年の長い間その人を助け起こして池に入れてくれる人は誰もいなかったというのです。ということは、その人はひとりぼっちのさびしさの中にずっと生き続けていました。
  主は孤立させる方ではありません。私達の苦しみや悲しみに近づいてこられるのです。
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)という言葉にこの人の、そして周りの人々の呻きを聞き取ることができます。このことは、ユダヤ教はじめ多くの宗教の限界を暗示しています。多少の恵みがそこにあるので、近づくことができないのです。
 
 1節には、イエスは、「エルサレムに上られた」とあり、先立って近づき、「良くなりたいのか」と声をかけて下さり、「起き上がれ」と命じて下さるのです。恵みそのものが私たちに近づいてくださる。
神の恵みそのものが決定的に、向こうから到来してくださり、私たちの目の前に共にいて下さり、私たちを助けて下さるからです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのである」(17節)。神は6日間で天地万物を創造され、7日目に休まれたと創世記に語られています。しかし、毎週休むとは書かれていません。主イエスは、苦しむ人がいれば、休まずに働く救い主です。神は休むことなく働いておられる。それを受けて主イエスも、「わたしも働く」と言われます。
 内面的孤立状態から解放されたこと、ここに奇跡があります。
 絶望し、そのことに慣れきっているこの男の前に突然、主イエスが表れて、「良くなりたいのか」と言われます。
そして、突然、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。
ここに「起き上がる」「床を担ぐ」「歩く」という三つの動詞による命令が語られたのですが、この三つの言葉は、絶望の中から新しい出発をする象徴的な言葉であると思います。
 「起き上がらせる」エゲイローという言葉は、元来は、「目を覚まさせる」という意味でありました。さらに「死人を復活させる」というのも、この言葉なのです。
絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらされたということは、あたかも死人を復活させるような出来事であったのです。
朝起きる時、その日にしんどいことがあると起き上がるのが苦しい時がありますが、主が共にいてくださることに目覚めると、起き上がる力を頂けるのです。
 次は「床を担げ」という言葉です。この「床」というのは、これまで彼がそこに横たわっていた場所、いわば彼を担いでいたものです。これからは反対に、お前がそれを担ぐのだということです。もうそれには頼ることはないということを示しています。
 この<床>は、ただ死を待つしかないという絶望に身を任せて横たわっていた所、絶望へと向かわせた場所です。そして、孤独に身を横たえる場所です。彼が主と出会うまでには、それに縛られていました。
 担げはアイローというギリシャ語です。
 移動の意味もありますが、取り除くという意味があります。
 三つ目は、「歩く」ということです。歩き始める。もうその同じ場にはいない。そこから前進していくのです。これについては、特に説明の必要もないと思います。
 彼をしばりつけていたものに支配されずに、それを自由に動かせること。
 この人は命じられたように、<床を担いで歩きだした>のです。
私たちが年老いた時、床で過ごす時間が長くなってくるかもしれません。床を担ぐというのは、その床に縛らずに、その床を神の栄光を表す場にするということです。
 イエス様の力なしにはそれは不可能なことです。
 関わりが生まれる場所、エンパワーメントが引き出される場所、復活の備えの場所へ床を運んでいく。そんな施設や家庭になるように、イエス様からお力を頂きましょう。