日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

3月主題 0歳-2歳 「春よこい」ーうれしいいねー 3歳-5歳 「わすれない」―これからもともにー

2015-02-27 10:24:58 | 説教
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
                                       ヨハネによる福音書10:3~4        

 皆様、お元気でお過ごしでしょうか。春の足音も大きくなってくる季節となりました。あそこでも、ここでもつぼみがふくらんでいます。
 寒い冬を耐えて迎える春は、心がほんわかと暖かくなるうれしい気持ちをもたらします。それと共に、積み重ねた年月に思いを馳せつつ、みんなの成長を喜ぶ時でもあります。
 いつまでもわすれない大切なこと、それは、神様の愛に包まれている安心感です。
この安心感は、永遠に続きます。
 この愛に包まれてクラスの仲間と過ごした経験は、きっと良い循環を生み出していきます。お友達に大切にしてもらったことは、誰かを大事に出来るということに、受け入れられたことは、他者を受け入れるということに、喜んだ出来事は、溢れ出て、他者にも広がっていくということに。
 卒園するお友達はきっと、新しい出会いを豊かなものにしていくと信じています 
 幼稚園・学校に進んだら、新しいステキな出会いがたくさんあります。遣わされたところで、素敵な花をたくさん咲かせてくださいね。

ルカによる福音書4:1-13「荒野の誘惑」

2015-02-27 10:20:40 | 説教
荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
                         ルカによる福音書4:1節から2節


 レントにはいりました。日本語では受難節と言いますが、レントのもともとの意味は春を意味する言葉で、季節がゆっくり春に向かって進むことを意味する言葉でした。
厳しい寒さの中にも、神は春へと導いておられることを信じて歩むことの大切さを思います。
主イエスば3つの申命記のみ言葉を持って悪魔の誘惑に勝たれました。
①「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(ルカ4章4節、申命記8章3節)
②「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4章8節、申6章13節)。
③「あなたの神である主を試してはならない」(ルカ4章12節、申6章16節)
申命記とは、荒れ野でのイスラエルの民の失敗を振り返り、これから入っていこうとする約束の地での生き方を教える書物であります。
神の言葉を自分の拠り所として支えとすることが大切です。悪魔に対抗するためにこれに勝る武具はありません。
 主イエスはサタンの誘惑に対抗するために、人として持つ力以上のものを決して行使されることはありませんでした。それはある意味において、人の立場に立って悪魔に打ち勝たれたということです。
  悪魔と言う言葉は、「ディアボロス」というギリシャ語が使われています。
神と人との関係を引き裂こうとする存在です。
 主イエスは荒れ野で、悪魔の誘惑に打ち勝ちました。
「荒れ野」って、草も水もない、枯れた木がちょっとあるだけの、乾き切った場所です。人はそこで苦しみと悲しみと不安を経験するのですが、聖書はそのようなところこそ、神様との出会いの場所であると、語っています。
困難や苦難に出合ったとして、例えば、避けられない「死」を前にして、不安に押しつぶされそうになる人もいれば、その中でも神を思い、しっかりと歩み続けることができる人もいます。
 そのように勇敢に人生を過ごせれば良いのですが、人間の力には限界があることも事実であります。
ルカによる福音書は聖霊行伝と言われる使徒言行録の前編です。聖霊というのは神の見えないお力と導きを現しております。
 イエス様も神の導きとお支えによって、悪魔の誘惑に打ち勝たれました。
 イエス様は神の子だから、楽に悪魔に打ち勝たれたと、私達は思いますが、そうでしょうか。悪魔に打ち勝つために、
主イエスはサタンの誘惑に対抗するために、人として持つ力以上のものを決して行使されることはありません。人間と同じ立場に立たれて、悪魔の試みに立ち向かわれました。
決して楽勝ということではありません。サタンの攻撃は十字架上で頂点に達します。
40日にわたる荒れ野での生活を「引き回されて」と新共同訳は翻訳しています
イエスさまは荒れ野を霊によって「引き回された」という。このアゴーという動詞もたんに「導かれた」とも訳すことが出来ます。
新共同訳の訳者には、イエスさまが荒々しく、とても冷静とは思えない状態で霊に引き回されているように見えたかもしれません。
イエスさまは荒れ野を霊によって「引き回された」という。このアゴーという動詞もたんに「導かれた」とも訳せる。
 導かれたというこの言葉を「引き回された」と訳す共同訳聖書の訳者のこだわりというものを感じます。
霊に荒れ野を導かれというよりは引き回され、とても落ち着いた冷静な状態でもなく、大きな誘惑の力がかかっているように思います。
「試みにあわせず、悪よりお救い下さい」と祈るようにイエス様が教えて下さいました。イエス様も悪魔の悪知恵・誘惑の強力な力を知っていたのでしょう。この祈りを祈ることで守られていることは確かなことです。
引き回されるという言葉から想像出来ることは、摩擦ということでありましょうか。引く力を戻す力があります。悪魔の力の中で、主イエスも苦難の道を歩んでおられます。しかし、強力にひっぱる大きな力、神の力が主イエスを捕らえています。
「「神様のみ霊によって荒野をひきまわされたとあります」そして「石ころばかりの荒野」で、神さまの御霊がひっぱってます。いつまた望まないようなしんどい状況に陥っても、それもまた「霊によって荒野を引き回されて」いる現実かも知れません。それならばみ心によってその状況にも終わりが必ず来ます。
人間がもし痛みを感じないならば、間違って舌を噛み切ったり、大やけどをしてしまうそうです。痛みというものは実は肯定的な意味もあります。
苦しみ・痛みにも神の導きがあり、神様から離れないようにイエス様が共にいて、誘惑に勝つ力を与えて下さいます。
その苦しみを乗り越えることが出来れば、同じ苦しみの人の気持ちがわかり、良き励ましの言葉をかけることが出来ます。

ルかによる福音書8:4-15「教えるイエス」

2015-02-10 16:36:13 | 説教
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り 忍耐して実を結ぶ人たちである。
   ルカによる福音書 8:15


8章1節をみますと、イエス・キリストはその後神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられ、それに十二弟子も、また女性達もお供したと記されております。
 そうしますと、大勢の群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきた。するとイエスは一つのたとえ話をされました。それがいわゆる「種まきのたとえ」と言われているたとえ話であります。こういう話です。「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちにある種は道ばたに、ある種は岩の上に、ある種は茨の間に落ちた。それらの種はみな成長しないで途中で枯れてしまい、実らなかったというのです。そしてある種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」という話をされて、そうしてこういわれたのであります。「聞く耳のある者は聞くがよい」。
 種はみ言葉を意味します。蒔いた土地はみ言葉を聞いた人の受容の態度であります。   8節から15節に聞くという言葉が8回使われています。この箇所で聞くということが信仰者にとっていかに大切であるかということが示されています。
 そしてどう聞くことが大切だというのです。「どう聞くかに注意しなさい」とイエスは言われるのです。それは決して難しいことではないのです。
 15節をみますと、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」 「立派な良い心で」というのは、要するに聞くことに徹するということです。こちらが何か身を清めてからとか、そんなことではないのです。 またそれはこちらの心の中をからっぽにしてからということでもないのです。それでも聞くという姿勢を持つということです。
 むしろ自分のなかに問題をいっぱいかかえながら、その中で聞くことが大事かもしれません。自分のなかになんの問題ももっていない人はなにを聞いてもひっかかってこないと思います。聞くということ、そして「御言葉を聞いたのち」とありますから、聞くということは、聞いた「あと」が大事なのかもしれません。どう聞くかということは、聞いたあと、それを自分の心のなかに深く潜行させることができるかということであります。
 「立派な善い心で御言葉を聞き」を岩波の聖書では、「美しい良い心で御言葉を聞き、それを保ち、不屈さの中で実を結ぶ者達」と訳されています。善い心というのは、美しいという言葉以外にやさしく繊細で細やかな心を意味します。
 イエスのみ言葉を聞くことによって、心に磨きがかけられます。イエスの愛、慈しみ、心に触れるからです。さらに清められたその心で忍耐して生きていくならば、100倍の実を結ぶようになります。
美しい果実や花を咲かせる土地には土や腐葉土があります。それらは、美しいものを育てる力を宿しているのですから、本質的に土は美しいものです。
 レビ記25章2-7など、7年目に畑を休ませることがなされています。休耕地のことです。同じように、7日目に私たちも休んで、み言葉を聞くことによって新たな力が与えられていきます。
 休んだ土地は、植物を育てる力を養い、美しいのです。
 「植物の種」の生命力に驚かされることがあります。
このような100倍という収穫倍率は当時としては奇跡的だったのです。すぐれた農夫であっても、その数字を達成することは不可能でした。
主イエスは、なぜこのような驚くべき数字を用いられたのでしょうか。それは、〈神のことば〉が持つ驚くべき祝福を教えるためであったと思います。神のことばが芽を出し成長するなら、驚くべき「収穫力」を発揮します。それは、個人を変え、家庭を変え、社会を変えたりする原動力となるのです。
神の言葉は小さい「種」。人に何かを強制させるような力はありません。また、一度に多数の人々を引きつけるような魅力的なものでもありません。
しかし、小さな種の中に秘められているもの、想像をはるかに超えるいのちが硬い殻のなかに閉じ込められています。
主イエスは茨のとげにさされた草木のような人 岩の上で乾く草木のような人にも同情的です。茨の冠をかぶせられ、十字架の上で乾かれた主イエスは、岩と茨を取り除いて下さいます。



ルカによる福音書5:12-16「癒すキリスト」

2015-02-10 12:21:19 | 説教
イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と
 言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

   ルカによる福音書 5:13

 ルカによる福音書は、この人の全身が、重い皮膚病に覆われていた、と伝えています。 他の福音書では、単に重い皮膚病と記してあるのに対して、ルカでは「全身重い皮膚病
にかかった人が」、となっています。日本語ではあんまり雰囲気が伝わりませんが、これ
は相当に重い症状のときに使う、医学用語で書かれているところです。要は全身に転移し
ている、全身蝕まれている、ということです。重い皮膚病とはレプロというギリシャ語が
使われています。それははがす(レポー)から来た言葉であると言われています。
 皮膚が鱗のようにはがれ落ちるような症状をあらわしています。
 この言葉から推測されるのは、一刻も早い治療が必要である、ということと、仮にそれが叶ったとしても、その治療が有効か、もう怪しいところまで来ている、ということです。
 いわゆる医者ルカの目から見ると、もう処置なしに近い状態です。ここで紹介されている人物は、そういうひどい症状だったと、ルカはわざわざ言っているのです。
 肉体的にも精神的にも苦悩を負った重い皮膚病の人は、医師からも、周りの人々からも汚れを負った者として見捨てられていました。
聖書の時代、こういった皮膚病には、強い伝染力があると考えられました。それゆえ感染を防ぐため、病者は人里離れた場所に住むことを余儀なくされ、また、近づく人に、自ら「私は汚れています」と叫ばなければなりませんでした。
 彼が町に来て、イエス様に救いを求めるという行為は、自分の姿を人目にさらすことだけでなく、「汚れた者だ」と後ろ指をさされるのです。冷たい視線の中に自らをさらすのですが。やさしい視線を求めていくのです。
しかし、彼には主イエスのもとに行くと言う勇気があったのです。
 私たちも神様の愛を受けるために、自分なりに条件をつけて、その囲いの中に捕らえられていないでしょうか。
この世における一切の交わりを絶たれた男に対して、根源的な何者によっても破られることのない永遠の交わりを確立するために、主は彼の求めに応じるのです。
主イエスはその人に触れ、このように言葉をかけます。「よろしい。清くなれ」。イエスの手はその人の体に触れ、イエスの言葉はその人の心に触れました。「よろしい。清くなれ」。それは「汚れた者」としての悲しみや苦しみを担う主イエスの宣言です。
預言者エリシャは、軍司令官ナアマンの重い皮膚病を癒しました。しかし、主イエスのように手で触れることはなかったのです。
イエス様は、汚れた者とされたこの男に触れられたのです。イエス様の神聖さは、内側から溢れるものです。
愛のない宗教家のほとんどは、外側だけを装い、内面はどうだかわかりませんが、敬虔な人とされていました。
 しかし、真の神聖さは、外部からのいかなるものによっても汚されないという姿勢を主はとられ、疎外された人々にも関わっていかれました。
主イエスは御心によって彼の願いを聞き届けてくださいました。「よろしい。清くなれ」(13節)。そう言って、「手を差し伸べてその人に触れ」(13節)、重い皮膚病を癒してくださったのです。
 ただ癒したのではなく、手を差し伸べてその人に触れて癒した。そこに深い神の愛が込められています。
主イエスが手を差し伸べて、重い皮膚病にかかった人に触れる。そこには、慈愛に満ちた神のやさしさが込められています。重い皮膚病の人に触れることで、病が伝染するかも知れません。
相手の苦しみと痛みを共有された主イエスの姿が現されています。
 主イエスの手は神様の手です。その手のぬくもりから、神様の愛を感じとりました。
 孤独で孤立したこの人の魂が癒されました。
 今のお医者様は、いろいろな病気を治す力をお持ちでしょう。しかし、人間の孤立と孤独の問題を癒す力をどれだけの方が持っているでしょうか。
 主イエスも、良い業をなすけれど、いろいろな無理解に直面したり、最終的には十字架上で孤立されていきます。でも、その生涯は、どんなに孤立しても、神はお見捨てにならないということを証ししておられます。
 そして、あなたのそばに、いつもいてくださいます。神様の愛を阻むものはありません。
 孤立・孤独の中で持つ寂しさから癒されることが、人間にとって大切な救いです。
その中で真珠を見いだす人は幸いです。
 それは、神様の深い愛です。
 イエス様の手は2000年後の私たちに届くほど長いのです。