日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

第21回平和コンサート報告 8/21

2015-08-29 13:44:04 | 出来事
第21回平和コンサート報告

平和コンサートin中津教会へのご参加、ありがとうございました。
熱い平和のメッセージと心地よく響く楽器の音色とハーモニーに心いやされる
時を与えられました。また、その時の子どもたちの姿にずっとずっと平和な世界が続きますようにとの願いを強くしました。





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第21回平和コンサート報告

月主題「きもちがいい」

2015-08-29 13:41:22 | キリスト教保育
月主題「きもちがいい」
月主題聖句「あなたに平和、あなたの家に平和、
      あなたのものすべてに平和がありますように」
                     サムエル記上25:6
 
 ああ主(イエス様)の瞳♪ まなざし・・・♪と歌う讃美歌があります。
 まなざしという言葉の中に、やさしさ、信じる気持ち、愛する気持ち、待つ気持ちなどを感じます。
 やさしいまなざしの中で子どもは成長していきます。
 子どもの心が見えますか。その心は子どもから聴かなければわかりませんし、交わりと上手につきあうことの中で、見えてきます。
 子ども達に思いやりとやさしさを持つことの大切さを説明するよりも、共感の体験が大切になります。
 小学生時代の後半は親友が出来る頃です。子どもたちは自分と同じくらい大切な友達がいることを知ります。自分を愛するように隣人を愛する大きな土台となりますが、ここに到達するまでに思いやりをかけられる体験とそれを模範とする体験の積み重ねが必要となります。
 まなざしは、その対象である子ども達への愛・思いやりです。
 「ひとりの祈る母あれば、100人の教師にまさる」と先人は言います。祈る母のまなざしは子どもに、そしてその子の未来に向けられます。
 他国の人が何を喜び、何を悲しむのか、その心が見えてくれば、戦争にはなりません。子ども達の未来のために、平和を祈りたいと思います。思いやりの心が世界中に
 広がりますように。

ルカによる福音書13:10-17「信仰の証し」

2015-08-19 12:04:49 | 説教
女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を讃美した。
                 ルカによる福音書13:13


安息日とは、神が労働の束縛から週ごとに解放するものとして、イスラエルに与えられた日で、神につくられていることを喜ぶ日、神に救われて今あることを感謝する日でした。そして、その神の愛に応えて、その祝福を具体化していく日です。
あわれみの業をなすのに一番ふさわしい日です。
腰が曲がって小さくなっている女性が現れます。腰が曲がっていたというこの女性の症状がどんなものであったかは、定かには分かりません。その悲しみがどれほどであるか、想像してみたりします。
腰が曲がっているために、痛みの苦痛もあったと考えることができます。痛みの辛さ、普通に生活できない
2千年前の時代ですから、今よりももっと、病の原因は分からなかったでしょう。原因不明の病を、当時のユダヤ人は悪い霊の仕業だと考えました。11節にも「病の霊に取りつかれている」とありました。では、どうしてそのような悪い霊に取りつかれるのか?その人が罪を犯したからだ、と言うのです。
そういう偏見で見られると、精神的苦痛も伴います。
主イエスは、会堂で、この女性の存在に目を留めました。痛み、悲しみ、そして疎外される苦痛が18年間も続いていたこともお知りになったでしょう。だから、主イエスは、この女性を憐れみ、呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」(12節)と言って癒(いや)してくださったのです。
苦しみの束縛から解放して下さいました。 
この女性の方からではありません、聖書は、イエス様の方から、この女性をご覧になって呼び寄せたと記しています。イエス様は、彼女の姿、表情、その全てを通して、彼女の悲しみ、苦しみ、そして重荷をご覧になったのです。
 そこで、イエス様はどうされたのでしょう。イエス様は、「その上に手を置かれた」のです。聖書で「手を置く」とはいうことは、その存在を受け入れ、祝福する事を意味しています。
 彼女は「たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美し」ました。彼女は癒されたのです。
 心身共に自由にされ、自分らしくのびのびと自由に生きられるようになったと思います。
 安息日が、真の安息となるか息苦しい日となるかは、人を愛し、受け入れる神様の思いを大切にするかどうかです。
 今、ここに主イエスによってこの女性が癒されたことで、神の救いが現実に行われて、神の国が始まっている、そのしるしがこの地上に現れ出ているのに、それがどんなに大いなる祝福であるのか見えなくなっていた。

 「安息日ではなく、他の日に癒してもらえ。安息日はだめだ」。確かにわざわざ安息日に癒してもらうことはない。一日待てば、いやたぶん数時間待てば、律法違反にはならない。しかし、そこでは、安息日が、神の成し遂げてくださった奴隷からの解放と自由を祝う日だという恵が見えなくなっている。

 そのように人びとのこころもまた、こわばっておりました。心が曲がり、そのために、神の愛も、その神が愛してくださっている他者の姿も見えなくなっておりました。

 その意味では、ここで主イエスは、ただひとりこの女性を癒そうとなさっただけではない。この会堂長、また会堂に集まる人びとのこころの束縛を、問題になさったのです。私どもの心が、頑なになって、主の愛の御心が見えなくなっている、それを何としても癒さなければならないと、主イエスは、思い定められたのです。
 愛に欠ける兄弟愛を失った神への熱心は、一人よがりの熱心であって神の喜ばれるところではありません。
 吉野弘さんの“好餌”(こうじ)という詩です。

好餌             吉野弘

或る駅で電車に乗りこんで来たお婆さん
顔中、黒胡麻をまぶしたような風貌
大きく膨らんだ布の袋を引きずって
私の左側に腰を下ろした
腰を下ろすと、すぐ
袋を膝の上に載せ
中を覗いて探しもの
右腕の肘が
遠慮なく
私の脇腹をゴリゴリと突っつく
袋の中をひっかきまわし、
探し物は出てこない
右腕の肘はしつこく私の脇腹を突っつく
電車に乗ると私は
なぜか、いつも
この種の災難に出会うのだ
探しものは見つからず
お婆さんの右肘は際限(サイゲン)もなく私の右腹を見舞う
いつまで続く肘鉄ぞ!
私が席を立とうとしたとき
一瞬先に黒胡麻婆さんが席を立ち、袋を引きずり
少し離れたドアの傍まで歩いて行った
ドアの傍には、深々と腰の曲がったお婆さんがいた
その人に
私の左側を指差して
「座れ」と言っているのだ
腰の曲がったお婆さんは私の左側に来て腰を下ろし
黒胡麻婆さんは
ドアの傍に立ったまま外の景色を見ている
ーーー袋の中ばかり覗いていたお婆さんの目に
   ドアの傍(そば)の腰曲がり婆さんが見えていたとは!
そのとき私の耳に届いた腹話術もどきの声は
黒胡麻婆さんの閉じた口から
私に向けて発せられていた
「何の不思議もありはしないよ
私を非難することでいきりたっていたおまえさんの目に
私以外のものなど見えなかった筈さ」

人の欠点を責める人間が大好物と言う神様
そういう神様がおわすと
かねがね私は信じていたが
ひょっとしたら、この黒胡麻婆さんは・・・・・

黒胡麻婆さんは、やがて電車を降りた
ホームに出たその人の横顔は
窓越しに私を見て
かすかに笑っていた
腹話術もどきの声が、また
そのヒトの閉じた口から
はっきり私の耳に届いた
「他を非難して周囲が見えなくなっている人間が
私の舌の好みには一番でね
おいしいことこの上なし、さ!」

・・・悲しいかな。時々、
「ああ、きっといま、わたしはあの神様の餌になっている」
と、思うことがあるのです。

 つまり、自分の壁にこだわりすぎている時には見るべきものが見えなくなってしまうという例えです。
 「本当に主の愛を必要としている人が見えない」「人を裁くことに夢中である故に、主の愛がわからない」
「サタンに苦しめられた人が解放された安息日なのに、それを喜ぼうとしない」「サタンを倒した主イエスを批判している。
 それは、反対者がサタンの支配下にあることに気づいていないということになります。主はそんな心のゆがみに対しても、まっすぐにする道を開いて下さると信じています。
確かに申命記にも、安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてあります。
しかしイエス様は安息日を、神様を愛し、隣人を愛する日ととらえておられます。イエス様のこの精神は、父なる神様の御心に深く適います。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4~5節)。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19章18節)。この御言葉を実践することこそ安息日に最もふさわしいとイエス様は信じておられました。もちろん神様を愛し、隣人を愛することは安息日にだけ行えばよいのではなく、毎日そのように生きることがよいのです。

 イエス様は会堂長をお叱りになりました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて(解放して)、水を飲ませに引いていくではないか。」安息日を大事にするユダヤ人でも、安息日にも牛やろばを水場に連れて行ったのです。人間はそれら以上の存在です。
イエス様は深い憐れみの心によって癒やして下さいます。
イエス様のお働きによって、心がまっすぐにされて、隣人に注がれている神様の愛に心開かれていくことが大切です。
彼女は「たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美し」ました。彼女は癒されたのです。
 心身共に自由にされ、自分らしくのびのびと自由に生きられるようになったと思います。
 安息日が、真の安息となるか息苦しい日となるかは、人を愛し、受け入れる神様の思いを大切にするかどうかです。
 神の恵み深い愛に立ち返る時こそが安息の日です。その愛を信じ、共に励まし合いましょう。讃美の日まで
それこそが信仰の証しです。


ヨハネによる福音書4:7-15「踊る水」

2015-08-19 12:02:42 | 説教
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
                                 ヨハネによる福音書4:14


 サマリヤの女性が聖書に出てきます。ヨハネによる福音書のみにサマリヤ伝道が出てきます。読者にも、ユダヤ人と共にサマリヤ人がいたことが推定されます。
 魂を生かす真の泉に出会ったサマリヤ人が敵意という壁を越えて、新しい隣人との出会いに招かれていったのです。
ヨハネによる福音書には所々に生ける水の働きが記されているように思います。水の流れる音が聞こえてきそうです。あまつま清水の流れが、人と人とのみずみずしい心の交流を生み出し、世界中にあふれ流れていく。そういうイメージを私は持っています。
 私たちの国日本は、水の豊かな国です。一年を通して雨がよく降ります。特に6月から7月にかけての梅雨の時節は、よく降りますが、9月から10月にかけての時節も、秋の長雨といわれるように、雨がよく降ります。
 イスラエルという国は、乾燥地帯に属していて、日本とは比較にならないほど降水量の少ないところです。一年の半分すなわち、4月から10月まで全く雨が降りません。雨は11月から3月の間に降るのですが、降るべき時節に降らないと旱魃になります。聖書の中には旱魃に関する記事がいくつも載っております。そういった国ですから水はきわめて貴重なもので、水はまさにある時には、文字通り「命の水」です。荒野を旅していて、水を切らしたなら、人は死ぬのです。 梅雨にはいりましたが、恵の雨が、降る日がこれから多くなると思います。雲のお家から水玉坊やは降りて来て、お花を元気づけ、仕事を終えたら、太陽の熱によって、湯気のようになって、天に帰っていきます。
イエス様も、天から降りて来て、私たちの心に水を注いで下さいます。
水はとても大切です。人間の体もほとんど水で出来ています。体の中の水が不足すると頭が痛くなったり、気分や顔色が悪くなります。元気がなくなります。
人間は何も食べなくても、水だけで60日は生きていけるのです。だから、水は大切な役割を持っていて、人間の命を支えていると言えます。
体に水が必要なように心にも水が必要です。

イエス様も、天から降りて来て、私たちの心に水を注いで下さいます。サマリヤの女の人がいました。この女性は、人目を避けて水をくみに来ていました。イエス様はこの女の人に話しかけられたのです。
 イエス様は、この女性に言います。「水を飲ませてください」と
 この女性に、このように声をかけられるのです。人との交流を避けて、孤独な生活をしていた、この女性に他者に愛をそそぎ、水をくみ与える機会を与えようとされたのです。
 サマリヤの女性の心は渇ききったコチコチになっている土のかたまりに譬えられます。乾ききって枯渇していたのです。固化した土塊です。
どのような渇きも、どのような固さも、その根源から潤し、その固体をつくり変えることの出来る力があります。それが、主が与えて下さる命の水です。
 サマリヤの女性は、主が与えて下さる命の水によって、潤いが与えられていきます。
ため池などにある水は、掘る、溜める、維持するという人の努力が必要ですが、水量には限りがありますし、どんなに努力しても、水が汚れ、どよんでしまうことがあります。しかし、わき水は水面下でわき出て、どんなに汲んでも、減ることはありません。
  サマリヤの女の人の心は萎みかけていた花のようでしたが、まるで、お水をもらったお花のように元気になっていきました。そして、命の水を新しい隣人に運ぶ人に生まれ変わりました。
神の愛を、井戸からくみ取り、隣人に注いでいくのが、伝道です。そして、そこに大きな喜びがあります。
星の王子様にこのような話が出てきます。出てくる飛行士は砂漠に墜落してしまいます。飛行士は、サハラ砂漠の真ん中で、一週間分の水が入った水筒ひとつをたよりに、エンジンの修理にとりかかります。しかしついに、最後の一滴もなくなってしまいます。そのとき、王子さまは、砂漠の真ん中に井戸水を探しに出かけようと提案します。そこで彼は、王子について行くと、そこで、井戸水を発見します。
 死ぬほど喉が渇いていたはずの飛行士は先ず、この王子のために水をくみ上げ、口元に運んで飲ませました。だからこそ王子には、「この水」が心においしかったのです。水には飛行士の心、真心がこもっていたからでしょう。また、この飛行士じしんも、こう語ります。「嬉しそうに飲んでいる王子さまを見て、嬉しさがこみ上げてきた」と。
その水は、幼い時に教会で与えられたクリスマスプレゼントのように輝いていると、彼は告白します。
おいしい水を飲んでいる隣人の姿を見て喜びがわきあがりました。
主は言われます。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出出る。「わき出る」アロマイこのことば、人や動物の急激な動きに用いられる言葉です。
使徒言行録3:8 14:10ハッロマイ「躍り上がる」
小躍りして喜ぶ人の姿に重ねます。
神の愛を受けた人を見ていると、自分も癒やされていく、自分も喜ぶ。飲んでいる隣人を見て。そして、共有する喜びへと・・・それは又回りにも共感者を生み出します。
イエス様は、この女性に言います。「水を飲ませてください」と
 この女性に、このように声をかけられたのです。人との交流を避けて、孤独な生活をしていたこの女性に、他者に愛をそそぎ、水をくみ与える機会を与えようとされたのです。
それは伝道です。神の愛を、井戸からくみ取り、隣人に注いでいく働きです。
そこには「湧き上がり」があるということです。又恵みの共有の喜びがあるのです。
あふれる喜びです。中津教会は創立107年です。1897年にキャラハン宣教師の宣教活動が発端となります。エモリー大学在学中にキャラハン宣教師はランバス先生の講話に感激して、宣教師の道を歩まれました。命の井戸水をくんで中津に運んで下さったのです。
最初の受洗者は林竹代さんでした。目が見なかったし、ものもすらすら言えない少女が、とてもいい信仰を持ったので、生嶋眼科の家族や入院患者までが洗礼を受けたということです。竹代さんが飲んだ水で、周りの人が救われていったということ
皆様もこの不思議な水を運ぶお仕事に遣わされますが、そこには湧き上がりが約束されています。そして、共有する喜びへの招きがあります。
私達の心も体も踊らせ、弾ませる神の愛に出会うのです。その愛を受けた喜びは、その人の内だけでは決して留まりません。
回りの人を生かし、愛する大きな力となると信じています。
 イエス様からの、命の水を受け取り。命の水を運ぶ伝道者になってください。

踊る水
君に水をあげよう
僕は水を汲む
水を飲んで微笑む
君がまぶしい
君の笑顔が
喉の渇きをいやす

砂漠の井戸のほとり
君は水をくれた
水を飲んでいるのは
君なのに

君からあふれる
喜び感じた

あまつま清水
不思議な水
キラキラ輝く
命の水
手のひらの
水が踊る

中津教会夏の行事の報告

2015-08-18 16:37:28 | 出来事

7月24日 中津教会子どもの教会夕涼み焼き肉大会
中津教会の駐車場でおいしい焼き肉をたくさん食べました。
中津祇園の日で、教会前をたくさんの人が通り
関係者や懐かしい人ともお会いすることが出来ました。

8月9日中津教会オープンチャーチ
岩崎さんによる介護予防のお話です。

①有酸素運動を毎日すること
②質の高い睡眠をとること
③水分補給 塩素が少なくミネラル成分を含み、弱アルカリ性で浸透性の高い水
沸騰した水一リットル 備長炭1から2本を入れると体に良い水になります。
④食物酵素含んだ生野菜をとる キャベツ、納豆など
野菜50度洗いもよい。
⑤簡単能力テストなどを行い 前頭葉を使うことを心がける
 以上が老化予防に役立つということでした。


子育て講演会
「かけがえのない自分づくり」
 グレース保育園園長による、幼児期に芽生えてくる自我とどのように向き合うかについての一時間にわたる講演でした。


9条を抱きしめて~元米海兵隊員が語る戦争と平和~

参加者で見ました。第9条は日本人にのみ大切なのではありません。地球に住むすべての人間にとって大切なものなのです。

世界平和はわたしたち一人一人から始まるのです。



讃美の会と宣証では、湯元さんから平和についての歌や幼児さんびかの紹介を交じえ、音楽とキリスト教保育によって支えられた信仰について証をされました。



夜の散策の会 中津の郷土史を語る会の安部先生に案内して頂いて、みんなで中津城から福沢旧邸まで歩きました。
安部恭一校長先生は中津地方史の一人者、特に黒田如水の研究をされ、楽しくガイドをして頂きました。