日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

育ち合う

2012-01-31 23:24:23 | キリスト教保育
 厳寒の2月ですが、いかがお過ごしでしょうか。今年度も、後二ヶ月というところまで歩んでまいりました。
 側で、一緒に育ち合うことが出来る子ども達と過ごせる幸いを思います。皆様と共に充実した生活を過ごしたいと願っています。
 「私達の保育は、子どもが生涯にわたって、たとえ悲しみや挫折を経験するような時にも、人の智慧(ちえ)や思いをこえて働く神の導きを信じ、希望を失うことなく、隣人との関わりにおいて、愛をもって生きるための基礎を培う働き」であると、キリスト教保育について、奥田和弘先生(聖和大学名誉教授)が述べておられます。
 今月の主題聖句は、以下のヨハネによる福音書6章35節です。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。
 アンパンマンのモデルが、イエスさまだと聞きました。自分の顔を食べさせて、人を助けをするというアンパンマンのテーマは、私達を救うためにご自身の身体を渡されたイエス様と通じます。作者のやなせたかしさんはクリスチャンです。 
 パンは食物で、食べられることによって、食べる者に生きる力を与えていきます。イエス様は、魂の渇きに応えて下さいます。ただ、「心の糧」として病んでいる者や孤独な人にやさしい言葉かけ、癒すことによって、慰めや励ましを与え、希望を与えることよりももっと深く親密な関係において命を与えようとしておられます。
 人の生命を確かに守り育て得る食べものの向こうには、必ず信頼に足る人が存在します。イエス様が声なき叫びを聞かれ、包みこまれ、愛して下さったように、私達も子ども達の声を聴き、抱きしめ、愛していく者でありたいと願っています。
 何を食べているか、どのように食べているか又誰と食べているか、これらのすべてによってグレース保育園の状態は決まります。
 命のパンであるイエスさまににならい、共に支えあい、助け合うものとして、2月を過ごしていきたいと願っています。
 

ヨハネによる福音書2:1-12  「宣教の開始」

2012-01-25 15:46:11 | 説教
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
                               
                            ヨハネによる福音書2:11

 宣教の開始に主イエスは、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。
 人間の喜びの日である結婚の披露宴が危機にさらされ、終わりかけた時に、主イエスがもたらす祝宴が始まりました。
 マリアは、息子を従わせようとしましたが、息子の言葉に目を覚まし、息子に従順に従いました。
 主は6つのみずがめを水で満たすように言われました、今日のように蛇口やホースがある時代ではありません。水で満たすよりも安易な方法を人は考えるかもしれません、それは、ぶどう酒を分けてくれるところを探すことです。
 しかし、召使い達は、井戸から水をくみ、水瓶を満たす方法をとりました。
 主イエスの言葉に従いました。そうすると、イエス・キリストはそれを用いて、大きな奇跡を起こしてくださいました。
9節に「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」とありますように、神様の栄光を見たのは、下働きをして仕える人たちでした。目立たないところで下働きをして仕える者に神の栄光があらわされました。 主の言葉に聞き従うことから宣教が始まりました。
「良いぶどう酒」、当時の習慣では「はじめに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いものを出す」ことがあったようです。
 ところがイエスの差し出す「良いぶどう酒」は違いました。「喜び」は時とともに薄れていかず。ぶどう酒にあらわされる「喜び」は、質において高まり、あふれて、広がっていきます。
 宣教は、神の愛に対する驚きと、喜びの賛美の世界への招きです。
牡鹿半島の漁村での被災者支援活動をされている奥田知志先生のお話を夏季保育大学でお聞きしました。
 小さな漁村の避難所。村のほとんどすべてが津波に飲まれました。避難場所では、17人の方がそこで暮らしています。お世話役のご夫妻が先生らを出迎えてくださいました。そして、一通の絵手紙を見せてくださいました。支援物資に入っていた手紙です。
「いつか笑える日がきます」。やさしい絵と共にそんな文面がつづられていました。そのご夫妻は「私たちは、今、これに支えられ生きています」と涙をながされた。差出人の方は大分の方だと。
「いつか喜びの日が来る」とカナの婚礼のしるしは、私達に指し示しています。
 主イエスのお言葉に、聞き従いつつ、主イエスの福音を伝えていきましょう。

ヨハネによる福音書1:35-51 「最初の弟子達」

2012-01-25 15:42:03 | 説教
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」                                   
                                  ヨハネによる福音書1:51

 アンデレは、兄弟のシモンのことを、よく知っていましたから、「シモンが岩」と言われたのは、とても納得がいかないことであったとも思えます。
教育とは、エデュケーション【education】と言います。語源は、「引き出す」という意味があります。潜在能力を引き出すという意味合いが強いようです。しかし、ペトロの場合は、神様が下さる恵みによって、思いもよらない新しい人間に生まれ変わるということです。
実際に、後に、ペトロは、迫害の中にあっても、岩のように揺るがずに、教会とクリスチャンたちを慰め、励まし、そして、最後は、逆さ十字架につけられ、殉教の死を遂げました。岩のような信仰を持って天に召されました。多くの信仰者を支える不動の岩となりました。それはイエス様との出会い、イエス様の御業に触れることによります。
 イエス様につながったアンデレは兄弟ペトロにもイエスにつながるようにと導きました。そして、さらに、そのぶどうの木の枝が世界中に広がりました。
 イエス様は人をご自身のところへ、引き寄せる力がありながら、人を用いて、導かれます。それは、人と人との関係を深めるためでもあります。
 来たりて見よという弟子達の証言があればこそ、今、私達は、聖霊のお働きによって、イエス様と出会え、イエス様につながることが出来ます。 
そして、私達の宣教の基本も、46節にあるように、「来たりて、見よ」ということです。
 主イエスのもとにとどまること、主イエスにつながることがイエス様の愛を体験することになります。そして、このつながりが、主をさし示し、人々を主に導く大きな力となります。
 主イエスは、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」、と言われます。創世記 第28章で描かれる、ヤコブの夢の「天の梯子」の光景に重なります。主イエスによって、天への道が開かれる、ということです。それは、人間の限界が破られることです。死の克服・復活を指し示しています。神によって天が開かれ、人々が救いに入れられるのです。
 「ご遺体がない」という現実を経験した、主イエスに従った人たちの悲しみの深さを思います。しかし、主は厳しい現実の中で、復活され、栄光をあらわし、天に昇られました。
 弟子達は見たことを私達に伝えています。その証言は、2000年後の今も、私達の心の中で、「来たりて見よ」と、力強い声で響いてきます。そこに、聖霊が働き、私達はイエス様との出会いへと導かれます。イエス様は、苦しみの中にみ業をあらわして下さると信じています。

子どもの教会新年会

2012-01-18 11:59:47 | 出来事


1月15日の礼拝後に、子どもの教会の新年会を開催しました。
お昼ご飯を一緒に食べました。水炊きとキムチもつ鍋をみんなで食べました。
みんなで食べると、とてもおいしかったです。
 食後はみんなで、新年の抱負を語りました。
 そして、堤先生のご指導で、スウェーデン式聖書研究を体験しました。