日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

中津教会の歴史NO3 キャラハン宣教師追悼文 

2016-08-20 09:34:30 | 中津教会の歴史
キャラハン宣教師追悼文 日本メソジスト時報 1936年7月10日
                                        2306号






  故キャラハン宣教師を憶ふ  沼野 生

 師は意志の人であり、果断の人でありました。。農村伝道の必要を痛感した師は、
遂にテントの伝道の方法による案を立て、その草分けのお手伝いをした小生は、その
設備に伝道案に求道者獲得に、各方面の交渉に押しの一手で今日の基礎を築き上げた
師を見てきました。何と云っても彼の伝道史を飾る最なるものは、この天幕伝道であ
りますが、その卓見熱心、計画、意志と果断をもって残された本伝道に師の姿を見る
 ものであります。
  師は苦痛を乗り越えた奮闘の人でありました。彼には肉体に一つの棘が与えられて
 いました。この度の死因はこれが真実の様であります。その前顎○の蓄膿症は常に頭
痛と共に気分を憂うつに又焦燥に悩ましたことでした。時にはこれを知らない人の為
に気難し屋に日和見的な人と誤られる事も一再ではなかった様です。
 この苦痛に打ちかつためにはなみならぬ信仰の努力を要しましたがその為に彼は度
々手術を要する病気を持ちましたが、その為に彼の計画を狂わせる様なことは殆どな
かった様です。ある師の側近者は彼を評して「先生は病気と仕事は別物です」と語り
ました。☆注意○の部分は活字が崩れていましたので読み取りが出来ませんでした。

 キャラハン先生の事について 福地平之進

 小生が始めて同師に接近せしは明治38年頃なり。同志は性温厚、荘重の方にて軽々し
   い挙動少しも見えず、且つ凡ての行動厳格にして、一度発言されし事は壱も
 後に引かざるの風あり。中津在任当時は信者中より随分誤解を受けられしこともあっ
 た。小生も始めの程は同師を知るに困り、誤解者の一人であった故に、意見の衝突
 談論風発一再ならず。共に主の御用を務むること21年、宣教師は7年毎に一年の休暇
 を得て帰国さるるの例あり。
  小生3度帰国を送らんとする時、口を開きて真情を打ち明けたり、曰く「先生これ
 で先生の帰国を送る三度、かえり見れば小生は先生に対して頑性の不孝児であった。
 然るに先生はこれを放つ事もせず伴いたもう。若し地位を転倒して私が先生の地位で
 あったらもうさきに首切って居たろう。先生は忍耐深い。先生の健康を祈ると」

  以来再び帰朝の暁に際して先生と私の間は一変して衝突障害はどこかに雲散して実
 に相知の友となったので愉快に主の御用に共働し退職帰国休養されんとし、態々中津
 に来られなつかしき教会員に別れを告げ、小生とは更に相互に撮影して持ち帰られた
 り。犠牲献身の生涯とは本当にキャラハン先生の御一生を差すならん。日本国家にお
   ける霊界の開拓者 宗教界の一大偉人として永く先生を偲ぶ。


  キャラハン師を追悼す    宇都宮充

  肝臓の手術を施して、一度快方に向かひたるも宿痾の蓄膿症の為に4月16日 テキサ
  ス州サナトニオにて遂に天に召される。師は死の間際迄日本の事忘るる事能はず最期の
  二日間は日本語を口ずさみつつ召天されしという鳴呼。


コリントの信徒への手紙一3:1-9「神からの真理」

2016-08-10 11:33:06 | 説教
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙一3:9

コリント教会には分派争いの問題がありました。「私はパウロにつく」とか、「私はアポロにつく」というように、特定のリーダーをあげて、その人のやり方、考え中心にすべきだと言って争いあっていました。そこから、教会の一致が乱されていきました。
パウロはそんなコリントの教会をさとすように述べていきます。パウロもアポロもキリストのしもべで、神の同労者です。
 さらに、パウロは、このことを分かりやすく教えるために、6節以降、植物の成長にたとえて説明しています。
植物の成長を通して、信徒と教職者と神様との関係を説明しています。まず、パウロは、「私が植えて」と言います。これは、パウロが、コリント教会の開拓伝道者としての働きをしたことを表す表現です。次に、「アポロが水を注ぎました。」とあります。これは、アポロが、コリント教会の教育に貢献したということを意味するものです。
6節後半に「成長させたのは神です。」 また、7節に、「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」とありますように、
 もっとも大切なのは、私たちを成長させて下さる神様なのだということです。パウロもアポロも、キリストの教会を建て上げるために用いられたのに過ぎません。対立するグループをつくるためではなくて、キリストの教会を建て上げるために用いられたしもべに過ぎないのです。
 コリント教会建設のために、植える者と水を注ぐ者と、働きは異なりますが、同じ主の教会を建て挙げるために用いられた一人ひとりなのです。
 育てて下さる神様を中心に考えていくのならば、分派争いはなくなるのではないかと思います。
 あなたがたは、神の畑であると、パウロはコリントの教会を指して言っています。
神様が人間を造った時に、土の塵で人を造ったと言われています。(創世記2:7)つまり、普通、聖書では土といいますと人間のもとの材料として述べられています。
私たちはもともとは土でありましたが、今はいろんな収穫が約束されている神の畑でもあるのです。
「畑」という漢字は「火」というへんと「田」と書きます。
土地の上にある雑草や潅木を焼き払ってから、畑にするという方法が、ありました。
地面にある病原菌や害虫を駆除することにもなります。又灰は、肥料として用いられます。神のお働きによって、私達の心は耕され、作物を実らせる地に変えられていきます。
畑に収穫を与えるのは、み言葉の種と神様の働きによります。それゆえに人間の力を誇ってはいけません。
これは神の側から見た真理です。神ご自身が成長させてくださる方であり、わたしたちを神の畑、神の建物として選んでおられ、神によって成長し、建て上げられていくべき人として選ばれているのです。
神がパウロに託した種とはどんな種だったのでしょうか。アポロはその種がどんな実が結ぶことを期待して水を注いだのでしょうか。それは愛と平和の実です。ガラテヤ5:22には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記されています。それこそ神の畑に豊かに実るものなのです。
私たちも、お互いを神の畑として、見つめ合いたいと思います。
農村復興に従事した二宮尊徳の言葉があります。

どんなものにもよさがある
どんなひとにもよさがある
よさがそれぞれみなちがう
よさがいっぱいかくれている
どこかとりえがあるものだ
もののとりえをひきだそう
ひとのとりえをそだてよう
じぶんのとりえをささげよう
とりえととりえが結ばれて
この世は楽しいふえ世界

又こう言う言葉を残しています。
あまつ日の恵み
つみおく無尽蔵
鍬で掘り出せ
かまで刈り取れ

田畑という資源は有限ですが神の力と人の力(工夫・努力)が合わされると、無尽蔵に米や野菜を生みだしていきます。
ふえ世界は、誰かが利益を生み出せば、誰かが損をする世界ではありません。

中津教会の歴史NO2護教の記事・日本基督教新聞より

2016-08-05 11:29:32 | 中津教会の歴史
護教 1911年6月10日発行
   (中津教会近況) 教会昨年 高橋牧師赴任以来各方面に発展し来たれり。もっ
    か40余名の会員を有し他行会員を除く他はほとんど礼拝は言うにおよばず。各
    種の集会に出席し、各自全霊に満たさることを期待しつつあり。
    先月15日より一週間連夜祈祷会を開きしに毎集会小さしと言えども祈祷室に
   満員にて遅刻せしき者は室内に入る能はざる時ありしぐらいなり。尚今週月曜
   日より早朝祈祷会を開きおれり。ペンテコステ記念日曜日には昔日ありしごと
    く、会員一同の上に聖霊の火の下らんことを望みし祈りおれり。かくして一大
   リバイバルのおこらんことを予期しつつあり。これがため各教会諸兄弟の熱祷
   を乞うやせつなり。本月中旬鵜崎博士の来津。講演あるはずにてもっか準備運
   動中なり。
    伝道館、昨年暮れより日本福音伝道隊エ・エルダイヤ師夫妻及び宮村伊三郎
   夫妻の来援あり。館を市の中央なる京町新聞社の隣に接地して毎週火金の二晩
   さかんにリバイバル運動に尽力されつつあり。同運動により求霊され熱心に求
   道しつつあるもの続々とおりました。
    日曜学校目下教師に不足なく生徒に変化なく順調の姿なり。出席平均は54~
   56名を上下しつつあり学科は万国日曜学科を採用。毎月二回教師会を開き学科
   の研究事務の打ち合わせをし、校の整理と発展を計りおりたり。生徒は父兄よ
   り入学願書を提出せし者はただちに生徒原簿に登記し、又3カ月以上引き続き
   出席せる者は生徒の資格ある者とし登録する。各集会多いため比較的家庭訪問
   の出来ないのは残念なり。なお伝道館に分校を設置し、日曜日午後開校し。追
   々と地盤固まり来たり。生徒の動揺少なきようなりきたれるは当局の喜びおれ
   るところなり。
   (共励会について)昨年7月発会。目下会員13名 青年男子のみにより組織さ
   れ、毎月2回集会を催し、一回は懇話会にして先月より高橋牧師により創世記
   につき講話を受くることなれり。伝道部の運動として毎月 200部のキリスト教
   新聞を各会員に分かち、市内に配付し伝道の門戸を開くことに努めている。
    会員は青年のみ故動揺多し。土着青年の入会を希望しおれり。青年女子共励
   会共に常磐会と称し婦人伝道師を会長に霊的修養に努め、もっぱら慈善的方面
   に尽力しつつあり。その他婦人会 老人会等の各集会も会ごとに恩寵豊にして
   感謝しおれり。

   中津教会史Q&A「共励会とは?」 教界時報1931年1月30日号参照
                                            
    共励会とは一時「ウェスレ-共励会」と呼んだ。更にたどれば、米国に於い
   て呼んでいるように「エプワ-ス同盟」(Epowth League)と言
   う名称で知られていた。
      エプワ-スとはジョン・ウェスレ-(1703年) が生まれた英国リンコルンシ
   ャイア-の歴史的な土地でメソジズムの発生した地 共励会精神の芽生え育っ
   た地である。父サムエルと母スザンナとによって営まれたウェスレ-の家庭は
   聖書に親しみ家庭礼拝を重んじ、敬虔な生活を営むこと、時間を厳守し、位置
   と場所とを一定し、秩序的に行動する組織的気風に満ちていたこと、優柔不断
   を厳禁し、事々に徹底すること、相互愛の聖訓を実行すること等は、その家訓
   とするところであって、こうした雰囲気の中で培われた精神はジョン及びチャ
   -ルスを通して全メソジスト教会に遺され、共励会そのものの指導精神となっ
   た。
    ウェスレ-兄弟が牛津大学(オックスフォ-ド大学)で同志の者達と組織し
   た聖クラブは修養と活動によってその存在を明らかにした。 修養した彼らは
   他面街頭に出て、キリストの御用をつとめた。先ず青年学生等の良友となり、
   彼等が陥り易き悪癖の排撃に努め、チ-ムを作りて監獄を訪ね、囚人を慰め救
   に導き書籍を貸し金銭を援助して、その更生につくした。彼等は週一回必ず貧
   民を訪問し、病者を見舞い、福音を説き子女の教育を手伝った。学徒の彼らに
    は多忙のプログラムであった。
    聖クラブの起源、性質及び使命は日本の教会の歴史に流れ、共励会の骨子を
  形作るに至った。
    共励会実践綱領①教会の集会に出席すること②祈祷に励むこと③聖書研究に
           努力すること。
    中津教会共励会の活動 聖書研究 病人訪問 製紙工場での聖書研究など
    青年の活動を共励会と呼ぶ。

    ・西部年会記録より「中津教会は長老古坂啓之助氏の司牧第4年になり近年会員の
   他に移転する者多くして現住会員の増加を見ざるも、氏多年の牧会の経験に基き
  教会を指導してい能く一致し財政も良好なり。フランク氏夫妻は聖書研究会を組
   織し共励会の働きを援助し直接 間接に教会の為に熱心につくしおれり。又教会
  は宣教師と協力して米町の説教所を塩町に移し日曜学校の説教会共に盛りなり。
   受洗者11名あり」



      1913年 大正2年
 (中津教会主任)古坂啓之助牧師就任  (中津伝道教区主任)J.W.フランク
  中津伝道教区は行橋講義所 豊津講義所 後藤寺講義所 伊田講義所となる
   陪餐会員54名(現住陪餐会員35名) 日曜学校平均出席 43名

 (古坂啓之助先生) 古坂先生は弘前バンドの一人であった。先生はいつも 「俺は
  死ぬまで伝道する」と言っていた。 牧師は事務員や保険勧誘員の様ではいかぬが
  先生の時論であった。  回りの者は先生の洋服姿を見たことがない。羽織袴をま
  とい直立不動の姿勢は、日本武士の面影を偲ばしめた。
   先生の日本服にまつわる面白い逸話が残っている。
  かって、朝鮮に巡回伝道せられた。平壌教会ではメソジスト大先輩の巡回というこ
    とで、教会員挙げて駅に迎えに行った。所が先生らしい方が居ない。彼らは肥った
    ハイカラな先生を予想して居たのであった。もしやあの日本服の剣道の先生らしい
    人かもと聞いて見る と「わしは古坂だ」と一同は驚いた。
   先生は伝道五十有八年の神の僕であった。
   (日本基督教新聞2269号参照)



 

ヨハネの手紙一5:1-5「信仰による勝利」

2016-08-04 10:25:29 | 説教

「神の掟は難しいものではありません」 ヨハネの手紙一5:3

ヨハネの手紙の主題は教会分裂です。ヨハネの教会では分裂騒ぎが起こり、一部の人々が教会を去って行きました。又ローマ帝国とユダヤ教徒たちからの迫害にさらされて、教会内ではイエスの神性を否定する教えがはいりこみ、教会員を惑わしていました。
そんな教会にヨハネは手紙を送り、大切なことを伝えようとしています。
ヨハネはこの手紙の中で、繰り返し「神は愛である」こと、それゆえに神にある者たち、主イエス・キリストにある兄弟姉妹たちは愛し合うことを掟として命じています。音楽のように、一つの主題を基にいろいろな変化をもって、神の愛が奏でられています。
人は自分を生んでくれた親を愛し、同じ親から生まれた故に兄弟姉妹を愛します、これが自然な人間感情です。
その関係が教会に集うお互いの間にも成立します。信仰によって新しく生まれた者は、生んでくれた神を愛し、その同じ神から生まれた教会の人々と、兄弟姉妹の関係になります。それをヨハネは次のように説明します「このことから明らかなように、私たちが神を愛し、その掟を守る時はいつも、神の子供たちを愛します」(5:2)。
ヨハネは続けます「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」(5:3)。
・イエスは弟子たちに言われました「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る」(ヨハネ4:15)。その掟とは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)というものです。神を愛する者は兄弟姉妹を愛する、それが神の掟です。
その掟を守ることは難しくないとヨハネは言います。
ヨハネは「兄弟姉妹と愛し合うことは難しくない」と言うのでしょうか。隣人愛の掟を守ることは、神への愛に根拠を置いています。それは、神からの愛に基づいていると言えるでしょう。
愛という字から、心をとると、受けるという字になります。すなわち、愛は受けること、すなわち、神様の愛を受けることによって可能になることを、ヨハネは言っています。
「敵をも愛する愛(アガペー)」は信仰から来るからです。
「難しい」と訳されているギリシャ語はバルスという言葉が使われています。その言葉の意味は重圧という意味です。
善きサマリア人の優しさと愛は大きなものでした。私たちにとって、サマリヤ人になることは難しいと思えます。しかし、笑顔、励ましの言葉、賞賛(「おいしいごはんをありがとう」「今日のお話よかったよ」などの一言)、あるいは同情の言葉など、小さなことですが、善きサマリア人が手当に用いたように、傷ついた心を回復させる「癒しの葡萄酒と油」なのです。
重圧ではない愛の道の一歩を踏み出すと、新しい未来と可能性が生まれてきます。
心の内なる世又外なる世 内なる肉の思いや欲望に勝ち、外なる世の生き方や圧迫などに勝利することこそが、愛の実践に必要なことです。
その勝利の力を信仰が与えるのです。
神様の掟というと、難しいもののように思えますが、これは言い換えますと、神様の言葉です。私たちが神様に愛されていることを知り、神様を信頼して生きる時、神様の言葉を聴くこと、守ることはむしろ喜び、楽しみとなります。
「あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます」(詩編119編24節)。
 この「良い考え」の中に新しいアイデアも含まれるかも・・・
真に神様に出会い、神様を知る時、私たちは神様の愛に生きる者となるのですよ、というメッセージと言えるのではないでしょうか。
愛の道を歩めるように、イエス様がその荷を共に負ってくださいます。
愛の道を外れさせる罪の誘惑 世の誘惑に打ち勝つ力を与えて下さいます。
あひるなどは、卵からかえったとき、最初に見たものが自分のお母さんだと思うそうです。あひるが最初に猫を見たら、猫がお母さんになります。動物は視覚優先でありますが、ヨハネは、見えない神様を父と呼ぶことの出来る恵を語ります。
イエス様を信じて神の子どもになった人は、見えない神様の養育を受けていきます。
イエス様を信じて、神の子とされた人は、他の兄弟姉妹を愛するようになるのです
産道を通って生まれた子が、自分がどうして生まれたのかを知らないとしても、その幼子は父と母とに愛され、育まれ、父と母とを愛するようになります。そして、同じ父と母から生まれ、育まれた兄弟を愛するようになります。
神は愛ですから、この愛である神様によって生まれた者にも,愛が備わっているのです。
親と私たちが似ているように。
 信じることさ 必ず最後に愛が勝つ♫ KANさんのヒット曲のように。信仰の勝利とは愛が勝つということです。