日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

月主題0・1・2歳児「あそぼう」  3・4・5歳児「いっしょに」

2015-12-28 14:36:47 | キリスト教保育
1月聖句
『平和の福音を告げる準備を履物としなさい。』(エフェソの信徒への手紙6章15節)
  平和を、更に遠くまで運ぶように、新しい履物を身につけることが勧められています。
クリスマスシーズンがあけて、新しい年を迎えました。グレース保育園のお友達は集団生活を通してたくさんの経験を重ねてきました。神様の愛に包まれつつ、お友達との関わりも深められました。これから、仲間(友だち)と影響しあって遊びも発展させていくことでしょう。
 そのような経験が新しい靴となって、お友達の心に「愛」と「平和」を運びます。
 昔、わらじも旅用に紐がついたものがあって、長く歩けるように工夫しました。
 お友達と幸せになるために、お友達と良い関係を結ぶために、平和をつくりだすために、いろいろと関わり方を工夫していくのも大切な経験です。お友達の心へ近づくための靴があります。子ども達が主体的にどのような靴をつくりだすか、暖かく見守りたいと思います。
  神と人から愛されたイエス様は、のちに神と人とを「最後まで愛し通された」のです。愛されて愛するに至るのです。この真理に気づいていただければ幸いです。
思いやりのある子どもになってほしいなら、思いやりのある関わりを伝えてあげれば、思いやりの気持ちを子どもの心に育むことが出来ます。
 優しい人に育ってほしいと願うなら、まわりに大人が優しく接してあげることです。
 「履物」は行動するための準備が出来ていることをも示しています。新しい一年、周りの人への愛に生きる、新しい一歩を踏み出されることを願っています。イエス様が開かれた共に愛し合う道を歩むために、新しい靴を履きたいと願っています

マタイによる福音書2:1~~12節「東方の学者たち」

2015-12-28 14:33:48 | 説教
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

マタイによる福音書 2:10
 
 イエス様の誕生はイスラエル民俗だけではなく、全世界にもたらされた喜びです。そして、時間と空間を越えて、今ここに生きる私達にも与えられているのです。
 マタイによる福音書において、キリストの誕生の出来事を一番最初に聞いたのは、エルサレムから遠く離れた東の国の占星術の学者でした。
 星を見て先を占っていた人たちでした。このような占星術は、学問として認められていました。又ペルシアの賢者たちというのは、占星術だけでなく、天文学、医術、薬学などを収めたとも言われています。ただ学問をするだけではなく、人の相談に乗ったり、癒したりもしました。
 この学者たちは東方から来ました。イスラエルの人にとっては、東方には常に強大な敵と広大なアラビア砂漠がありました。強敵アッシリアもバビロニアも東方にある国でした。
 その敵の方向から星に導かれて、学者達は主イエスのところにやってきました。
クリスマスになると、ツリーが飾られます。それを見ると、間もなくクリスマスだと思いうきうきします。ツリーの上に星が飾られていますが、ツリーのことは聖書に書かれていませんが、星のことは聖書に書かれています。不思議な星が、東から博士達をイエスへ導きました。
 異邦人を不思議な星によって神は救い主のもとへ導きました。世界のどのような人々にも神は光を与えて下さることを示しています。神はどのような者でも救い、導かれるのです。それはユダヤ人であろうとも異邦人であろうとも、富むものであっても貧しい者であっても、子供も大人も誰でも神は救い、又その人生を導かれるのです。学者達はまず王の宮殿を尋ねます。これは、イエス様は「ユダヤ人の王としてお生まれになった」と知らされたからです。けれども、宮殿にはイエス様の姿はありません。そこに残虐な王ヘロデがおりました。彼は猜疑心の強い男で、そのために自分の家族さえも殺害した男なのです。彼は新しい王が誕生すると、自分の地位が危うくなると思い、幼子イエスを殺そうと考えました。
7節から9節を読みます。3人の博士は王の悪意に満ちた言葉を見抜くことは出来ませんでした。ヘロデは幼子イエスを殺害しょうとしていたのです。王の言葉を鵜呑みに出掛けるのですが、王の言葉よりも、星の導きの方が強力でした。王の言葉を越えて、星が救い主に導いて言ったのです。
 人生の旅をつづける私達をも神は導かれるのです。悪人の計らいよりも、神の導きの方が強力なのです。神はその星のよって、私達を救い主のもとに導かれるのです。その導きによって、悪しき者の計らいから逃れることが出来るのです。
 悪しき者の言葉の導きに神の導きは勝るのであります。
  賢者たちは、黄金と乳香と没薬を送り物としてイエスのもとに持ってきた、と書かれています。
 伝統的な解釈として、黄金はメシアが生まれたということの喜びを表していますが、乳香と没薬はイエスの死の準備として送られたものだと言われています。私もそのように解釈できるのではないかと思っています。
 主イエスが生きていた時代のお墓というのは、横穴式のお墓でした。その遺体を葬るときに、乳香・没薬が用いられました。腐らないように薬を塗り、匂いが出ないように乳香を塗りました。この乳香と没薬はイエスの死を指しています。
 
 クリスマスにお生まれになった救い主は、強い権力を持った王ではありませんでした。敵を打ち倒し、諸外国を支配下に置き、制圧する王ではありません。
 きらきら命輝かせる幼子の姿でお生まれになられたイエス様は、いと小さき者、疎外されている者、病める者、悲しむ者、貧しき者の友となられ、十字架で命を捧げられたお方です。
 十字架への道が運命づけられている救い主です。愛を与え、愛を引き出す救い主です。
 クリスマスの脇役は、幼子イエスを守るために力を合わせ、尽力します。みんなが強力して幼子イエス様を守ります。赤ちゃんは、人々から愛を引き出す力を持っています。
 イエス様も人々に愛を与え、人々の中から愛を引き出す力を持っています。
1914年12月24日 第一次世界大戦時 西部戦線で戦っていたドイツ軍とイギリス軍が睨みあっていましたが、ドイツ軍の最前線からきよしこの夜が流れてきました。その時、双方が停戦し、クリスマスを共にお祝いしたようです。
 東の敵の方向から学者達を呼び寄せた主イエスは、敵意という壁を打ち破ったのです。
わが家ではなく、わが国ではなく、世界という家族の中に光が来ました。平和の主が誕生しました。
 毎日がクリスマスであることを願います。平和の主が世界中の人々から愛をひきだすことを願っています。キリストに出会った博士達は、別の道を通って自分達の国に帰っていきました。ヘロデのもとに帰ることはなかったのです。

ルカによる福音書1:57-66「告知」

2015-12-28 14:29:19 | 説教
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
ルカによる福音書 1:64
 
 神さまからのメッセージを携えて天使ガブリエルが現れた。そして、ザカリアとエリサベツの夫婦に子供が生まれることを告げました。この夫婦には、子供が生まれないまま年をとっていました。しかし二人の願いはきかれて、エリサベトが男の子を宿すと告げられました。
 ところがこの喜ばしい知らせを聞いたのに、ザカリヤは「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(1:18)と言って、すぐにはそれを信じませんでした。二人は子供が授かることを願っていたのに、いざその祈り願いがきかれたと言われた時に、それが信じられなかったのです。 
 ザカリヤは喜ばしい知らせを聞いたのに、すぐに信じられませんでした。それで天使は、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1:20)と、神さまの言葉を告げます。そうして、ザカリヤは口をきくことができなくなってしまいました。さてその時御使いは、「この事の起こる日まで」話すことができなくなると言いましたが、「この事の起こる日」とはいつのことでしょうか?
 きょうの聖書個所を読むと、赤ちゃんが生まれた日ではないことが分かります。妻のエリサベトが男の子を生みました。しかし、まだザカリアは口が利けるようになりません。そして「八日目」になりました。ユダヤ人にとって、八日目は名前を付ける日であり、また同時に男の子は割礼を受ける日でした。
  希望を失い、神様なさる新しいことを信じられなくなった人に希望を与えられます。
人々がエジプトにそしてバビロ二アに捕われていた時に神は解放されたこと。神が自分たちの歴史の中で一番辛かった時にも、神は約束を覚えていて、救いの御手を確かに差し伸べててくださったのです。
 そして、老いたザカリヤ夫妻にも子どもが与えられました。それと同じように、神は救いを実現して下さるのです。
長い間、子どもが与えられず苦しんでいた一夫婦への喜びの告知の物語と、私達はとらえてしまいますが。この記事は深い意味があります。
 単なる老夫婦の御利益を語っているのではありません。
 誕生したヨハネは、人々の心をイエス様に向かわせる大切な働きをします。
 ザカリヤの賛歌が67節以下に記されています。
 79節に、ヨハネが、人々の心を向かわせるイエス様は、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす方です。神の告知が、世界の民の救いを実現させるのです。
  クリスマスは冬至の季節に迎えます、夜が一番長い季節です。昔ローマでは、この日冬至の祭りが行われていました。収穫祈願と春を待ち望むお祝いが賑やかに行われていました。キリスト教の信徒は、それに対してキリストの降誕を記念しお祝いしていました。闇に光が打ち勝つこの季節にこそ、異教の祭よりも、キリストの降誕をお祝いすることの方が大切だと考えたからです。
 ザカリヤの闇は深かったのですが、希望の光が灯りました。生まれてくるヨハネも殉教しますが、最後までキリストを指し示し続けました。
 聖書ははっきり宣言しています。
 キリストは死に勝利されたと。老いるザカリヤにも希望の光が告知され、殉教を遂げたヨハネもその光を抱き続けて召されていきました。
 26聖人のパウロ三木という青年はセミナリオの第一期生であります。毎日説教をし、最後の説教は十字架の上からでした。
 光を告知された人は、その人が生きている闇の中でも光を告げ広めました。
 まざーテレサがカルカッタの町の中で沢山の死にかけている人を連れていき、最後もみとる時。多くの人たちは笑みを浮かべ、「ありがとう」と言って死んでいくそうです。
 一緒にいてくれる人がそばにいてくれることによって、死に行く人は死を克服していく体験をします。
 神のみ業に圧倒される、神の希望に圧倒される証人は、沈黙を強いられ、暗闇に歩む人々に光を証しします。
 抗うことのない強力な希望が生まれた日、それこそがクリスマスです。


「先駆者」ヨハネによる福音書1:19-28

2015-12-28 14:23:00 | 説教
「わたしは荒野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」

ヨハネによる福音書 1:23


イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネという人がおります。イエスこそ神がお遣わしになったメシアだと証をした人物です。
 人々がこのヨハネのことを尊敬して、「あなたはメシアですか」と尋ねると、ヨハネは「わたしはメシアではない。イエスこそ本当のメシアである。そのかたの前では、わたしなどはそのくつのひもを解く値打ちのないものだ」といって、自分は「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる声だ」というのです。
メシア、エリヤ、預言者と人々から呼ばれることは、当時の人々にとって最も大きな栄誉です。しかし、ヨハネは今、徹底的に栄誉を拒否しています。ただ、救い主を示す「声」、ルターによると「長い指」に徹しているのです。ここに、ヨハネの生き方を見ます。説教者は、人物も、名前も重要視されません。ただ救い主を指し示す声なのです。
 レオナルド・ダビンチの絵に「洗礼者ヨハネ」という作品があります。それは 洗礼者ヨハネが、二人の弟子と一緒に歩いていたときに、歩いておられたイエスを見つめて、イエスを指さして「見よ、神の小羊」といったという聖書の記事を題材にして、ヨハネが天を指さしている手が前面に描きだされている絵であります。それは「洗礼者ヨハネの手」あるいは、「洗礼者ヨハネの指」という題をつけたくなるくらい、「手」が印象深く描かれているのであります。
彼が首を切られて処刑された後、焼かれた彼の遺体の人差し指だけが残ってという伝説があります。
 本日の箇所ではヨハネは、預言者イザヤの預言に出てくる「荒れ野で叫ぶ声」であると自分を紹介します。彼は荒れ野で最貧の生活を送り、政治や宗教の中心から離れ、海抜マイナス300メートルのヨルダン川という、この世の最も低い荒れ果てた場所で生きた人物です。普通の人とは全く別の生き方をし、全く別の道を歩こうとしている人物でした。

「荒野に呼ばわる者の声」とはバプテスマのヨハネのことを指していたのがわかります。彼はキリストが来られる半年前に現れ、メシヤがいつ来てもいいように準備するようにと、悔い改めのメッセージを語りました。
ヨハネは世に向かって声を届けていく使命を受け止めていました。
ヨハネは早くに、首を切られ殉教の死を遂げますが、ヨハネの声は2千年の時間を越えて、ヨルダンの荒野から今もいきいきと、生き続けています。
 「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる」(イザヤ書40章3-4節)。
バビロニアから解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。その道を整えるようにというのです。実際、その国の王様が旅をする時にはその行く先々に先遣隊を遣わして、道を整えました。道を広く、大きくし、まっすぐに、平らにしました。すべての谷は埋められ、すべての山や丘を低くしてならしました。
 「救い主イエス様をお迎えするために道を整えよ」と荒野で呼ばわる者の声がします。
 私たちは「まっすぐ」でなければならないとヨハネは語ります。
 イザヤは、まっすぐにするためには、高低のある地が平らにならなければならないと教えます。
思い高ぶってはなりません。
真直ぐであることは、起点から終点までが最短距離になるということです。
真直ぐであれば、見通しも良く安全であり。イエス様のもたらす平安が与えられているということです。
 荒野とは人間の現実でありますが、そこに来たりたもう救い主イエスを迎える道づくりは、私達にとって、悔い改めて、主イエスに心を向けることにあります。
ヨハネの道備えは、私たちの心がイエス様と真直ぐにつながるために、迷うことなくいつもイエス様に向かうために、イエス様を眼の前にするような交わりを持つためです。
 クリスマスは華やかに、町でもお祝いされます。ロマンに満ちています。もしも、そこのところが、自分が楽しむだけで終わってしまったら、本当のクリスマスを知らないことになります。
相田みつをさんの詩に根という詩があります。
    根

花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根は見えねんだ
なあー
 根のところを支えて下さるイエス様の恵を受けとめ証しすることが大切です。
 人々がイエス様に出会えるように道が整えられることを願いたいと思います。
 そのためにわたしたちも、私達も救い主を紹介し、その道を整えるために、自分自身もイエス様をまっすぐ見つめることが大切です。

使徒言行録3:1―10 「美しの門」

2015-12-10 15:25:26 | 説教
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
使徒言行録3:6

3章に至っては、聖霊の力が「イエスの御名の力をあかしする力」として現わされます。その象徴的な出来事が「美しの門」で起こった出来事でした。
「生まれつき足のきかない男」(40歳)が宮に入る人々から施しを求めるために、「美しの門」(東門)においてもらっていました。物のように置かれていました。
彼が施しを得ると、彼を置いた人も利益を得ていたことが想像出来ます。そういう依存関係が彼の背後にはありました。
そこへ宮で祈るためにペテロとヨハネが宮に入ろうとしたとき、その男は使徒たちに施しを求めたのでした。
この求めに対して、使徒のペテロとヨハネはその男をじっと見つめて「私たちを見なさい」と言います。男はなにかを受け取れると期待して彼らに目を注ぎました。
この「目を注ぐ」と訳された原語は「エペコー」で、単に目を向けるというよりも、心や思いを向けることを意味します。
そこでペテロはこう言いました。「私には金銀はない。しかし、私の持っているものをあなたにあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、起き上がって(原文には「起き上がる」ということばがあります)、歩きなさい」(3:6)。
ペテロが右手を取ってやると、立ち上がりました。なえていた足が治ったのです。そして、彼の足やくるぶしがしっかりしてきて、今度は躍り上がって喜びながら立ち上がりました。そして、門のそばで歩き回ったり、神を賛美しました。そして、ペテロ、ヨハネと一緒に境内の中に入って行ったのです。後でペテロは説教の中でこう言っています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(3:16)
ここで使われている「足」とか「くるぶし」といったことばは、新約聖書では他に例のない珍しいことばで、医者ルカらしい細かな観察が 見られます。
主イエスの弟子達は必要最低限の持ち物しか持っていなかったので、お金を持ち合わせていなかったのは想像出来ます。しかし、お金があったとしても差し出さなかったのは、とても良い結果を招くことになりました。
困っている人が入れば、すぐに助けてやりたい、こう思うのは、福祉専門家でなくても、誰にもがそう思います。しかし、そのタイミングをちょっとでも間違えると、相手は依存的になり過ぎたり、自分で立ちあがろうとしているのに結果的にいつまでもそれを出来なくさせてしまう危険性があります。
宿題を終えていない子どもの宿題を代わりにする親はいないでしょう。もしそうすると、自力で宿題を終えない子になるからです。
本人が,自分の問題を自力で解決しようとする前に,手を貸して解決してしまうと,結局本人は問題に直面することがないので,同じ問題を繰り返し引き起こしてしまいます。
 キリストの名によって起き上がりなさい。キリストの名は救いであり、恵であり、勝利を表す名前で、人のエンパワーメントに働きかけていくのです。
レスキュー隊は、水に溺れている人を助けるときに、その人がしがみついてきたらいったん溺れている人を水に沈めるそうです。しがみつかれると共倒れすることがあり、結局、その人を助けることができないからだそうです。
「立ち上がり」とありますが、昨日、原文で読んで気づいたのですが、これはギリシャ語では「よみがえる」「目覚める」という言語と同義です。
真の自立の原点は、まずは「目覚めること」が必要であることを暗示しています。今の状態に気づき、そこから回復していこうとする自覚ということになるのでしょう。
 エンパワーメントとは本来は「力をつける」という意味です。介護福祉においては、障害を持った方、あるいはその家族がより内発的な力を持ち、自らの生活を自らコントロールできること、または、自立する力を得ることを意味しています。
社会福祉の援助では、このような事(自立するための能力を付与すること)を専門用語でエンパワメントと読んでいます。それは、援助する側に頼るのではなく、仮にその支えがあっても援助される側自身が自らパワーをもらって、つまり力を付与されて(エンパワーされて)、主体的に立つことを意味します。
キリストの名はエンパワーメントを呼び覚まします。
 本来の私たちには、多くの可能性や能力、個性、感性、生命力などが備わっており、それらは受容や共感、肯定的なことばかけなどによってぐんぐんと引き出され大きくなっていきます。反対に差別や無視や多くの否定的なメッセージを受けると、私たちの内にあるすばらしいエンパワーメントはぐっとしぼんでいってしまいます。
 年齢、性別、しょうがいによって、生産性・価値の低いものと位置づけるという差別はエンパワーメントを萎ませます。
 ナザレと言う地名が出てます。その土地は、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とヨハネによる福音書1:46にも書かれているように、何もよいものはでないとされていたところでしたが、それを弟子達は誇っています。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」使徒言行録3:6
貧しい人・差別された人にとってこの言葉は、心の琴線に触れました。そして、マイナスイメージの言葉を弟子が誇っているということは、失われたエンパワーメントの回復が訪れていることを物語っています。
 貧しき者・障害を持った者・罪人達・女性・子ども達を救われた主イエスの名は、大きな力を持って人々に働きかけます。
 何にもよいものは出ないという差別に反対し、人の命の輝きを引き出された主イエスの名によって歩みましょう。