日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

月主題 0歳-5歳「おおきくなった」

2016-03-09 11:47:44 | キリスト教保育
義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
                    ヤコブの手紙3:18


 大きな節目の月を迎えました。一年前に比べれば、皆さん大きく育たれ、進級・卒園に備える月となりました。
子ども達が園で育まれ、身につけてほしいと願っていることは義の実りではないでしょうか。それはイエス・キリストにあって「神の子」と呼ばれる平和をつくる人々になることです。
親という字は、「木の上に立って見る」と書きます。
子どもが何か出来るようになってほしいことがあれば、「早く」と口うるさく、あれこれとせかせるのではなく、子どもが出来るまで手伝うくらいの気持ちで待ってあげる。そういう見守りが、子どもの自立につながっていきます。
小児精神科医の佐々木正美先生は「待つ力のある人に育てられることで子どもに自律心が育つ」と言われます。
 自分の存在を受けとめられ、見守られている体験が、様々な違いを越えて、他者の喜びや痛みを受けとめて励まし合い、助け合う人になっていくことにつながります。
小さな存在を受けとめることは、やがて、その小さな存在が、主体的に自らの判断で他者を受け入れ、平和をつくる人になっていくということです。
 子ども自ら主体的に考え、学んだ義は、積極性を生み出すと共に、多くの義の実を結ぶことでしょう。     
神に愛され、受け入れら、見守られているという礼拝での体験が、大きな心の栄養となっていると信じています。

ヨハネによる福音書12章1節-8節 「香油を注がれた主」

2016-03-09 11:43:12 | 説教
この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから 
        ヨハネによる福音書 12:7



主イエスのために夕食の会が開かれていました。ラザロ マルタ マリアの姉弟の家にイエスが招かれました。
マリアは300デナリものナルドの香油をイエスの足に塗りました。1デナリあれば家族が一日食べることが出来たのですから、300デナリは1家族の1年分の収入に当たる大金である。それだけのものを主に注いだのであります。
 ナルドの香油は、インドのヒマラヤ地方に産するナルドという香料で作ったものです。旧約聖書の雅歌にもその名が出て来ますが、ソロモンがエラテ港を使って始めた南方貿易によって輸入されたものです。花で言うとフリージアに似ています。

マリアはどうして、香油を捧げたのでありましょうか。敏感な心で、これから十字架の死を迎える主イエスの受難を感じとったのであるかもしれません。その主のために出来るだけのことをしてあげたいと思ったのでしょう。大切にとっていた香油をイエスに捧げたのです。
 人がする感謝の表現として、これ以上のものはないと思わせる場面でもあります。
マリアにこの心の美しさを表させるほど、主の十字架は大いなる愛の出来事であると思います。
マリアのこの感謝がなければ、人類は人類に対して最も尊い犠牲を払ってくださったお方の悲しみのときに、慰めと感謝のささげものをする機会がなかったことになります。
マリアが香油を塗った主の足は、迷える羊を捜し続けて歩まれた足 溺れる弟子達を救うために海を歩いた足、十字架に向かって歩んでおられる足です。
 愛を運ぶ足は麗しく、香油を塗るのにふさわしいのです。
その足にマリアは高価なナルドの香油を塗り、自分自身の髪の毛でぬぐいました。それは、この主イエスの完全な自己献身の愛に対する応答と感謝であります。
主イエスはこの聖なる浪費を喜び、高く評価してくださいました。
私たちも、本当にこの人にはお世話になった、助けていただいたと感じている人がいたら、その人のために何かしたいと思うでしょう。その人のために「良いこと」をしたくなるでしょう。
マリアは香油を無駄づかいしたのかもしれません。しかし、それは、主の私たちへの愛に対する応答です
イエスさまの十字架の愛も、見る人が見れば、無駄づかいではないでしょうか。十字架、受難の道には愛の無駄づかいがあるのです。
顧みを求めない愛であります。
主イエスの愛の浪費に対して、それを指し示すマリアの愛の浪費があります。
しかし、主の十字架の愛に私ども人間のあらゆる「よい行い」の中心があり、源があるということを、彼女の無言の行いは語っているようです。
主イエスは、ユダの非難に対して言いました。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(7節)これは驚くべきことばです。この時、マリヤは、主の死を感じ取っていたのです。
彼女は、イエスに香油を塗ることによって、イエスの葬りの用意をしたのです。イエスが亡くなられた時、男の弟子たちはユダヤ人を恐れ逃げたので、葬りの香油を塗れませんでした。女の弟子たちは、イエスのからだに香油を塗ろうとして、墓まで行きましたが、主は復活されていました。主の葬りのための香油を塗ることができたのは、マリアだけでした。

マリアの塗った香油の香りは十字架上においても、主を慰めたでしょう。
マリアが行ったのは、後からふりかえれば、生前葬のようなものであったかもしれません。十字架の愛は世界中の人々が記念する大切なことだと、指し示したのです。
マリアはこのことを出来たのは、イエス様のみ言葉を聞くことを大切にし、いつも主の心を感じ、知っていたからです。
主の心や望んでおられることを知って、愛に満たされて進んでいく時、部屋いっぱいに
良い香りが拡がりますし、髪の毛についた香油は外の人にも香りを運びます。
 時にかなった良い行いを生み出し、良い香りを放つこと、又最も美しい奉仕を生み出すのは、礼拝の中でみ言葉を聞き、主の心を聞くことにあります。

ヨハネによる福音書6:60-71「受難の予告」

2016-03-03 09:35:21 | 説教
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
ヨハネによる福音書 6:68
「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(51節)と言われました。
 目に見えるパンは単なる物質ですが、主イエスは「生きているパン」だと言うのです。それは、イエスこそが、私たちの心とからだの両方を養って下さる、真のいのちのみなもとであられるからです。
 この話を聞いたユダヤ人たちは「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」(52節)と互いに議論し、理解に苦しみました。
 主イエスの言葉は、その時代にとてもインパクトのある言葉でした。それゆえに誤解を招くこともありましたが、真実ゆえに人々に衝撃をお与えになられるのです。ご自分の十字架の犠牲こそが、彼らに真のいのちをもたらす糧となるということを、語ってくださったのです。
 主イエスは、「信じる」という言葉を「食べる」とか「飲む」と置きかえられました。
 当時のユダヤ人は、人間的な努力によって永遠のいのちを勝ち取るかのように考えました。それに対し、イエスは、信仰を、食べることや飲むことで表わしました。それは、神が与えてくださった恵みを、受け取るという姿勢です。受動的な信仰を食することであらわしています。この世界で、うまく自律が出来ている人は、支えられている人です。
  しかも、食べ物や飲み物が私たちの身体の中でエネルギーに変えられるように、イエスご自身が私たちの内側に力を与え、主の「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(ルカ9:23)という招きに従うことを可能にしてくださいます。
 さらに主イエスはご自分の肉と血というご自身の身体のことを指しながら、「これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありませ ん。このパンを食べる者は永遠に生きます」(58節)と言われました。
このようなイエスの恵みのみことばを聞いた多くの弟子たちが、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(60節)と言ってイエスを離れて行きました。
60節に「実にひどい話だ」とあります。「ひどい」と訳された言葉の意味合いは、ひどい」と訳されているスクレーロスとは, 「硬い,粗野な,厳しい,耐え難い」という意味が紹介されている。

「咀嚼できない」「噛み砕けない」「理解できない」ということでしょう。
彼らもイエス様がわたしの肉を食べよ、また、わたしの血を飲めというのを聞きまして、一般のユダヤ人と同じく、つぶやき始めたのです。霊的養いの意味が理解できず、不平、不満、不愉快、反対を相互に言い始めたのです。
イエス様がわたしの肉を食べよ、わたしの血を飲めというお話をしたときには、弟子といわれるこれらの人々は、イエス様のお話は硬くて、ゴツゴツしていて、難解で、何を言っているのかさっぱりわからないとお互いに、不平、不満、不愉快、反対を相互に言い始めたのです。
 堅い食物は食べ辛いです。かむ時間もかかります。しかし堅い食物がより長寿には役に立ちます。たとえば、白いご飯の方が玄米や雑穀のご飯より食べやすいです。しかし、実際、健康の為には玄米や雑穀のご飯の方がよいと言われます。
又固い食べ物は、あごを発達させて、歯並びをよくさせます。
ご自身を食べ物と表されているのは、エルサレムで起こる十字架の死を意味しています。
その意味することを布でおおい隠せば、つまずく人もいなかったかもしれませんが、真実は隠しきれません。
わたしたちが毎日食べるごはんも、多くの命の犠牲によるものです。そのことを意識したら、ひどい話です。
しかし、感謝なしにはいられません。
悲惨なようでありながら、罪人が生かされるは、尊い主イエスの肉と血に表される犠牲の愛によるものであります。
神の御言葉も、堅い御言葉、奥義の御言葉は学ぶことも悟ることも難しいです。しかし、このような御言葉は、私たちを確かな永遠の世界へと導き、私たちが神様の深い御旨を知ることが出来、信仰の成熟された者になるよう助けてくれます。
 多くの弟子が離れさりましたが、嘘を語ったからではなく、真実を語ったからです。
ペトロが、自らの信仰を告白します。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます」(68節)。
この世で手にするものは、永遠への渇きを満たすものではありません。わたしたちには主は選択肢の一つではなく、なくてはならない大切な方です。主スが必要です。