日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ヨハネによる福音書15:12-17「神の子の自由」

2019-06-25 10:08:54 | 説教

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

                                                  ヨハネによる福音書15:16

        

 16節で任命と訳される同じ言葉が13節では命を捨てるの「捨てる」と訳されています。両方とも、「置く」という意味の動詞が用いられています。

 十字架で命を捧げた同じ愛でもって、主は弟子達を愛の使命へと押し出したということです。

 聖イグナチウスが言っているように、弟子達の愛の火はいつまでも消えず、十字架を燃料としてますます燃え上がるのです。

 必ず他者に友として認められるように、主が共に働いて下さいます。

  私たちが出かけて行って結ぶ実とは、互いに愛し合うという実りです。また私たちがイエス様のみ名によって父なる神様に祈り願うのは、互いに愛し合うことができるように、ということです。その祈りは必ず叶えられる、とイエス様は約束して下さっているのです。

 1933年4月、旧制中学部の5年生であった白木真寿夫さんは、従兄と一緒に神戸の須磨海岸の沖でボートに乗っていました。

しかし、汽船の横波を受けてボートは大きく揺れ、従兄は海に投げ出された。

 白木さんは、制服のまま初春の冷たい海に飛び込み、近づいてきた船に従兄をあずけると、自身は力尽きて海中に沈みました。

 お父様の白木徹夫さんは、深い悲しみの中から真寿夫さんを記念するために桜の苗木を中学部に贈りました。それは「白木桜」と呼ばれるようになりました。

 主の掟を守ることが命じられた私たちもまた、十字架の主に従って、愛のために生きる、それが強く求められているのです。

しかし、命を捨てるほどの愛を持つことは、私たちには困難なことであります。なぜにイエス様はこのような無理なことを求められるのでしょうか。

もし、十字架の愛を私たちが一度も聞かないならば、星のない闇夜に、深い暗黒を加えることになります。しかし、聞くことによって、受け止めることによって、光は輝くのです。