日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

グレース保育園園児 新会堂来園

2023-10-16 15:41:12 | 出来事

グレース保育園のちきゅうぐみ(4才児)うちゅうぐみ(5才児)のクラスが新会堂にはじ

めて来会されました。

廣安牧師より中津教会の会堂建築に至るお話を聞きました。ぶどうの幹であるイエス様に

つながっていれば、良い実を結びます。イエス様と結びつくことによって新しい会堂が完

成しました。

会堂では子ども達の声が響きわたり、明るい楽しい雰囲気になりました。

子ども達からたくさん質問が出ました。

「神さまはどこにおられるの」「教会の見どころは」「神さまはお家を建てられるの」

「なぜ礼拝堂に十字架があるの」

たくさんの質問に牧師が答えていました。

教会堂は見えない神さまが支えてくださったから、完成することが出来ました。又教会

は私たちのものではなく神さまに捧げたものだから、イエス様が中心です。だから十字架

が掲げられています。いつでもどんな時にも神さまはみんなに働きかけ、共にいて下さる

ように天におられます。

 

 


ルカによる福音書5:12-26 「いやすキリスト」

2023-02-15 10:03:26 | 説教

「イエスが手を差し伸べて その人に触れ」 ルカによる福音書5:13

 その差し伸べる手から、重い皮膚病の人に伝わったものは何でしょうか。もちろん、病を癒す力です。でも、それ以上に愛だったのではないでしょうか。

 主イエスは全く異なる姿勢を持って、この人に関わっています。敬虔で聖なる人は、律法をしっかり守って、汚れから遠い人という考え方がありました。
 しかし、主イエスは違っていました。愛のない宗教家のほとんどは、外側だけを装い、内面はどうだかわかりませんが、敬虔な人とされていました。
 しかし、真の神聖さは、外部からのいかなるものによっても汚されないという姿勢を主はとられ、疎外された人々にも関わっていかれました。
 そして、その人達を癒し、社会復帰させたのです。
 主は見捨てられた人々を見捨てず、その神聖さを私達に示しました。
  そのような、主イエスの愛が、重い皮膚病の人に示され、彼は癒されました。
 聖なる者となるのは、苦しんでいる人々に対して、神のごとく憐れみ深くなることに他なりません。
 確かに、私達はイエス様のように、病気を治す力を持っていないかもしれません。 私たちには、手を触れて誰かの病気を治す超能力的な力はないかもし
 れません。 又確かに私たちは、誰かが清いということを、社会的に認めさせる影響力はないかもしれません。しかし、手を差し伸べ、心に触れて、私に
 とってその人は清い、と受け入れることはできるのです。手を差し伸べ、触れて、誰かの存在を癒す力は、与えられているのです。
 イエス様は、私達なりに他者を愛することが出来るように、私達を清めて下さいます


ハアベの墓碑について

2022-03-24 17:38:35 | 中津教会の歴史

 

 ハアベの墓碑について

 1891年 
      キャラハン宣教師はYMCAの指示で英語教師として来日。
    
    1893年
      宣教師の資格をとるために神戸の神学校で学んでいる時
      キャラハン宣教師は、長崎で出会ったマ-サ-宣教師と結婚。
      
   1894年
      キャラハン宣教師は中津へ遣わされ、国東までの大分県北地域
      と福岡の行橋・田川地区までを布教の範囲とした。
      
     1896年
  長男ハアベ肺炎で召天。
      ハアベは前年の11月に生まれたばかりで、わずか2カ月の生涯
      だった。だが嘆き悲しむ夫妻を町の人たちの心が救う。それまで
      親しくなかった人々が会葬に訪れ、近くの寺院に手厚く葬られた。
      ハアベの死を機会に地域の人々とのつながりが深まり伝道は発展
  していく。
  ハアベは中津伝道の一粒の麦(ヨハネによる福音書12:24)と
  なった。
  ハアベの墓石は第二次大戦の前後日本キリスト教団中津教会の敷地内
  に移される。
       
       墓石に記されている聖句 
      
   「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」
                     マタイによる福音書18:10

        


 エフェソ信徒への手紙5:1-5  新しい戒め

2021-09-22 16:16:38 | 説教

「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神にならう者となりなさい」という言葉は、神であられるキリストにならいなさいということです。

 神に学ぶ……神に学ぶとは、神様の真似をしながら覚える事です。だから、「私に習う者になれ」と命じました。

 

神は愛なり……ですから、「互いに愛し合いなさい」と命じました。神様の愛の見本を少しでも真似しながら(見本にしながら)愛します。

子は父の背中を見て育つと言います。又「神に子とされたあなた方は、父なる神の愛の遺伝子を受け継いでいるということを表しています。
 新しい戒めという主題をつけましたが、愛によって歩むことのどこが新しいのかということを思われることでしょう。そのことに対してお答えいたしますと、愛は私達の成長を自己満足に終わらせることはありません。愛は深く、広いのです。

古びることなく、常に新しい響きをもって私達によびかけ、内面を揺り動かしていきます。旧約の時代から隣人を愛することは言い伝えられております。しかし。ここで新しいと言われていることは、その命を捧げてまで私達を愛して下さったキリストの愛が土台になっているということです。

すなわち、私達はその独り子を与えるほどに愛して下さった大いなる愛を経験しているということです。

子どもは知らないうちに 無意識に親の愛を受けて、親に似る者になると言われています。そして、成人していくと愛されたことへの感謝が沸き上がります。

感謝という言葉は、礼拝楽で用いられるユーカリストという言葉が使われています。感謝の対象は神様です。下品な冗談で人を笑わせるよりも、神様への感謝が回りの人々を幸せにしていくのであります。

神の愛を感謝して受けとめる人は、貪欲から解放され、生まれ変わっていくのです。いやしい言葉より、みだらな冗談より感謝の言葉を語るのです。他の人よりも深く見て、主の恵みを語るのです。

インターネットの普及により、人間関係も個人主義に陥る危険性があります。人は深く付き合うほど、摩擦やわずらわしさなども経験していくのですが、その中で人間関係も成熟していくことは確かです。自分の都合のみを中心とした関係でしたら、愛は育たないかもしれません。そこに愛の広さ・深さを感じられないからです。

チャットによるいじめも、相手のことを考えない罪が増幅しているように感じます。便利な技術の新しさよりも本当の新しさ・・・人を幸せにする新しさという観点は、いつまでも新しく求められるものです。愛はいつの時代も新しい掟です。


ヤコブの手紙2:8-13「隣人」

2021-09-14 17:15:57 | 説教

ヤコブの手紙2:8-13「隣人」

本日のところでは「差別」が取り上げられています。人の名声、権力、財産によって、特別扱いをする、そんなことはしてはいけない、と言われています。人は皆、等しく神の命を与えられた価値ある存在である。少なくとも神に命を与えられたという信仰があるのなら、見かけで人を判断したり、差別したりすることはしないことが大切です。

人が人を差別するというのは、結局、その人を傷つけることに留まらず、キリストの御名を汚すことになります。(7節)。

主イエスは差別などされません。差別はこの世の社会から取り除かれていくことが大切です。

神の愛に生きることをキリストは大切なこととして私達にお伝えくださいました。そのようにイエス様から愛と教えを受けた私達が差別をしているとしたら、証にならなくなります。キリストの愛を知っていれば、子が親に似てくるように、私達は自ずと自分の生き方に反映されていくはずなのです。

そういう意味で、律法の中でも大切な戒め、愛の戒めを守ることを私たちは大事にしなくてはなりません。

神が哀れみ深いように、あわれみと愛情を持って生きることを大切にすることが必要であります。

死体というのは、動きや活動がなくなり、無力になっています。それは生きた体の幻影とも言えるのではないでしょうか。

 死体が立ったり、歩いたり、語ったりしないのど同様に、救いの働きや変革を生み出していかないとしたら、生きた信仰とは言えないかもしれません。

死者をよみがえらせた主イエスキリストは、死んだ信仰を生きた信仰に変える力をお持ちであられます。