「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神にならう者となりなさい」という言葉は、神であられるキリストにならいなさいということです。
神に学ぶ……神に学ぶとは、神様の真似をしながら覚える事です。だから、「私に習う者になれ」と命じました。
神は愛なり……ですから、「互いに愛し合いなさい」と命じました。神様の愛の見本を少しでも真似しながら(見本にしながら)愛します。
子は父の背中を見て育つと言います。又「神に子とされたあなた方は、父なる神の愛の遺伝子を受け継いでいるということを表しています。
新しい戒めという主題をつけましたが、愛によって歩むことのどこが新しいのかということを思われることでしょう。そのことに対してお答えいたしますと、愛は私達の成長を自己満足に終わらせることはありません。愛は深く、広いのです。
古びることなく、常に新しい響きをもって私達によびかけ、内面を揺り動かしていきます。旧約の時代から隣人を愛することは言い伝えられております。しかし。ここで新しいと言われていることは、その命を捧げてまで私達を愛して下さったキリストの愛が土台になっているということです。
すなわち、私達はその独り子を与えるほどに愛して下さった大いなる愛を経験しているということです。
子どもは知らないうちに 無意識に親の愛を受けて、親に似る者になると言われています。そして、成人していくと愛されたことへの感謝が沸き上がります。
感謝という言葉は、礼拝楽で用いられるユーカリストという言葉が使われています。感謝の対象は神様です。下品な冗談で人を笑わせるよりも、神様への感謝が回りの人々を幸せにしていくのであります。
神の愛を感謝して受けとめる人は、貪欲から解放され、生まれ変わっていくのです。いやしい言葉より、みだらな冗談より感謝の言葉を語るのです。他の人よりも深く見て、主の恵みを語るのです。
インターネットの普及により、人間関係も個人主義に陥る危険性があります。人は深く付き合うほど、摩擦やわずらわしさなども経験していくのですが、その中で人間関係も成熟していくことは確かです。自分の都合のみを中心とした関係でしたら、愛は育たないかもしれません。そこに愛の広さ・深さを感じられないからです。
チャットによるいじめも、相手のことを考えない罪が増幅しているように感じます。便利な技術の新しさよりも本当の新しさ・・・人を幸せにする新しさという観点は、いつまでも新しく求められるものです。愛はいつの時代も新しい掟です。