日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

平和コンサートのご案内

2018-08-03 15:53:29 | 行事のご案内


ルカによる福音書18:15-17 「子どもをまねくイエス様」

2018-06-12 10:02:42 | フォトギャラリー

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。         

                                                      ルカによる福音書18:17

 

 イエスさまのもとに子どもが連れて来られました。その中に赤ちゃんが混じっていたそうです。乳飲み子と書かれています。

 子どもでしたら、自分で歩けるかもしれませんが、生まれたばかりの赤ちゃんです。母親か、あるいは父親の腕に抱かれて連れて来られました。

 それを見た弟子達はこれを見て、親に文句を言いました。「泣いたらどうする」「来てはだめだ」と言ってかもしれません。

 イエスさまは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われまし。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…

 大人になって、自分が赤ちゃんだった頃の写真を見るでしょうか。机の引き出しの奥にしまって、埃をかぶっているのではないでしょうか。たまに見てみるのもいいですよ。

 その写真は大切なことを伝えることでしょう。

 大人になるにつれて、自分で生きるようになります。自分のことは自分で考え、自分で行動し、自分でなんでも出来るようになります。

 歩けて、着替えが出来て、字が書けて、楽器が弾けて、早く走れるようになって・・

 いろんなことが出来るようになると、自分の力に頼ってしまい。何でも一人で出来ると思うようになり、神様の助けすら必要ないと思うことがあります。

 しかし、イエスさまは言われます。「幼子のようになりなさい」と

 神のみ腕に委ね、神の愛の中に生きるようにと、イエス様は促していかれます。

 生まれたばかりの赤ちゃんが、母親のミルクを慕い求めて、それを飲み、成長するように、私たちが飲むものは、神様が下さる乳、御言葉です。

 母乳には、病気に勝つ力のもとが含まれています。神様のみことばにも心の栄養がたくさん含まれています。

 神さまを前に幼子のようになるって、どうしたらよいのでしょう?それは、神さまの前で、小さな者なんだと自覚することです。

 主の祈りの中に、「み名があがめられますように」とお祈りの言葉があります。「崇める」という元々の言葉メガニュー(ギリシア語)には、大きくするという意味があります。神さまを大きくするにはどうしたらよいか。自分を小さくすることです。

 威張ったり、自分の力を誇ったりしないことです。

 自分が小さくなる時、神さまの大きさが分かります。又いと小さき者を大切にする愛が与えられていきます。

 

 


中津教会全体写真 2018年度 

2018-06-12 09:27:01 | フォトギャラリー

中津教会全体写真のフォトギャラリーです。

会員限定です。

合い言葉は牧師にお尋ね下さい。

                                 

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花の日合同礼拝

2018-06-11 16:58:43 | 出来事

花の日合同礼拝を守りました。

幼児祝福の記念品です。


マルコによる福音書1:29-39「伝道する教会」

2018-06-08 11:45:49 | フォトギャラリー

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。   

                       マルコによる福音書1:31

 イエス様ご一行はカファルナウムに到着しました。この場所で主は大いなる業をなされました。安息日の日に会堂の中でも外でも、又住居でも主は病気の方をなおしてあげました。それは、主の救いは私たちの日常に及ぶことを示しているのであります。

一同は会堂を出まして、ペトロとアンデレの家に行きました。この家で起こったことはマルコ伝によりますと、ペトロからこの伝承が生まれたものを採用していると思います。

 というのも、この箇所におきましては、主イエスの奇跡に重点が置かれているのではなく、主の弟子の家族への配慮が中心になって描かれているからであります。

 主の家庭訪問の目的は何であったのでしょうか。主イエスの最初の弟子、ペトロとアンデレの兄弟はガリラヤ湖の北にあるカファルナウムの人であります。

 両親はすでになくなっており、家にはペトロの妻とその母、すなわち姑がいました。

 恐らく娘以外には子はなく、ペトロが引き取って世話をしていたのでしょう。そのペトロが主の弟子になりましたので、家はとても寂しくなったように思いました。

しかし、主はペトロの家族への配慮も忘れていないということをこの物語は現しているようであります。

  主の救いは主に従う人々の家族にも及ぶのでしょう。

1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

 何故、人々は彼女のことをイエス様に知らせねばならなかったのでしょうか。絹川久子先生は女性の視点から、ここをこのように解釈しています。お客が来たら、もてなすのは女性であるという固定的な考え方がありました。お料理やお茶などの接待の準備でしょう。しかし、それが出来る女性が熱を出して寝ていたので、充分な接待をイエス様に対して出来ないという弟子たちのいい訳でありました。

  「熱は万病のもと」でありますが、誰でも熱は出ます。風邪からくる熱でしょうか、それともマラリアのように重篤だったのでしょうか。

 軽症にせよ重症にせよ、心は重篤であったのでしょう。

 1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

 主は苦しんでいる人々の立場に立って、その手を取られたのであります。手をとることは介護をあらわしています。イエスは従う者立ちの背負う重荷を、人が自分で解決するよりもさらに深い配慮をもって解決されるのであります。

 起こされるという言葉はイエスのよみがえり(16:6)をも表現する言葉であります。死からの甦りを現す言葉です。

   もはや誰も立てなくなったと思うような人々を主の介護は再び起こすのであります。

そういう憐れみと力をお持ちになっておられます。

  彼女はこの主の憐れみを経験しました。その後、「彼女は一同をもてなした」と書かれています。  この「もてなした」と言う言葉はディアコネオーという未完了過去の動詞であります。すなわちもてなし続けた、仕え続けたということですね。

 夕方になると戸口に重荷を負った人が沢山来ましたので、この姑はこのような人々にも主と共に仕えて行かれたのであります。すなわち、姑は女弟子となったのでしょう。

そして、娘のペトロの嫁も主の弟子となったのであります。

 男性にディアコネオーが使われますと「仕えた」と訳します。しかし、女性にこの言葉が使われますと「もてなす」と訳されます。

  翻訳の段階で父権的なものが影響しているようです。マルコの主張では、弟子はイエスに従い、仕えるものであります。「もてなす」という言葉はギリシア語でディアコノス。それは荒れ野での誘惑の後天使たちがイエスに「仕えていた」と言われるのと同じ言葉です。だから、この癒やしは単純な癒やしではなく、イエスさまと一緒に伝道する女性が生まれたということです。病気の人のベッドの脇に伝道する教会が始まりました。ペトロのしゅうとめはもしかしたらイエスと歩んでいた婦人たちの一人だったかもしれない。

 「 マルコ15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた」によるとこの二つを満たしたのは女性でありました。

 病は「病む」と言いますが、これは雨が止むとか、事が止まってしまってしまうことを意味する「止む」に通じる言葉と言われています。

  「気にやむ」という言葉もあります。体は元気でも、心配や悩みの中にうずくまって、やはり生活が止まってしまう病なのです。そして、そのような生活のところに主が来てくださり、手をとって起こしてくださる。これが癒しということです。

  「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」

主イエスの権威は、病気や不正、またその他の困窮に打ちひしがれた人達を立ち上がらせたところに現れました。つまはじきにされ、疎んじられている人達を、堂々とご自身の交わりに招き入れられました。イエスはまた価値なきもの、取るに足りないと見なされた人達をご自身の権威を用い、奉仕につくものとされたのです。

 イエス様は仕える方でありました。それが神の姿であります。私たちもイエス様と出会うことによって、神の似姿を回復していくのです。主イエスによって愛する能力 仕える能力が与えられて、地の塩、世の光である存在に気づいていくことが真の奇跡であります。

 イエスが死んだ少女を蘇らせるとき,イエスは「子供の手を取って」います。姑を癒やすのも似ています。死者の蘇りという大きな奇跡と,発熱が治るという小さな奇跡が対照的ですが、根っこのところでつながっていると言えるのではないでしょうか。

 小さな悩みでも積もれば、体や心に異変をもたらします。イエスさまは、そう言う小さな出来事にも関わって下さっておられます。大きな奇跡が地上に出た小石とすれば、大きな奇跡はそれがつながっている地下の大きな岩です。「地表に現れた小石は、大きな巨石なり」。

 大きなことだけでなく、私達の日常の悩み・苦しみにイエスさまは関わってくださり、私達を起こして下さいます。

  起こされたところから伝道する教会が生まれます。