日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

月主題0-2歳児「たのしいね」  3-5歳児「やってみる」

2014-06-28 12:34:32 | キリスト教保育
月主題聖句
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」
              マルコによる福音書 10:14


季節は春から夏へ。畑で育てる夏野菜も大きく育っています。
グレース保育園のお友だちも、キラキラ輝く季節の中で素敵な体験をし
心も体もぐんぐん育っていくことを願っています。
皆さんは夏が大好きですか。自分の子ども時代を追体験する素敵な季節
ですよ。
上記に掲げたイエス様のお言葉は、イエス様の子どもへの基本姿勢がしめ
されており、子どもの主体性を大切にしています。
幼児期は特に、子どもの主体性が大事にされ、好きな遊びを楽しむ体験が
必要です。
「幼児期の子どもにとって、50の文字を覚えるよりも、100のなんだ
ろう?を育てたい」と思いますが、それって、どういう意味?
この夏の宿題として、楽しく考えて下さい。
文字が書けるかどどうかでななく、文字で表現したくなるような内面の育
ちや、それが体験に裏付けられるということが大切です。
子ども達のかけがえのない自分づくりの足場となる大切なものが、夏の
季節にあります。大人になった皆様も海・山・川で、ご両親と体験したこ
とは心の糧となっていると思います。
露出した脳が皮膚だと言われています。野外で体感したり、体を触れあう
遊びこそが、脳を刺激し、心を育み、コミュニケーション力を育みます。
きっと、ワクワクが、キラキラの心の輝きにつながっていきます。
そして、きっとそれが学習の土台となります。
グレース保育園の夏はプール遊び 川遊び キャンプといろいろなワクワ
ク体験が待っていますよ。
みなさんも、親子で楽しい夏を楽しんでください。


教会の送迎サービス

2014-06-18 16:51:43 | 出来事



貴タクシー会社に協力して頂き、御高齢の方々の送迎サービスが始まりました。
利用者負担は低く設定し、足りない分を教会が補助します。
ここの地域はバスの便も少なく、車社会です。
より確実で安全なサービスを考えた結果、このような形になりました。

ローマの信徒への手紙8:12-17「神の子とする霊」

2014-06-18 16:46:32 | 説教
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
           ロ-マの信徒への手紙 8:15
新たに生まれること。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。私たちは皆、一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれました。
 信仰による二度目の誕生において、神の家族の中に私が生まれます。
神の子供として、神の家族として、イエス様が教えられたように「天にまします我らの父よ」と祈りながら生きていきます。神を「天の父」と呼びながら生きていきます。それが信仰生活です。
 ローマの信徒への手紙では次のように表現されていました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。
「アッバ」というのは、小さい子が「パパ」「お父ちゃん」って言うのと同じです。お父さんへの呼びかけです。
そのように天の父を呼ぶことができるのは、「神の子とする霊を受けた」からだと言うのです。「神の子とする」と訳されていますが、これは本来「養子にする」と訳されるべき言葉です。
 
このアバ父の「アバ」という言葉は、ご存じだと思いますが、アラム語で赤ん坊が父を呼ぶ言葉であります。
まだまだ、小さくて、お父さん・お母さんを呼ぶ術をもたない赤ちゃんが、パパ ママと呼んで両親を呼ぶ時、親はとてもうれしく思い。その時を待ちに待っていると言えるのではないでしょうか。
一度言った言葉はもとに戻せません。
 聖書は、だから語るには遅いようにしなさい、と教えます。
 キリストは、口から出るものが人を汚すのです、と言われました。確かに口から出る言葉は周りに影響しますが、実は最も影響を与えてしまうのは自分自身なのです。であるならば、悪い言葉ではなく、良い言葉を出したいのです。
 自分の口から出る言葉は自分を貧しくもしますし、豊かにもするのです。アバ父よと口に出せる時、それが聖霊の働きによるならば、それは、最も人を育てる言葉です。
 又天の父は、子とされた私たちが、天の神を「アッパ 父よ」と呼ぶことをお喜びになられます。それは、幼子に接する親のようです。
 幼子が聖霊の働きにおいて、自然に父なる神に対して、アッパと呼びかけられるようになることを願っています。その言葉が真 心から出るためには、心が聖霊によって清められていく必要があります。
4節では、その神の霊によって導かれる者こそが、神の子であるとも言うのであります。神の子とは、すなわち、アバ父と呼ばせてくださる神の霊に導かれ、神の懐に飛び込んでゆだねることを知って、おそれから解放される人々。それが神の子であります。
すべりだいの上で幼な子が滑り降りるのを怖がっているときに、滑り台の下で手を広げて待っている父親を見て、すべてを委ねて、恐れをのりこえて、信頼して滑り降りていく幼子の姿を見ます。
そのような姿に、恐れを乗り越えて、自由になっている姿。
信徒の友の日毎の糧に「袋小路」という言葉にふれていました。英語ではdead end
と言います。死は人間の力では越えられない限界です。
 人間には決して突破することの出来ない、その死を主イエスは復活によって突破されました。死を乗り越えられた主イエスは、恐れることはないと、滑り台に下で両手を広げて待って下さっています。
 神の子としての真の自由の世界へと招かれています。
 クリスチャンになるということは、大きな恵みの中にあるのです。それは、イスラエルの民が経験した出エジプトを越えた体験が与えられているのです。
 奴隷であり、死と恐れに捕らえられた民が、神の家族とされ、永遠の命を与えらえているということです。

ペンテコステ愛餐会

2014-06-10 17:07:40 | 出来事

ペンテコステ愛餐会のメニューは、焼きたてのピザです。


おいしく食べました。



肉の糧を頂いた後は堤先生から霊の糧を頂きました。
キリストの手紙として生きると題して 素晴らしい講演をして頂きました。



牧師のギターの伴奏で、ペンテコステの讃美歌を歌いました。

使徒言行録2:1-12 聖霊の賜物

2014-06-10 16:53:45 | 説教
ペンテコステの礼拝を本日はお守りします。 ペンテコステとは「50」を意味するギリシャ語から来ています。イエスの復活から数えて、50日目に見えない神の力がイエスの弟子達に注がれた日であります。
 過ぎこしの祭りから数えて50日目に渡る、ペンテコステに日に多くの国から外国人がやってきて、モーセが十戒を与えられたことを記念したり、小麦の刈り入れをお祝いしてました。
 ペンテコステの日、主イエスに従った一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてきました。聖霊が弟子達に注がれたのであります。聖霊とは、神の見えない力であります。聖霊という言葉は原語では神の息 風という二つの意味があります。
 聖書では神からくる風はノアの洪水を終わらせ、海を二つに分け、イスラエルにそこを渡らせました。又 荒れ野ではその風はうずらを運んで、イスラエルの飢えをいやしました。夢を解いたりする知恵、預言する力、ライオンを引き裂く力などが、その風を受けると与えられました。 神の見えない力である風は、自然や人間を作り変える息吹、人間に様々な能力を与える力である。又神がその計画を推し進めていく力であります。
 この聖霊はどのようにして受け止められたのでしょうか。2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
このペンテコステの出来事を見ると、一同が座っていたと書かれています。なぜ一同が座っていたのでしょうか。お茶を飲んで懇談会をしていたのではありません。お祈りを死合っていたとも考えられます。主がゲッセマネでお祈りをされています時には居眠りをし、主が十字架におかかりになるときは、逃げていった弟子達であります。母マリアはこういう弟子達とどうして一緒に座っていられたのでしょうか。
 彼らは充分に自分の弱さ、貧しさを知っていたのであります。だから互いにに肩を寄せ合い祈りあっていたのでしょう。そして、「エルサレムを離れないで待て」という主のみ言葉に聞き従い、その言葉に望みを置きました。
 彼らは自分の弱さや貧しさを認識しつつも、だからこそ、お互いの違い認めあえたのであると思います。傷つき失意に生きる人が一つになる時、他者の賜物に気づくということが起こると思います。お互いの弱さを補い合うために、お互いのそれぞれにしかない力で助け合うのです。
 そのようなところに神の見えない力が注がれて、彼らは大きな働きをするようになりました。
 聖霊には、神の息という意味があります。「息」という漢字が用いられている言葉に、「利息」という言葉があります。息には、「呼吸する」という意味があります。呼吸することは生きていくことです。生きていくことには、子孫を残すことだという考え方が昔の人にはありました。
霊性を高めるのは、個人の救いということだけに集中しているのではありません。それが共同体を生み出して、いろいろなものを生みだしていきました。
 神の息によって生まれた教会ですが、違う賜物によって、活動がなされ、様々な施設も生み出されていきました。

「休息」「安息」という言葉にも、「息」という漢字が使われています。「休息」は、「静かに呼吸する」ところからきています。
 神の息に生かされるということは、この両面があるように思います。仕事を休み、礼拝に集うことが、安息ということです。
主イエスの弟子たちは、まさにこうした聖霊に導かれて使徒とされ、広く世界への宣教へと押しだされていきました。彼らとその宣教によって主イエス・キリストの福音にこころを動かされ、生き方を変えられた人々とが教会の形成していったのです。

聖霊の風・神の息が吹き込まれて、世界は再創造されていき、やがて神の国がこの世界に実現さ れ、神の統治による平和が実現されることになることを教会は信じています。
旧約聖書に、神の霊は風のように吹くとあります。風は目には見えませんが、風とは空気が動くことです。初代の教会の指導者たち中に聖霊が生き生きと活動していたように周りに人々には見えていたかもしれません。 空気は動くと風になりますが、見えない神さまは動くと人の魂に働きかけます。
 
 そして人は、内面から動かされることが大切なことです