だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるとき まで、主の死を告げ知らせるのです。
コリントの信徒への手紙一11:26
コリント教会には、問題がありました。それは、裕福な人々が貧しい人々を軽んじるということでした。同じ教会の兄弟姉妹でありながら、愛の配慮に欠けたところがあったのです。
初代の教会は、よく食事を共にしましたが、当時は貧しい人々が多くいました。信仰のゆえに、迫害を受け、貧しくなった人々もいました。そのような人々と食べ物を分けあい、彼らを励ますためのものでした。それは、たんに空腹を満たすとか、教会の活動に備えるというためのものではなく、もっと信仰的、福祉的なものでした。
ところが、コリントでは、裕福な人が自分のご馳走を持ってきて、我先にと食べるばかりで、貧しい人がそれを指をくわえて見ているだけということがあったのです。
パウロは「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)と言っています。
コリント教会は、家の教会でありました。キリスト者各自が食べ物を持ち寄って、ある家で愛餐をしました。そして愛餐の食事の席で主の晩餐が行われました。
コリント教会はある家にキリスト者たちが集まり、そこで愛餐の食事をし、その時に聖餐式を行っていたのです。 複数の人が集まるので、ある程度の広さが求められます。
それゆえにお金持ちの家が会場でした。
お金持ちは、人を雇う立場でありましたので、時間も自由に使えましたし、余裕がありました。
ですから金持ちは、早くからある家に集まり、たくさん食料やワインを持ち込み、飲み食いをしました。奴隷たちは夜にその家の集まりに来ました。彼らは、持ち込める自分たちの食料もワインもなかったので、愛餐の食事のときは空腹で過ごしました。
パウロは、コリント教会の金持ちのキリスト者たちを叱っています。彼らがコリント教会の仲間割れの原因になっていたからです。
そこで、聖餐式の意味について、大切なことをパウロは伝えています。
パウロは、ローマの信徒への手紙14章17節で「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と述べています。
主の食卓は義と平和と喜びであるはずなのに、「争いや差別があるとはなんということか」とパウロは嘆いています。
そこでパウロは主の晩餐の場面を23節から引用しています。
「主の晩餐」が、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むことであるならば、その「主の晩餐」にあずかるお互いは、とてつもなく太い絆で結び合わされることになります。キリストの命という絆で結び合わされることになるのです。その絆はあまりにも太いので、人間同士を引き裂くいかなる隔ての壁をも突き破って結びつけてしまうものなのです。
キリストが体を引き裂き、血を流し、その肉と血を食べさせて、結び合わせてくださったのですから。
それゆえに実際、教会において、奴隷と主人が一緒に食事をするというような奇跡が起こったのです。ユダヤ人と異邦人が食事を共にするという、到底起こり得ないようなことが起こったのです。
「主の晩餐」とは、イエス様の裂かれたからだをあらわす「パン」、それにイエス様の流された血をあらわす「杯」をいただくことです。
聖餐式は、イエスを覚え、その死を告げ知らせるために制定されたものであります。イエスを覚えるとは、そのいのちの恵みをいただき、その血によって私たちの罪が洗い流されていることを喜び感謝するとき、それを心に刻んで新しい歩みを始めるスタートであります。それは何のために定められたのでしょうか。
聖餐式は、イエスを覚え、その死を告げ知らせるために制定されたものであります。イエスを覚えるとは、そのいのちの恵みをいただき、その血によって私たちの罪が洗い流されていることを喜び感謝するとき、それを心に刻んで新しい歩みを始めるスタートであります。
聖餐式は主の死を記念するために定められたものです。主の死を記念するとはどういうことでしょうか。それは主を十字架につけた敵対者へのうらみを忘れないようにするためんではありません。恐れおののくことでもありません。
死というのは、愛する者との地上での別れをもたらしていきます。そういう意味では人と人とを引き離す力があります。しかし、遠い遺族や故人との関係者をその場に集める力があります。記念・追悼していくために、人々は一つの場所に集められていくのです。何か大きな力にとらえられているかのように。
慈愛に満ちた神の子の死は、そのことを記念するために集まった人々、その関係性に変化をもたらしていきます。
イエスさまの死が記念されることにより、集められた人々に救いがもたらされ、その関係性に和解がもたらされ、永遠性に結びつけられていくのです。
主によってもたらされた絆は、永遠につながっていくのです
地上での別れを経験していても、神の国の食卓で再会できるのです。