日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

申命記26:1-11 収穫の喜び

2015-11-25 12:10:18 | 説教
あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人
およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。
申命記26: 11
 
 約束の地カナンに入った時に、救いの恵みをいい表し、産物の初物を捧げるようにと命じられています。
 神様への感謝を教えています。約束の地カナンに入った時、初めての収穫物を刈り入れるのです。それまでは、イスラエルの民は、天から降る神のマナによって養われてきました。しかし、マナは降り止み、彼らは自分たちで種を蒔いて、育てた麦・野菜・果物で生きていくようになります。
 しかし、そのことによって神が、養い、お導きくださっていることを忘れ、自分たちの力で生きていくと、勘違いしてしまう危険がありました。神が私たちをお導きくださっていることを覚え、感謝を捧げていくことが大切ですね。
 太陽や土や雨は神様が下さったものですから、今日はいろいろな食べ物を並べて礼拝を守りました。そして、育てて下さる神様に、「ありがとうございます」と感謝を表しましょう。
今日は収穫感謝の礼拝をささげています。しかしこの収穫感謝も、ただ、野菜や果物をちょこっと持ってきて、「神様感謝です」と言うだけで良いのでしょうか。申命記16章によると、収穫を感謝する時は子も奴隷も、町にいるレビ人も、寄留者、孤児、寡婦も、一緒に喜び祝うことが大切でした。

野菜や果物を畑で育てるのは人間ですが、人はそれらの命をつくることは出来ません。又雨を降らすことも土をつくることも出来ません。
 大根の種はとても小さな種です。その種を蒔いても四六時中、見ていることは出来ません。私達が忘れている間も大根は育っています。ある方が世話をしているのですよ。大地の胎に種を抱き、愛を持って育み育てたのは神様であられます。
同じ土と太陽の下に味も形も大きさも違うリンゴと梨の木がどうして生まれ育つのでしょうか。不思議ですね。
 野菜や果物はスーパーで買うことが出来ますが、その命をつくり、人間が見ていない間も愛し育てて下さったのは神様です。
 だから食べ物は大切にしましょうね。また、独り占めしないで分かちあっていくことが大切です。
 神様が下さった恵を今の人と又後世の人と分かち合っていくことが大切です。」
自然を傷つけることは結局自分を傷つけることです。

金芝河(キム・ジハ)という韓国の詩人がいます。彼が書いた戯曲(の構想)の中に「飯が天です」という詩が出てきます。

飯が天です/天を独りでは支えられぬように/飯はたがいに分かち合って食べるもの/飯が天です/天の星をともに見るように/飯はみんなで一緒に食べるもの/飯が天です/飯が口に入るとき/天を体に迎えます/飯が天です/ああ 飯は/みんながたがいに分かち食べるもの

自然を傷つけることは自分を傷つけることです。神様から預かった自然を大切にし、未来の人たちとも恵を分かち合いましょう。

創世記12:1-9「神の民の選び」

2015-11-25 11:49:38 | 説教
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。
                          創世記12:1
 創世記12:1-4「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。
・アブラムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しました。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町です。文明が栄えたところです。そこでは偶像が礼拝されていました。
神はアブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住し、テラはそこで死にます。
そして今日の箇所に移ります。神はアブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがあった。
―創世記12:4「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」。
「行きなさい」というヘブライ語はレフレハー。「レフ」は「行きなさい」という意味で、「レハ―」は「自分自身に」という意味です。ですから、直訳しますと「自分自身に向って行きなさい」という強い命令を表わす言葉だとも言われています。
創世記12:5-7「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」。
 アブラハムは約束の地に到着します。「あなたの子孫にこの土地を与える」との約束を受けます。75歳で、妻との間には一人も子どもがいなかったのですが、その約束を信じました。又そこには先住民族が住んでいたが、アブラハムはこの約束を信じ、祭壇を築いて主を拝みました。
 最初の祭壇が、シケムの聖所があった場所で、そこのモレには大きな樫の木がありました。そしてそこには、原住民であったカナン人が住んでいました。異教の礼拝所があり、異邦の民が住んでいて、とても自分たちが住めるような場所ではなかったのです。にもかかわらず、神様は「この地を与える。」と言われました。そしてそこに現れて下さった主のために祭壇を築きました。これは、神様のみ言葉に対して、応答して祈ったと言うことです。
このようにアブラハムは旅の節目、節目で祭壇を築きます。礼拝と献身の生活を重んじました。このように、アブラムは祭壇を築きながら前進していきます。
まさしくその態度は、神の愛・祝福に対する肯定でありました。又彼は礼拝によって、現状を正しく把握して、解決の道を見いだし、自分の力では出来ないような信仰の決断もなせました。古き自分に死に、新しく生かされていきました。そして、この礼拝を通して、信仰共同体が育っていきました。創世記1-11章はアダムとエバの堕罪に始まる罪の物語でした。を罪は加速して、その頂点がバベルの塔です。自分を神にまで、人々は高めようとしました。しかし、バベルの塔は崩れ、人類は地上に散らされてしまったのでした。しかしそれが結末ではありませんでした。神の救済の物語が今日のアブラハムの箇所から始まっています。
3節のところ「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります
「地上の氏族はすべて」の「地上」で使われているヘブライ語は、土という意味のアダマーが使われています。
 アダムとエバに対して神が発せられた言葉があります。
創世記3:17神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 それは土、アダマーに対しての呪いであった。その土から出るすべての人びとがアブラムによって祝福されるということです。
祝福とは何を意味するのでしょうか。神様は祝福を広げる大きな使命のためにアブラハムを選ばれました。キリスト信者の皆様はアブラハムの子孫と言われています。何か選ばれる理由があったからではなく、神様の一方的な選びです。
同じような体験をしてもクリスチャンにならない人もいます。今、信者として生きていることは神の選びがあったからです。
 神の民として、祝福を諸国民に広めていくように選ばれたのです。アブラムという一人の人物から星の数ほどの神の民が起こされたように。皆様も大きく用いられることでしょう。 
 祝福とは、愛のないところに愛を 希望のないところに希望を生み出す力です。

出エジプト記2:1-10 「救いの約束」

2015-11-25 11:39:52 | 説教
もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
    出エジプト 2:3

 今日の聖書箇所はモーセの生い立ちが書かれています。
出エジプト記に登場するイスラエルの民は、かつて自分たちが住んでいた土地が飢饉になったため、エジプトの国に飢饉難民として移住してきました。
 当初は保護を受け守られていたのが、この出エジプト記の時代になると王朝が変わり、奴隷の立場に落とされています。過酷な労働を強いられただけでなく、エジプトの王は、イスラエル人たちを弱体化させようと、男の子が生まれたらその出産の場面で殺戮の命令。生まれた男の子は1人残らずナイル川に放り込めだの、残虐な命令を下します。
男の子を守ったのは3人の女性たちでした。いくつかの危機をくぐり抜け、赤ん坊の命は守られ成長していきます。
パピルスで編んだ籠をしっかり防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。
王の命令は、「ナイル川に放り込んでしまえ」でした。母親も王の命令に従い、我が子をナイル川に入れたよういふるまいました。ただし、優しくそっと、命が長らえるようにと祈りを込めて。誰かが、この子を見つけ出し、守り育ててくれることを願って。
お姉さんは、弟が心配でじっと後を見守っていました。
ファラオの王女は水浴びをしようと川に下りてきたのです。そして、籠を見つけてしまいました。恐ろしい事態かと思ましたが。事柄は良い方向に進展していきます。
お姉さんは、弟を助けるために何もすることができず、ただ固唾を呑んで事の成り行きを見ていました。
 王女は籠を陸に上げ、中をのぞき込みます。不安の中で男の子は泣いています。
 その不安とは裏腹にファラオの娘、いい人でした。王女も王の冷酷な命令に逆らう人でした。王がナイル川に放り込んで死に至らしめようとしているヘブライ人の男の子と知りつつも、
その泣きじゃくる赤ん坊を憐れみ、不憫に思い、何とかしようと考えます。
男の子のお姉さんは、王女の弟への対応に心躍らせ、素敵な提案をします。王女を警護する侍女たちの間を抜けて、王女のところへ直訴したのです。
男の子の生みの母親を乳母として用いる道を提案します。
こうして、小さな命を守る女性達の業が大きく用いられるのです。
王女は、この男の子に「モーセ」という名を付けました。それは「水の中から引き上げる」(=マーシャー)という言葉から来ています。 「マーシャー」とは、ナイルの川の中から幼子を引き上げるということだけではなく、やがて、モーセを先頭にして紅海を渡ってゆくイスラエルの民のことも預言した言葉です。すなわち、あの紅海の水の中をモーセを先頭にしてイスラエルの民が、くぐって引き上げられるという救いの出来事へとつながってゆくのです。
このモーセという名前の意味は、やがてイスラエルの民を水の中から引き上げて約束の地を目指すものとなってゆきます。
葦のかごの籠は、モーセの箱舟の箱舟と同じ言葉が使われています。アスファルトとピッチは、あの大洪水の時に、ノアが箱舟を造った時に、防水に使ったものです。水が箱舟の中にしみ込んでくるのを防ぎます。つまり、このアスファルトやピッチは、水の底に沈んでしまう私たちを死から守るものなのです。赤ん坊の命を、エジプトの兵士たちが血眼になって探していました。その死から守るもの、それがこのパピルスの籠だったのです。洪水の中から救われたノア、紅海の水がわれて、イスラエルの民が救われる出来事、クリスマスの幼児虐殺他、
厳しい現実にあるものを引き上げて下さる、神の大きなみ業をあらわしているようです。
繰り返される救済の奇跡を表しているようにも思います。歴史の片隅の小さな出来事のようですが大きな出来事を示すと共に、大きな解放の出来事に通じているのです。
赤ちゃんだったモーセを、その父母が「葦のかご」に入れました。
彼らがあんだそのかごの中に、神様の救いの大きな計画が入れられました。
 ちっぽけなそのかごは、幼児虐殺の厳しい世界の中での祈りであり、礼拝であり、
神様は、その“かご”に愛をこめ、共に歩まれ、そのかごを用いて、出エジプトという大きな救いの業を起こされました。
ノアの“方舟”のような救いの出来事を起こすかごです。
 モーセの名の由来でもある“引き上げた(マーシャー)”の語も、詩編18編17節の“引き上げて”と同一であり、救い出すと同じ意味があります。神は厳しい現実に生きるものを見捨てられる方ではなく、救い出される神なのです。
モーセを助けたのは、エジプトの王女でした。敵国と思える人さえも救いに関与しています。
神の働きが広い視野で理解されていることは、出エジプト記が編纂された当時のイスラエルが、新バビロニア帝国という異邦人のただ中にいました。神はどんなに離れた国でも、救いの業をなされたもうのです。
 私達はみなで協力して、かごをあんだり、かごになることを願って歩んでいます。その籠が諸国民の救いのために用いられるということです。
 平和を乱す権力者から自由にされ、平和を実現する神様の業のために、私達の器が用いられていきます。
粗末な籠に入れられた幼子モーセは、馬小屋の飼い葉桶に入れられた幼子イエスを遠く指し示しているようにも思えます
私達の器にイエス様が来たりたもう時に、神様は大きな計画を器に入れて、実現して下さいます。
時代がどれほど困難に思える時にあっても、ここに登場する女性たちのように、あくまでしたたかに小さな命を育み、イエス様と共に歩む共同体でありたいと思います。そして、神の不思議な導きに与る喜びを知る者となりたいと思います。

ヨハネによる福音書14:1-6  父のみもとへ

2015-11-04 12:42:27 | 説教
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
ヨハネによる福音書14:2



 本日は、永眠者記念礼拝を守ります。天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にグレゴリウス3世という教皇が、この日を定めました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。
 天に召された人々を偲び、やがて私たち自身も召されていく天に思いを馳せます。
 死後について、どのようになるのか、二つの考え方があります。
 地上の務めを終えて、死後は眠りにつくという考え方です。ただ、永遠に眠っているということではなく、キリストが再び来られる時に審判が行われ、現世での行いによって裁かれ、新しい世界に入れるかどうかが決まるのです。
 もう一つの考え方は、死んですぐに、神の世界に迎え入れられるということです。ルカによる福音書16章に〈金持ちとラザロ〉という話がありますが、金持ちの家の前で、病を抱え、物乞いをしていた貧しいラザロが死んだとき、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(16章22節)と聖書にあります。
 本日の箇所も人は死んだらすぐに、神の世界、天国に迎え入れられるという信仰を表しています。
1節~2節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と主イエスは言われます。
最初の「父の家には住む所がたくさん」という所は印象的な言葉です。「住むところ」は英語でマンションという言葉が使われています。横浜でマンションが傾いて問題となりましたが、英語で「マンション」と言う時は豪華で宏荘な大邸宅のことを表す言葉です。広大な邸宅……部屋数が幾つあるか分からぬようなものです。
 モネというギリシャ語が使われていて、腰をつけて、長く住むことの出来る快適なところであります。
「場所」というのは、空間的なところでくくられるところではありません。関係性を表しているのです。
家があっても家にいられないことがある。職場があっても、学校があっても、そこに行きたくないことがあります。居場所が与えられると言うことは、ゆるしと受容と信頼と愛に包まれているところであり、それがないところでは、どんな大邸宅に住んでいても、幸せにはなれません。
豊かな関係の中で、私達は生かされていると言えます。信仰の諸先輩方はイエス様に愛され、守られ、ゆるされ、新たにされて生きてきました。その関係性はいつまでも、永遠に続いていくのです。
主イエスを信じて歩む者は、もう既に天の国に「住むところ」「場所」を予約していることになります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(6節)と主は言われました。
道がなければ歩く事も出来ませんし、真理がなければ知ることも出来ませんし。命がなければ生きることも出来ません。
山には、いくつかの登山道があり、どの道も山頂に続いています。しかし父のみもとへ行く道は、一つしかありません。
国道10号線に乗れば、大分市に必ず続いているように、その道に乗れば必ず目的地にたどり着くことが出来ます。
 私達ではたどり着けない道をイエス様が切り開いて下さり、イエス様ご自身が道となって下さいました。「生ける神のもとへ通じる道がこの私。別の言い方をすれば、神の真実を代表するのがこの私。死んだ者を生かす神の命がこの私」と言われるイエス様にしっかりと結びついていくことが大切です。神は決して山の頂上にどっかりと腰を下ろして、何もなさらないというのではありません。さあ、自分の力で登って来なさいと言われるのでもなく、まして、登れるものなら登ってみなさいと言われるのでもありません。
 そうではなくて、私たちが登ることができるように、ご自分のもとに来ることができるように、その道を開いてくださり、その道を示して下さいました。
 道という漢字には意味があるようです。シンニュウの上に「首」が載っているのは、頭を目標に向けて進むさまです。
 先に召された兄弟・姉妹は、しっかりとイエス様が用意して下さった天の居場所を目指して歩んでいかれました。その歩みは御国のしるし・み国を指し示す指です。その指はイエス様に私達の心を向けさせていくのです。
今日記念している永眠者の方々は、私たちが死ぬ時、み国にて私たちを永遠の住まいに迎え、案内してくださる方々なのです。ルカによる福音書 16:9に「あなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれる友」とあります。
この「友」というのは必ずしも文字通りの「友人」でなければならないということはありません。親友のような信頼関係で結ばれた親子、兄弟、夫婦、そういう繋がりのすべてを言います。今日記念している永眠者はみんなそうです。
 みな、道という漢字のように同じところを目指して、同じ道を歩むのなら、天国で再会することが出来ます。
 父のみもとへ行ったイエス様はちゃんとその再会の場所を用意して下さっています。
 天国は、住宅難にも悩む場所でもなく、多く集まれば集まるほど余裕も出来て、みんなが幸せになれる場所です。
 天上の世界を楽しみとして、しっかりと地上を目標を目指していきたいと願っています。