日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マタイによる福音書28:16-20キリストの昇天

2015-05-23 16:56:05 | 説教
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
      マタイによる福音書20:28


  復活の主イエスはこう言われます。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」18節 口語訳聖書では「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
と訳されています。
口語訳から共同訳に変わった時に権威と言う訳が権能という言葉に変わっています。世の人に権威という言葉にアレルギーを持っている人が多いいからでしょうか。 
 主が、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)と言われました。これは高ぶりではありません。主イエスは、決して偉ぶらない方でした。
 「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20章25-27節)と言われた通りです。
 しかし、自らを低くする者は、実は、力づくで他人を支配しようとする人よりも強いのです。謙虚な人だけが、人の心を真に深く動かす力を持っています。これは、逆説的な真理です。
キリストの昇天については触れられていないようですが、主が天に昇られることは、私達と共にいて下さるためです。
 時と場所を越えて主が共にいてくださるのが、キリストの昇天の意味とマタイはとらえあえて距離を強調しませんでした。まさしく20節の強調です。
 離れていかれたのではなく、「共に」いるイエス様が私達の共同体に働きかけて、その権威によって、仕え合う謙虚な共同体として下さるのです。
 
子どもの好きなとなりのトトロというアニメがあります。なぜ「となり」とつけられたのか。前にいるトトロであれば、すぐに存在が確かめられます。後ろだと、いても、ずっと気づかずに過ごすかもしれません。
 隣というのは、その時の意識しだいで見えたり見えなかったりする場所です。又気づくまでに時間がかかるかもしれませんが、後になって存在がわかる場所でもあります。
イエス様も確かにおられます。心の目が開かれて、私達も気づかされます。天におられるイエス様が、天からとりなしの働きをして下さり、私達のそばにいて下さいます。
 主イエスが共にいて下さることを、弟子達はこれからどのように確かめられのでしょうか。二つのことが勧められています。
 伝道することです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」というのは、差別を超えた主イエスの愛がすべての人の胸にしみ入り、溢れるようにしなさい、という意味です。受洗志願者が与えられ、主との出会いを、本人が語られる時に、主が共におられることが分かるのです。
 次に主に命じられたことを守る生活をすることです。「あなたがたに命じておいたこと」とは、「互いに愛し合う」ことであり、「それをすべて守るように教える」とは、共に謙虚に学ぶように、という意味に他なりません。
 二人又は三人が主の名のもとに集まるところに、主が共にいてくださるのです。魅力ある関係や新たな可能性を主が与えて下さると信じています。主が共におられる場所・教会に。

月主題0-2歳児「わくわくする」 「おもしろい」

2015-05-13 12:41:33 | 説教
月主題聖句
 「初めに、神は天地を創造された」 創世記1:1

 風薫る5月を迎えました。春から夏へ、このいのちに満ちた5月、自然体験などをして、いのちあるものが、この天地にあって、精一杯生きようとする尊さを、子どもたちと味わっていきたいと願っております。
 とても柔軟で心の動く時期といわれている幼児期に、自然体験をすることはとても重要です。自然についての知識を得るだけで無く、「きれい」「いいにおい」「いい音」 「おいしいな」など五感を使う体験は、興味、関心豊かな感情 心の安らぎ 思考力 表現力 豊かな感性を育みます。
 神様はこの世にあるも、私達も全て、神様によって創られ、命を与えられました。
神様が創造し、よしとされた自然は、人間の心を育む力があります。
 自然は沢山のことを私たちに教えてくれます。子どもが安心して繰り返し活動に取り組めるように傍らで見守りたいと思います。
 子どもを見守ってきた人は、大きくなったら子どもの心の中に住むようになります。心の中で親・教師・友達と語り合います。その人達の温かい表情があれば、子どもはその人達を悲しませない道を歩みます。しかし、その人達がいつも冷たい無関心の表情をしていたら、語りかけるでしょうか。
 子どもの成長とは単純に何かができるようになっていくことでしょうか。子どもの心の中に、子どもを受け入れ、愛に生きる人が、たくさん住むようになることが、育つということです。
 

ルカによる福音書7:1-10「信仰に報いる主」

2015-05-12 11:04:10 | 説教
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
                                     ルカによる福音書7:7



 本日の聖書箇所において百人隊長が出てきます。百人隊長とは100人の兵隊を指揮する下士官であります。100人と言われていますが、50人から100人の兵隊の隊長であります。パレスチナはローマの属州でありましたから、ローマの兵制がユダヤの国に置かれていました。
この百人隊長で将校ではありませんが、軍隊の中で権威を持っていたのです。しかし、この百人隊長は私たちがイメージする軍人のイメージとはかけ離れています。
○彼は異邦人でありました。まず、他と違うところは部下からも、又支配されているユダヤ人からも支持されていました。みんなから敵国人でありながら愛されていたのです。
7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
 なんとこの百人隊長はユダヤ人のためにも教会を建ててあげたのです。おそらく、異邦人でありながら彼はユダヤ人の会堂に通っていたのでしょう。そして、そこで主イエスのお話を聞いていたと思われます。そして、主イエスの教えにひかれていったのでしょう。
 彼はおそらく多額の献金を会堂建設のために捧げたと予想されます。
 長老達は主イエスに、「あの100人隊長はみ救いに入れられるのに相応しい人です」と推薦をしています。
しかし、主が彼の家に近づいた時、僕をやって、こう伝えています。
7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
 彼の善行や回りの人達を愛する態度が、主のみ前に立つのに相応しい条件になっていないということです。
ユダヤ人達の信仰は、「神の御前に救われる資格がある人が救われる」という信仰です。つまり、人間の側に資格がある人が救われる、という考えです。沢山献金をして教会を建てた立派な人が救われるという考え方が、本日の前半部分にあります。 人間の側の資格を数え上げるわけです。
  百人隊長の信仰は、「神は救われる資格の無い私のような人間を、ただ恵みによって救って下さる」という信仰です。
 信仰義人の考え方です。神が憐れみをもってみ救いに入れて下さるということです。
 そして、主のみ言葉に固く信頼をしていました。
彼は部下を大切にしました。その部下が病気で死にかかっていました。もう兵隊としては役にたたないのです。彼には、その部下の首を切る権威も持っていたのですが。そうしなかったのです。
弱ったら軍の隊員としての資格がありません。でも彼は、資格のない者をも慈しむ主イエスの権威の下にありました。
部下が弱くなった時に、自分の家にひきとったのであります。そして、部下のために主イエスを自分の家に招く手配をしました。
そのような部下がいれば意図的に殺すことも出来ました。彼の命令には逆らえないのです。彼はそのような権力を行使することに抗っていったように思います。そして、主イエスに出会ったのであります。
彼は人を殺す権威を持っていても、命を生み出したり、人を生かすことが出来ないということを身を持って知っていました。ところが、主イエスは違いました。その権威は人を生かす力がありました。
彼はその権威の上ではなく、下に立ったのでありました。彼の周りの人に対する配慮と優しさはそこから来ているのです。
 そして、彼は主イエスの権威としてのみ言葉を求めているのであります。
7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
主のみ言葉に聞き従う時に命が与えられると信じていたのです。それほどまでにみ言葉の力を認めているのです。
主イエスのみ言葉は、命を与える権威ある言葉であります。 私たちを生かし、力づける主のみ言葉の権威を認め、聞き従いましょう。
映画監督というのは、映画を作るということに関しては、自分では何も手を出しません。実際にやるのは色々な俳優さん達で、監督は基本的には言葉を道具として働いています。言葉とコミュニケーションで、作品をつくるのです。
 この世にあって、言葉は大きな力を持っています。主の言葉にはもっと力があり、又主が共に働いて下さいます。
 ひとの言葉と書いて、信じるという漢字になります。人の言葉の影響力は一時的であり、+に働けば良いのですが、時にはマイナスに働くこともあります。
 しかし、主イエスの言葉は2000年後の世まで、影響力を及ぼし続けて、人々に希望や愛を与え続けるのみならず、人々の心や体を癒しておられます。
  詩編107:20 主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。
  人の言葉はその目指す結果を引き起こします。そして、神の言葉はそれ以上の力を持っています。私達も主イエスを目で見ることが出来ずとも、人々を通して主イエスの心の暖かさに打たれるならば、信仰によってキリストの愛と力に出会うことが出来ます。
 百人隊長のようにお金持ちでなくても、彼のみ言葉に信頼する百人隊長の信仰に生きることが出来るでしょう。

マルコによる福音書2:1-12 「開かれた教会」-とりなしの信仰に生きる

2015-05-12 10:59:18 | 説教
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
                                 マルコによる福音書2:4


 イエス様は違う町で宣教された後、再びカファルナウムに戻ってきたといいます。そのうわさを聞いて多くの人がイエス様の元に駆けつけます。戸口のあたりまで隙間もないほどであったといいます。そこに中風で動けない知り合いを四人の男が運んできたといいます。中風と言うのは、足腰の立たない人・麻痺患者という意味があり、半身不随の患者さんを
意味しています。
 大勢の人がいてイエス様に近づくことができなかったので、屋根をはがして穴を開け、とこをイエス様のところまでつりおろしたといいます。間違いなく、この中風の人を癒してもらうためです。
 屋根がメリメリとはがされ、びっくりした群衆、屋根の上から心配そうに眺める4人の人、救いを求める中風の人、光景が脳裏に浮かんできます。とても、劇的な場面です。
4人の奉仕の業を見る時に感じることは、とりなしの信仰・良いことを恥ずかしがらない精神、不屈の精神などを感じることが出来ます。
とりなしと言うのは、自分を愛するように隣人を愛することです。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は癒される! 彼らはそう信じたのです。ワラにもすがるような思いだったかもしれませんが、彼らはただそう信じた。私はその五人のつながりの強さに目を見張るような思いがいたします。
 「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」。非常手段を取った。当時のパレスチナの家は屋根が平らで、瓦も日本の屋根瓦とは違う。木材の梁の上に木の枝などを渡して土を盛って固めただけです。容易に剥がすことが出来た。と言っても屋根を剥がすなどは常識では考えられない。彼らは中風の人を助けるために常識を越えて行動しました。新しい発想でもあります。人の救いにかかわる時、切実な必要のある時、常識を越えることも必要です。
  一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。
私たちは主イエスから自分のように隣人を愛しなさいと命じられています。先の四人が必死になって病人をイエスのもとに連れてきたように、私たちも隣人をイエスのもとにまで連れてきたいと思います。
開かれた教会となるということ、それは、知恵と力を結集して、隣人を主イエスに導くことであります。
 自分自身の非力さを思いますが、しかしその人のために倦むことなくとりなしの祈りを祈り続けるということも大切です。その人を覚えて祈るということはその人を愛するという一つの表現だと思います。真実の愛とはとりなす愛です。愛はその人にとって一番良いものを得させようとするからです。
四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。』
 イエス様は、「その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。イエス様は「彼らの信仰を見た」とありますが、何を見たでしょうか?
 ここで「信仰」と訳されている「ピスティス」という単語は「信頼」という意味があります。イエスが見て心動かされたのは、神への信仰と彼らの信頼関係です。中風で思い悩んでいる人とその人を助けた人の深い絆です。 ということは、中風の人も彼らの中に含まれています。この人が4人を信頼しなければ、このような奇跡は起こりませんでした。4人の支える人を信頼しているからこそ、担がれることを承認したのですから。
 私たちはこの聖書のどの人に該当するかということを考えたことがあるでしょうか。
 床担ぐ立場に立つ場合もありますし、担がれる側に立つこともあります。
その関係が生まれるのは信頼関係があるからです。
 イエス様を信頼して集まった教会は開かれた集いであり、又主にある家族として信頼関係が生まれていくところです。
  現代の社会に「無縁社会」あるいは「孤族」という言葉が響きます。挨拶から人と人とのつながり、信頼関係が生まれると言われています。教会もコミュニテイーを形成しています。しかし、「孤独」「無縁社会」の課題は教会だけでは担えないでしょう。公的機関との連携が求められます。
 しかし、教会の向かうべき方向は、屋根の下のイエス様です。
中風という病気は、「風」に「中(あたる)」と書きます。暖かい部屋から急に寒い表に出たりしますと、脳の血管が切れて脳内出血を起こし、その場で命を落としてしまうこともありますし、治っても体の機能に障害が残ります。その後、何年もリハビリをしたりしなければなりません。本人も家族も本当に大変な病です。
私たちもそうなるかもしれません。共同体を信頼することです。そして、担ぎ手も一人では無理です。他の4人それ以上とつながることです。4人以外にも女性がいたかもしれません。また、地域の人々の祈りもあったかもしれません。福祉施設との連携も大切です。
「信仰」とは、そのような「絆」のことであり、「つながり」のことなのです。神と私との絆、関係を「信仰」と呼んでいるのです。ここで主イエスが「その人たちの信仰を見て」と記されているのは、「その人たちの絆の強さを見て」という意味なのです。
 私たちがかれらと共に担ぐ、又彼らに担がれる。
中風の人には自分が立ち上がれない時、歩けない時に、キリストの元に連れ出してくれるそのような友が与えられていきます。そして実は友の姿を通して、キリストご自身が私たちを背負ってきてくださったのです。
 瓦をはぎ屋根に穴を開け床を吊り降ろしてまで、私たちを大切にし、神さまのみ前に連れ出そうとしてくださっているのです。そのような主との太い絆が私たちの交わりを変え、育てていくのです。