日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

使徒言行録2:1-11「聖霊の賜物」

2018-05-25 12:12:20 | フォトギャラリー

炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 

                             使徒言行録2:3

 ペンテコステの礼拝を本日はお守りします。 ペンテコステとは「50」を意味するギリシャ語から来ています。イエスの復活から数えて、50日目に見えない神の力がイエスの弟子達に注がれた日であります。

 過ぎこしの祭りから数えて50日目に渡る、ペンテコステに日に多くの国から外国人がやってきて、モーセが十戒を与えられたことを記念したり、小麦の刈り入れをお祝いしてました。 

 聖霊降臨祭(ペンテコステ)は復活祭(イースター)、降誕祭(クリスマス)と並んで、キリスト教三大祝祭の一つで、イエスキリストが復活してから50日目にあたりますから、ギリシャ語で「50」という意味の「ペンテコステ」と言われます。この祝祭はキリスト教会の誕生日と言われています。ペンテコステの礼拝を本日はお守りします。 ペンテコステとは「50」を意味するギリシャ語から来ています。イエスの復活から数えて、50日目に見えない神の力がイエスの弟子達に注がれた日であります。

 過ぎこしの祭りから数えて50日目に渡る、ペンテコステに日に多くの国から外国人がやってきて、モーセが十戒を与えられたことを記念したり、小麦の刈り入れをお祝いしてました。 ペンテコステの日、主イエスに従った一同が一つになって集まっていると、聖霊が降ってきました。その時の様子が本日の聖書に記されています。2~4節 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 ここで、大事なことは、様々な言葉の違いを超えて、「話が通じた」ということです。コミュニケーションが回復したのです。11節に「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」と驚いています。

 聖霊は、「炎のような分かれた舌」のように、ひとりひとりの上に留まったとあります。もちろん、これは、象徴的な意味を持っています。聖霊は、炎とか火と関連づけられていますが、

 聖霊が注がれて、弟子達はこころが燃えた。汚れを焼き尽くす火。冷たくなった心を暖かくしてくれる火のようです。

 舌のようにと書いてありました。舌というのは、言葉を語るために神様が備えて下さったものです。この場合の「舌」は言語を発するための器官ではなく、「言葉」そのものを意味します。「炎のような舌」は、「激しい風」同様、「天からもたらされた言葉」、つまり神の言葉です。

 弟子達の内側が聖霊で一杯にされたんだと言います。

 舌はグローッサイというギリシア語。このグローッサイは4節では「言葉」と訳されています。神の言葉に出会った者は、「別の言葉」を話し出したということです。

 キャンプフアィヤーの炎のようです。それは火の粉をあげて燃え上がります。私達に降りてきた神の言葉が燃え上がるのなら、口から出る言葉も火の粉となって隣人に届くことでしょう。そのことによって、聞く人の心に信仰の炎が灯されていくののなら幸いです。

 キリストの愛を力強く語りかける者して用いられたら幸いです。

 人々を愛し、生かし、支え、その人たちに希望を与える愛の炎・愛の言葉が降ってきた日それこそがペンテコステなのです。


ヨハネによる福音書17:1-13「キリストの昇天」

2018-05-12 21:47:05 | 説教

わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

                      ヨハネによる福音書17:10

 

 最後の晩餐の席での主イエスの祈りが書かれています。

 10日の木曜日は、主イエスの昇天を記念する日でした。それから10日目が、ペンテコステです。

 天に昇られる前に、主イエスは残された弟子達のために祈りました。それが、本日の箇所であります。その祈りは、主が天におられる現在も続いていると信じています。

 主イエスの弟子達のみならず、代2世代やそれに続く私達も慰めを受ける言葉です。

 破れの多いい弟子達でありましたが、主は弟子達の良いところを見て下さっています。

彼らは神のものであること、み言葉を守った者であること、主イエスを神の使者と信じた者・神の栄光を現した者であると宣言しています。

「水鳥の水に入りても羽も濡れず、海の魚とて塩もしまばや」という諺があります

 この世のものではなく、神のものであるとは、このように、世の悪に溺れない水鳥やそれに染まらない魚を意味します。

 そのように私達も成りたいと思いますが、そのためには主の多大な援助が必要となります。

 主の栄光という言葉繰り返されております。栄光とはヘブライ語のカーボードという言葉に起源があります。その意味は「重い」という意味があります。

 世の巷に生きる私達は揺れ動く存在でありますが、揺るぎない土台であるイエス様が、天から見守っておられます。

 パウロという伝道者も、伝道活動の中で、迫害・投獄・艱難に遭いましたが、ここに示されているような恵みに信頼していました。

J.S.バッハは音楽を通して神の栄光を現すことを願い、実に多くの聖書に基づく作品を残しました。彼の多くの作品の最後には“SDG(Soli Deo Gloria:ソリ・デオ・グロリア)と記しました。

 重いものよりも軽いものを求める現代社会ですが。本当に重いものは人間を幸せをもたらします。

  聖書の内容は重いです。それは良い意味での重みがあり、内容が深いからです。

  栄光と訳されたギリシャ語の言葉はドクサですが、これはヘブル語のカーボードの意味を受け継いでいます。カーボードはもともと「重さ」を意味する言葉です。父の栄光とは、その偉大さであり、人間に向けられた愛と恵みの重さ(深さ)だと思います。

 「重い」「軽い」という表現は、ものごとの重大さや価値を表す時にも用いられます。父なる神はご自身の愛の重さをキリストの十字架の犠牲の死を通してこの世界に示されました。

 キリストは私たちを通してご自身の栄光を現したいとキリストは私たちを通してご自身の栄光を現したいと願っておられるのです。

 キリストは私たちを通してご自身の栄光を現したいと願っておられるのです。

ゴーテーという学者が言っている言葉があります。「疑いもなく、収穫はわずかだと見える。3年もの労苦のすえ、ガリラヤの職人どもは11名なのだ」

 本当イエスほど寝食を忘れ、祈りによってあれほどお働きになった伝道者はいないのであります。しかし、得た者はたった11人の弟子でありました。それも、つまずく弱い弟子達でありました。しかし、お気の毒だなぁと思うくらいの弟子たちを前にして、今主イエスは「本当にこの人たちは私を知り、私を信じるに至ったのです」と言い切られました。

 イエスは「この11人が、神の国のために働いていくのだと、この11人で充分です」と言っておられます。

 主イエスとの結びつきが大切なのです。後は主のみ言葉によって弟子達は育てられていくのです。そして、彼らは地上で主の栄光をあらわすために用いられていくのであります。

イエス様が弟子達によって栄光を受けた」ということは、どういうことでしょうか。

先ほど述べた、神の重みが弟子達を通して輝いたということでしょうか。

 私の中に忘れられない光景があります。それは、九大付属病院の前にある、「神の手」と題された像です。

 立ち止まって、見とれてしまった記憶があります。どんな像かと言いますと、大きな手の平が、天に向かって開かれています。その手の上で、人が飛躍しているような姿があります。

  最近のテレビには、「神の手」を持つと言われる外科医の方が、テレビに出演されます。医者の栄光は、完全に癒された患者の姿を通して現れるのすね。

  本日の箇所を読みますと、罪や破れを抱えた弟子達に対して、「あなたがたを通して栄光を受けた」と宣言されています。

  揺るぎない土台に立って、生きていく時に、私達も神様の栄光を現すことが出来るのです。

  弟子達が残される世は、弟子達を憎んでいます。イエス様も弟子達を地上に残さないで一緒に天に昇られたら良いと、考える人もいるでしょう。

  主イエスが弟子達を地上に残すのは、主イエスを派遣することによって、神が世に示そうとした愛を、主イエスに代わって、弟子達が世に示すためです。すなわち、主の業を継ぎ、世に神の愛を示すためです。


ヨハネによる福音書16章16-34父のみもとへ行く

2018-05-10 12:40:32 | 説教

「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」

                                   ヨハネによる福音書16章20節
 

 世の財宝や地位は人に奪われ、これに喜びを託していたものはこれを失うと同時に悲しまなければなりません。信仰者の喜びは、心の奥深くに秘められています。誰の手にも届かないところにあります。
罪の許しと、永遠の命すなわち永遠の喜びを与えてくださる復活の主を信じる信仰が大切です。主は罪をおゆるしくださり、永遠なる神との交わりに招き入れてくださいます。
 神との交わりから来る喜びを、何ものも奪うことはできません。なぜなら誰も神を奪うことはできないからです。神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。
 主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。最終的には「死」さえも、その喜びを奪うことはできません。
喜びは、単に外の世界が自分にもたらすあらゆる不幸からだけではなく、自分自身の苦しみや痛みですらも、神さまからくる喜びを自分から奪うことは出来ないということです。 苦しい時、悲しい時、自分の醜さと戦っている時、私たちは喜ぶことは出来ません。喜びとは無意識のうちにわき上がってくるものです。笑顔を心の状態とは裏腹につくることが出来ますが、喜びはどうすることも出来ないものです。
 喜べない現実にいても、そのような状況以上の喜びが訪れるというのです。それは神から来る喜びであります。
 神が一緒にいてくださる時に、悲しみや苦しみ以上のの喜びが訪れるのです。
 
 イザヤ書26:17 妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。 26:18 わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず/地上に住む者を/産み出すこともできませんでした。 26:19 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
 人間の生み出すものは風を産むようなもの・・・
イエス・キリストは、苦しみを女性の出産にたとえられました。主イエス自身がこれから受けようとする受難はいわば産みの苦しみであります。それによって新しい人間が、まさに生み出されることを願っておられるのであります。
 それは苦しみや不幸を乗り越えていく力を持つ人間です。挫折や失敗から新しく生まれ変わる人間です。神からの喜びを待ち望む人間です。神と共に歩む人間です。神の愛に捉えられた人間です
 救いに向かって歩む人が生み出されていったのです。
  イエス様は受難の道を歩み天に昇られました。それは、神と人とを結びつけるお働きでありました。