日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マルコによる福音書10:32-45 「十字架の勝利」

2014-04-08 10:43:11 | 説教
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
                 マルコによる福音書10:35


本日の箇所は主イエスの3度目の受難予告の場面であります。万人を救うために恥じと苦しみをお受けになられます主イエスの行く道が示されています。弟子達はこれから進まれる主イエスの道がエルサレムへの栄光の道であると理解していました。ところが、あれほど主が大いなる業をされたのに、行く末は十字架の道ということが理解出来ませんでした。
 
 家や財産を棄てて、主イエスに従ったのでありますが、もうこれ以上従ってゆけないという地点に立たされたのが、主の十字架への道でありました。弟子達がそこから引き返していく時に、復活のイエスは「ちょっと待ちなさい」と声をかけられるのであります。
 多くの人々の救いのために働く道を備えて下さるのであります。
 「誰が一番偉いか」と権力欲を露わにし、言い争っている弟子たちに対してイエスは言われます。「諸国民の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。イエスが命を賭けて闘われたユダヤの神殿支配体制もまた 「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力(エクスーシア)を振るう」社会でありました。そのような権力に縛られ、からめ取られている人々に対して、主イエスは語るのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
 「仕える者(ディアコノス)」の原意は、「塵の中を通る者」という意味です。本来は塵まみれになり労働をする奴隷を指す言葉であります。「僕(ドゥーロス)」も厳密には「奴隷」という意味で、「僕」と訳してしまうと本来の言葉の強烈さが失われます。 イエスは、偉くなりたい者、人の上に立ちたい者は 「奴隷」になりなさい、と言いました。
 
 主は続いて言われます。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。「身代金)」とは、奴隷を解放するための代価です。つまり主は「奴隷を解放するために自分は命をささげるのだ」と言われました。
 「すべての人の奴隷になりなさい」と言った後で「わたしは奴隷を解放するために命をささげる」と主は言われます。矛盾することを言われているのではないのです。
 仕える道というのは強制によるものではないということを主は示されました。又そのように強制していく体制と主は戦われたのであります。
 「奴隷になりなさい」とは、自発的意志において仕える者になりなさいという勧めです。奉仕は愛の心・愛の発露です。愛からの促しです。
 それは、教えられるものではありません。イエス様の全力を傾けられていた教育によっては弟子達の心は変わらなかったように、教育だけで人間を変えることは出来ないのです。彼らが生涯を捧げる人間に変えられたのは、イエス様の愛によるのです。
 戦時中、ナチは、恐るべき力を持って、何事をもユダヤ人に強制することが出来ました。しかし、出来ないことがありました。それは、自分達を愛するようにしむけることです。自分達を心から愛する愛をひきだせなかったのであります。
愛は力や、強制によっては決して得られないのであります。愛は愛によってしか得られません。
「神の我らに対する愛は、しばしばその聞きたまわざりし祈りのうちに見いだせる」と言われる人がいました。本日のこの場面でも、そのことが当てはまります。
 人の上に立ちたい、従わせることばかり考えていた弟子達の願いを聞かずに、仕える道をお示しになりました。それは愛からということです。
 愛されたり、愛することによって人は愛を心に宿します。又そのことが本当に人を幸せにします。
 愛の国はそうやって広がっていくのです。
 アンパンマンは自分の顔をかじらせて、飢えた人を助けたヒーロです。顔パスと言う言葉の合った時代に、顔を大きくせずに、秘めた愛を大切にしたヒーロのように思えます。
世間で言われるかっこのいいヒーロではありませんが、子ども達の人気ものです。
 そのお話を通して子ども達は愛を感じているのかもしれません。
子育てで幼児期に手がかかるのは、自然なことです、しかし、その時期に手をかけるほど子どもの自律が早いと言われています。そのことのよって、愛を体験しているからです。
 愛は、教育や強制や力によって生まれるものではありません。体験によるのです。
 そこに、人間が幸せになる道があると、主は確信され、命を捧げられたのです。
 互いに愛する世界へと、導いて下さっているイエス様です。このやりとりの中で、主の愛の促しを感じました。


主題「見つける」

2014-04-01 11:10:28 | キリスト教保育
「みつける」という主題を掲げました。イエス様の譬えの中に、迷いだした一匹の羊を探し出し、その羊を発見した時に、回りの人達と共に喜ぶ「良き羊飼い」のお話があります。
子どもの良いところをたくさん見つける。そしてその良いところを引き出す援助をしたいと願っています。1日中自分の悪いことばかりを指摘されていては、子どもが、自信が持てるはずがありません。だから、子ども達の良いところを見つけることは大切です。見つけることの喜びと見つけられることの喜びは表裏一体です。子どもを信じて、子どもの美点に目を向けていく時、自分が見過ごしていた美しさを発見出来る人がいたことに、子どもは驚きを持ちます。このことは、愛や理解や分かち合いの美しい精神を育んでいきます。
人間というのは、自分がどんな能力や資質を持っているかは、人との関係の中で自覚します。この場合の比較とは、「優劣」ではなく「異同」です。どこが似ていてどこがちがうか。それをたくさん集めることで、自分を発見していくのです。
そのときに人と交わる力が弱いと、自分がどんな人間であるかが、自分で見えなくなります。
人と交わる力は、人を信じる力です、それがなければ、他人と深くかかわろうと思わないからです。
人を信じる力は、人から信じられているという実感に支えられていなければ得られません。
子どもの美点を見いだし、信じることによって、子どもは人と深く交われる子となれると信じています。

主題「沖へこぎだしなさい」

2014-04-01 11:07:02 | キリスト教保育
 主の弟子たちは漁師で、最初に弟子として招かれたのは、ガリラヤ湖畔でした。漁師達は、不漁を経験しました。美しいガリラヤ湖でありましたが、不毛の世界が冷え冷えと眼の前に広がっています。しかし、やさしい眼差しで見守って下さるイエス様がおられます。「沖に漕ぎ出し漁をしなさい」という主の言葉は、不漁で疲れている者を立ち上がらせるほど力があります。その言葉に従った時に弟子達は大漁を経験します。
「自分に能力があると思えないと夢(目標)が持てない」「自分の周りが敵だと思うと行動が伸び伸びできない」と今井和子先生が言われます。
小さいときから自分には能力があり、周りは仲間(味方)であると思えるようにすることが大切だと言うことです。
外の期待が大きすぎたり、強すぎると、自信がもてなくなったり、自己表現が困難になります。まず、自分に自信をもつようになることが大切です。
「この人といれば安心」「リラックス出来る雰囲気がある」「大人や子どもが何かやっているよ、楽しそう」と思える時に、やらされている感覚から、やってみようという気持ちに変わるのではないでしょうか。
子どもの時に誉められた事は、大人になっても忘れられない体験となります。人に誉められること、「自分は役に立ってるんだ」と実感できることって、大切なことです。大人もそうですが、指摘をされるよりも、褒めてもらえるほうが自分のよいところをぐっと伸ばしたいと思うのです。子どもは、成長できる自分を認めてほしい気持ちでいっぱいです。子どもの良い面を見て評価することは大切です。子どもが、目の前の課題にがんばっている過程を褒めてあげましょう。
 それは、自分の行為を自覚的にとらえるだけでなく、自分が愛している人に認められたうれしさを伴い、「もっと、がんばろう」という決意を新たにします。
「失敗しても良いよ」「またチャレンジしましょう」「良くここまでがんばってたね」という褒め言葉が、子どもの心を支えていきます。
 イエス様は子ども達の中に共にいて下さり、子ども達の心と響き合って共に生きて下さっています。そこには、安心感・わくわくするような期待感・子ども達への信頼感があります。「沖へ漕ぎ出しなさい」というイエス様のお言葉が、子ども達を立ち上がらせる大きな力となると信じています。
 わたしたちも、イエス様の姿勢にならって、子ども達の心をゆさぼる言葉かけをしたいと願っています。

主題「考える」

2014-04-01 11:02:25 | キリスト教保育
「空の鳥を良く見なさい」

神様は、野の花を素敵に着飾らせ、鳥を養っておられます。
そのように、小さな命を養っている神様は、子ども達に対して、それ以上
に良くして下さるのです。
今月の主題は、「考える」です。「はやく、はやく」と急がされていては
考えるチャンスはありません。最後は大人の考えに従わなければならないこ
とが常ならば、考える意味はありません。考える意欲が削がれます。
 子ども達が考える力を発揮するのは、時間があること、失敗しても何度も
やり直せる自由があることが必要です。
 人間は考える動物です。問題は考えようとする意欲です。「勉強しなさい」
とガミガミ言われて、嫌々ながら勉強しても、「やんなきゃ」という前向き
な意欲は出ません。
 「考えるのが楽しい」という気持ちが大切です。あまり幼児期の早い段階
で知識をつめこむことよりも、遊びを目いっぱい楽しむことの方が大切です。
意欲の芽は遊びの中で育てられると思います。子ども達は自分で考え、主
体的に遊びを展開します。子ども達の自由な発想や考えを引き出していける
ような環境を整えていきたいと願っています。そのために、いつも子ども達
の傍らに立つことも大切です。又遊びの中でのトラブルも良くあることです
が、子ども達には自分で解決する能力があります。
 「待つ」という、一見、何もしない行動をとれるようになることも保育者
の成長の一つです。
 種は芽を出し、芽は伸びます。子どもという種は、自然に水を吸収し、大
地に根をおろし、天に向かって伸びていきます。
 鳥や野の花に勝る子ども達に、神様は、必要な知恵・ひらめき・生きてい
くために必要なものを与えて下さいます。
 

主題「いっしょに」「ともだち」

2014-04-01 10:58:36 | キリスト教保育
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
                     ヨハネによる福音書10:11


主題聖句は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10:11)です。
 保育園に集う子ども達は、育った環境や、興味も関心も異なり多様な姿が見られます。様々な違いのある子どもを、神様は大切な一人として認めて下さいます。
 主イエスは、ご自分を命の盾として羊を守られる、良い羊飼いであられます。上記の聖句に続く聖書の言葉に、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10:14)という句があります。ここで言う「知る」とは客観的、合理的、理論的に認識するというだけでなく、全実存における関わりによる「相互的な理解」を意味しています。
 アフリカのウガンダでは、赤ちゃんは基本的におむつをしません。母親が、赤ちゃんのサインを受け取って、トイレに連れていくのです。
 言葉だけが、気持ちを伝え合っているのではなく、表情や仕草や振る舞いなどで
子どもは気持ちを伝えています。イエス様は、そんな子どもの傍らに立たれて、子どもの気持ちを知って下さるお方です。
イエス様の愛は、子ども達の受容の心を育てていきます。友達の気持ちを受け止めようとするアンテナが、子ども達の中に育っています。私達は、誰もが、自分をわかってほしいと願っています。
隣人を理解すること、隣人に理解されることが、絆を深め、人を育てていきます。
イエス様に導かれる羊の群は、一人一人が織りなす一枚の織物のようです。誰か一人でも仲間はずれにされたら、穴があいてしまいます。
グレース保育園の羊飼いは、イエス様です。そして園児一人ひとりはその羊です。
イエス様に従う時に、道が出来ます。イエス様に導かれて、お友だちと共に歩いた道。その道こそ、園児一人ひとりの人生の土台となります。
羊飼いの愛の波紋が、新しい世界に広がっていくことを願っています。