人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
マルコによる福音書10:35
本日の箇所は主イエスの3度目の受難予告の場面であります。万人を救うために恥じと苦しみをお受けになられます主イエスの行く道が示されています。弟子達はこれから進まれる主イエスの道がエルサレムへの栄光の道であると理解していました。ところが、あれほど主が大いなる業をされたのに、行く末は十字架の道ということが理解出来ませんでした。
家や財産を棄てて、主イエスに従ったのでありますが、もうこれ以上従ってゆけないという地点に立たされたのが、主の十字架への道でありました。弟子達がそこから引き返していく時に、復活のイエスは「ちょっと待ちなさい」と声をかけられるのであります。
多くの人々の救いのために働く道を備えて下さるのであります。
「誰が一番偉いか」と権力欲を露わにし、言い争っている弟子たちに対してイエスは言われます。「諸国民の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。イエスが命を賭けて闘われたユダヤの神殿支配体制もまた 「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力(エクスーシア)を振るう」社会でありました。そのような権力に縛られ、からめ取られている人々に対して、主イエスは語るのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
「仕える者(ディアコノス)」の原意は、「塵の中を通る者」という意味です。本来は塵まみれになり労働をする奴隷を指す言葉であります。「僕(ドゥーロス)」も厳密には「奴隷」という意味で、「僕」と訳してしまうと本来の言葉の強烈さが失われます。 イエスは、偉くなりたい者、人の上に立ちたい者は 「奴隷」になりなさい、と言いました。
主は続いて言われます。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。「身代金)」とは、奴隷を解放するための代価です。つまり主は「奴隷を解放するために自分は命をささげるのだ」と言われました。
「すべての人の奴隷になりなさい」と言った後で「わたしは奴隷を解放するために命をささげる」と主は言われます。矛盾することを言われているのではないのです。
仕える道というのは強制によるものではないということを主は示されました。又そのように強制していく体制と主は戦われたのであります。
「奴隷になりなさい」とは、自発的意志において仕える者になりなさいという勧めです。奉仕は愛の心・愛の発露です。愛からの促しです。
それは、教えられるものではありません。イエス様の全力を傾けられていた教育によっては弟子達の心は変わらなかったように、教育だけで人間を変えることは出来ないのです。彼らが生涯を捧げる人間に変えられたのは、イエス様の愛によるのです。
戦時中、ナチは、恐るべき力を持って、何事をもユダヤ人に強制することが出来ました。しかし、出来ないことがありました。それは、自分達を愛するようにしむけることです。自分達を心から愛する愛をひきだせなかったのであります。
愛は力や、強制によっては決して得られないのであります。愛は愛によってしか得られません。
「神の我らに対する愛は、しばしばその聞きたまわざりし祈りのうちに見いだせる」と言われる人がいました。本日のこの場面でも、そのことが当てはまります。
人の上に立ちたい、従わせることばかり考えていた弟子達の願いを聞かずに、仕える道をお示しになりました。それは愛からということです。
愛されたり、愛することによって人は愛を心に宿します。又そのことが本当に人を幸せにします。
愛の国はそうやって広がっていくのです。
アンパンマンは自分の顔をかじらせて、飢えた人を助けたヒーロです。顔パスと言う言葉の合った時代に、顔を大きくせずに、秘めた愛を大切にしたヒーロのように思えます。
世間で言われるかっこのいいヒーロではありませんが、子ども達の人気ものです。
そのお話を通して子ども達は愛を感じているのかもしれません。
子育てで幼児期に手がかかるのは、自然なことです、しかし、その時期に手をかけるほど子どもの自律が早いと言われています。そのことのよって、愛を体験しているからです。
愛は、教育や強制や力によって生まれるものではありません。体験によるのです。
そこに、人間が幸せになる道があると、主は確信され、命を捧げられたのです。
互いに愛する世界へと、導いて下さっているイエス様です。このやりとりの中で、主の愛の促しを感じました。
マルコによる福音書10:35
本日の箇所は主イエスの3度目の受難予告の場面であります。万人を救うために恥じと苦しみをお受けになられます主イエスの行く道が示されています。弟子達はこれから進まれる主イエスの道がエルサレムへの栄光の道であると理解していました。ところが、あれほど主が大いなる業をされたのに、行く末は十字架の道ということが理解出来ませんでした。
家や財産を棄てて、主イエスに従ったのでありますが、もうこれ以上従ってゆけないという地点に立たされたのが、主の十字架への道でありました。弟子達がそこから引き返していく時に、復活のイエスは「ちょっと待ちなさい」と声をかけられるのであります。
多くの人々の救いのために働く道を備えて下さるのであります。
「誰が一番偉いか」と権力欲を露わにし、言い争っている弟子たちに対してイエスは言われます。「諸国民の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。イエスが命を賭けて闘われたユダヤの神殿支配体制もまた 「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力(エクスーシア)を振るう」社会でありました。そのような権力に縛られ、からめ取られている人々に対して、主イエスは語るのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
「仕える者(ディアコノス)」の原意は、「塵の中を通る者」という意味です。本来は塵まみれになり労働をする奴隷を指す言葉であります。「僕(ドゥーロス)」も厳密には「奴隷」という意味で、「僕」と訳してしまうと本来の言葉の強烈さが失われます。 イエスは、偉くなりたい者、人の上に立ちたい者は 「奴隷」になりなさい、と言いました。
主は続いて言われます。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。「身代金)」とは、奴隷を解放するための代価です。つまり主は「奴隷を解放するために自分は命をささげるのだ」と言われました。
「すべての人の奴隷になりなさい」と言った後で「わたしは奴隷を解放するために命をささげる」と主は言われます。矛盾することを言われているのではないのです。
仕える道というのは強制によるものではないということを主は示されました。又そのように強制していく体制と主は戦われたのであります。
「奴隷になりなさい」とは、自発的意志において仕える者になりなさいという勧めです。奉仕は愛の心・愛の発露です。愛からの促しです。
それは、教えられるものではありません。イエス様の全力を傾けられていた教育によっては弟子達の心は変わらなかったように、教育だけで人間を変えることは出来ないのです。彼らが生涯を捧げる人間に変えられたのは、イエス様の愛によるのです。
戦時中、ナチは、恐るべき力を持って、何事をもユダヤ人に強制することが出来ました。しかし、出来ないことがありました。それは、自分達を愛するようにしむけることです。自分達を心から愛する愛をひきだせなかったのであります。
愛は力や、強制によっては決して得られないのであります。愛は愛によってしか得られません。
「神の我らに対する愛は、しばしばその聞きたまわざりし祈りのうちに見いだせる」と言われる人がいました。本日のこの場面でも、そのことが当てはまります。
人の上に立ちたい、従わせることばかり考えていた弟子達の願いを聞かずに、仕える道をお示しになりました。それは愛からということです。
愛されたり、愛することによって人は愛を心に宿します。又そのことが本当に人を幸せにします。
愛の国はそうやって広がっていくのです。
アンパンマンは自分の顔をかじらせて、飢えた人を助けたヒーロです。顔パスと言う言葉の合った時代に、顔を大きくせずに、秘めた愛を大切にしたヒーロのように思えます。
世間で言われるかっこのいいヒーロではありませんが、子ども達の人気ものです。
そのお話を通して子ども達は愛を感じているのかもしれません。
子育てで幼児期に手がかかるのは、自然なことです、しかし、その時期に手をかけるほど子どもの自律が早いと言われています。そのことのよって、愛を体験しているからです。
愛は、教育や強制や力によって生まれるものではありません。体験によるのです。
そこに、人間が幸せになる道があると、主は確信され、命を捧げられたのです。
互いに愛する世界へと、導いて下さっているイエス様です。このやりとりの中で、主の愛の促しを感じました。