日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

箴言8:1 22-31  「創造」

2020-10-27 09:43:04 | 説教

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ   箴言8:31

 

 

  本日は旧約聖書から聞く時を持ちます。『箴言』中の格言の多くはソロモン王によって作られたとされています。知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)の一つと言われています。

神が聖霊によって与えて下さった箴言の言葉の数々は、私たちの魂を生き返らせます。

   本日はその一部分ですが創造に関する場面について書かれているところです。難解なみ言葉のように受け止められますが、福音の響きを感じる部分でもあります。

 創造された被造物に対する神の愛を感じつつ、豊かな秋を過ごしていきたいと願っております。コスモス畑・これから始まる紅葉・夜明けや夕焼けの素晴らしさなど・・・どれを見ても神の創造の業の素晴らしさを感じることが出来ます。特にこの地域に住んでいるといろいろと感性に刺激を受けていきます。

 天地創造の様子については創世記に記されていますが、箴言は別の視点で天地創造の様子を記しております。そして、箴言のこの箇所は、新約聖書のコロサイ信徒への手紙。ヨハネによる福音書にも影響を与えているように思います。

 本日の箇所では、「知恵」というものが擬人化されております。新約聖書はこの擬人化された知恵を先在の主イエス・キリストと捉えております。すなわち、天地創造の業に主イエス・キリストが関与されているということであります。キリストは神であるということです。

 

 天地創造に参画した神の子イエス・キリストのことが書かれております。神は無から有を生じて、被造物を創造されました。その天地創造に参与したのが擬人化された知恵であり、新約聖書はそれをキリストであると受け止めています。

世界の美しく、とても考え抜かれて設計されています。その英知とは主イエスキリストであると告白されています。そのイエス様が人間のもとに来られたのが、クリスマスの出来事です。本日から教会歴は降誕前にはいります。

 30節のみ言葉にこう書かれております。「みもとにあってわたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって」とあります。

 主は巧みな者ということです。このヘブライ語の解釈については、意見が一致していないところがあります。アーモンというヘブライ語が使われております。熟練工・技術者・巧みな者・組み立てる者という意味があります。神の創造の協力者として書かれている箇所ですから翻訳者はそのように訳していくのです。

 イエス様は地上では大工として働かれてたということですが。われわれ万民が過ごす地球・宇宙という巨大なお家を建設されたいうことです。そんなイエス様が私たちのそばにおられることも大きな喜びであるかと思います。地球を作った大工であられるイエス様の知恵こそが、私たちに幸せをもたらしていくのです。その知恵が示されているのが聖書であります。

 「巧みな者」アーモンというヘブライ語の解釈が古くから分かれて来ました。この箇所にしか使われていないヘブル語ですから。この意味するところに別の解釈があります。それは「乳児」「寵児」(ちょうじ)幼子などです。神が、創造に参与した御子をまるで愛する子どものように楽しんでいるということであります。

 愛するということは、単純にその存在を喜ぶことであると思います。今の時代は親が無条件に子どもを愛せなくなっていると言われていますが。子どもの性格もいろいろであります。親にとってはどの子もかわいいのです。その存在を喜ぶところに愛の本質があります。

 一人ひとりに与えられている賜物を受け止めていく 無条件に受け入れる愛・・

 神様は御子との関わりの中で、その大いなる愛と喜びを私たちに示しておられているようであります。

31節に「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ」

クリスマスには、神に愛された主イエスが降誕され、その無条件の神の愛を私たちに伝えに来られました。そして、その天地創造をされた英知で、私たち被造物を導いて下さいます。

この世界に希望を見出せない状況が多々ありますが、主はその英知で私たちを導き、この世界を新しく造り変えて下さいます。がたがたの地球をメンテナンスして下さるように働きかけて下さいます。その主の英知に聞き従って、世界という家族の幸せを祈りましょう。


愛するとは   キリスト教保育11月号を読んで

2020-10-24 12:35:05 | キリスト教保育

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」

                ヨハネによる福音書15:12

 ある日、マルタとマリヤというふたりの姉妹が、イエス様のおもてなしをしていました。マリアはイエスさまのもとで、イエス様のお話を聞いていました。マルタはせわしく働き、ついには、イエスさまにマリヤのことで文句を言いました。しかし、イエス様は「マリヤは良いことをしてくれた」と言われました。イエス様がこの時にしてほしかったのは、お話を聞いてもらうことでした。

 お子様の気持ちを考えないで、自分が良いと思うことを押しつけていないでしょうか。愛するとは、自分の良いと思うことを相手に押しつけることではなく、相手の立場に立って、相手を理解しようと努めることです。子どもが望んでもいないことをやりすぎることは過干渉です。

 子どもは小さいほど、自分の気持ちを言葉では言えません。表情や素振りなどから子どもの心を受け止めることも大切なことです。

親として言ったり、やったりする前に子どもの心を受け止めていくことが大切なことです。又一人ひとりに合った愛し方を考え続けていく時に、その姿勢は温かい、心地良い空気になって子ども達に伝わることでしょう。そのような愛し方をイエス様は教えて下さったのです。


フィリピの信徒への手紙3:7-21「天国に市民権を持つ者」

2020-10-24 12:21:15 | フォトギャラリー

わたしたちの本国は天にあります。  

  フィリピの信徒への手紙3:20

                                    

 パウロは60年代にローマの獄中からこの手紙をフィリピの教会の人たちに送りました。

 フィリピはマケドニア東部の都市で、ローマ帝国の本国と東部をつなぐエグナティア街道の重要地点にあり、軍事的・経済的に重要でした。近くには金山もあったそうです。

 パウロの伝道によって生まれたフィリピの教会です。所属メンバーには様々な人々がいました。ユダヤからの難民、様々の国からの移民達がメンバーの一員でありました。

 今日で言う、パスポートを持ち合わせていない人たちでした。

 古代の都市フィリピにおいても、ローマ市民権をもつ人とそうでない人の間には大きな違いがあったことでしょう。

ところが使徒パウロは、フィリピの教会の人々に「私たちの本国は天にある」と宣言するのです。言いかえるなら「わたしたちは、ローマはなく天に属する者です」と宣言したのです。

「私たちの本国は天にある」という言葉は音楽家のベートベンがこよなく愛した聖句と聞いたことがあります。パウロもベートベンと同じく困難状況であります獄中に置かれていましたが、「そろそろ終わり」「もう人生を手放す時期となった」とネガティブなことは言わずに、「目標を目指して頑張っていきたい」「キリストのために生きながらえたい」と、前向きの姿勢をもっています。それは天国の市民としての自覚がそうさせているということです。天からの恩恵に支えられて、この世の使命を果たしていくという姿勢を持っていました。天国の国民として、神様に支えられているという自覚・そこから与えらていく平安がパウロをポジティブにしていきました。そして、獄中にあってもたくさんの可能性を見出していったのであります。

パウロが生まれたタルソスもフィリピと同じように豊かな町であったということが想像出来ます。パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家で育ち、エルサレムで学ぶことが出来たのですから、裕福な家で育ったと考えられます。しかも、パウロはローマの市民権をもっていました。その権利を受けて、伝道において有効に用いたことが考えられます。

免許をもっていても、車を運転しないと、利便性を受け取ることができません。天国の国籍を持っていても、その民として生きなければ意味がありません。それは、全世界の人々が救われるように仕えて、祈ることであります。

ローマ市民権を持つことの利点は、直接税の免除。

小麦の無料配給の特典。

皇帝主催の催し物への招待。

市民集会での投票権。

裁判時の皇帝への上訴権。

国家からの土地の借受権。

ローマに住んでいれば、小麦の無料配布にも預れ、催し物にも招待されるのですから、魅力的です。時には、皇帝から臨時ボーナスのようなお金まで配布されるのです。

天に国籍を持つ者には、どういう恵が与えられていくのでありましょうか。

「私たちの本国は天にある」というパウロの発言から、「帝都ローマではなく、天にこそ私たちは属している」という響きを聞きとることができます。

 その特権とは・・・

私達の罪深く、弱い身体に、主イエス・キリストが宿られ、日々作り変えて下さるという特権です。そのような主が共に働いて下さるからこそ、この世がどんなに絶望的に見えても、希望を持って歩むことが出来ます。

そして私たちは、キリストの群れ(国民)の力を信じて、歩むことが出来ます。

「私たちの本国は天にある」というパウロの言葉は、さまざまな身分出身の人々からなる教会共同体に、ひとつの共通の超越的な市民権を宣言するものでした。

この宣言は弱い立場の人々を引き上げ、強い立場にある人には弱者への連帯を促すものでもあったろうと思います。

天に国籍を持つ人たちの福祉の業が前進していくことを望んであります。

洗礼を受けることによって天に国籍が与えられ、この日本に遣わされているパスポートが与えられています。神の恵と守りに支えられて、福音の前進のために力を合わせていきたいと願っております。

 


コリントの信徒への手紙二5:1-10「永遠の住み家」

2020-10-24 12:15:45 | 説教

 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

                                        コリントの信徒への手紙二5:2

 

信仰者は、目に見える一時的な地上の住まい(幕屋)に生きています。家が何年も暮らすと傷んでくるように、肉体も永年の苦労で次第にボロボロになり、滅びていきます。

しかし、やがて、朽ちることのない永遠の命にふさわしい体が与えられます。地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられています。

私たちの「地上の住みかである幕屋」とあります。これが、今地上を生きている私たちのこの体です。

その体は「幕屋」であると言われています。幕屋とはテントです。そこには二つの意味があります。テントは、たたんで持ち運ぶことが出来ます、一つの所にずっといるのではなく、あちこち移動していくことが出来ます。

私たちの地上の人生はそのように、変化していくものです。

たとえば、中津にずっと住んでいたとしても、様々な出会いがあり、別れがあり、喜びがあり悲しみがあり、また社会の変化、時代の荒波にもまれていくというのです。

私たちは、自分の体という幕屋を、いろいろな状況に立てていきます。

そこで幸せな日々をおくられるかと思うと、病気になったり、苦難にあったりと、揺れ動くところにテントが張られます。

又その幕屋は、人的環境にも左右されやすいものでしょう。順境や逆境にもおかれ、時にストレスの中に置かれたり、安定した地位についたり、稼働式のテントはある一定のところには留まりません。

テントは恒久的な家ではないということです。雨露・陽射しにさらされて、古くなり痛みだし、やがて、使えなくなります。

人それぞれにいろいろな故障や病気をかかえて歩み、次第に老いて弱っていくのです。あるいは若くても病気や事故で亡くなってしまう人もいます。

私達の肉体は、一時の間、地上に存在するのみで、やがて滅びてしまう。この意味においては天幕づくりの家の如きものであります。「この世は仮りの宿」に過ぎません。過ぎざる幕屋と永続的住居なる建築物とを対比して肉体と永遠の命に生かされる体とを対比させています。

5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

住みかを着るというのは、不思議な表現です。聖書の翻訳者は苦労されて訳されたと思います。住み家というのは、御国にて、永遠の命に生かされていくための体です。

しかし、個人的な事として扱うならば、永遠の体と表現しますが、それを永遠の住みかを着るという表現は、集団的な要素とのつながりを表現しているように思います。

天から与えられる住みかを上に着たい。これは重ね着を意味しているようです。地上の生活を前提にしているゆえに地上の生活を軽視してはいけないことも触れられています。そして、集団でそこにはいるということです。

永遠のすみかという衣装。。それは、自分から着るというよりも、神様に着せて頂くことではないでしょう。

天幕を着て生きている私達ですが、来るべき永遠のすみかを着る保証が与えられています。

ジョンクインシーアダムはこう言いました。「すこぶる壮健ですが、その住宅はすっかりだめになりました。」と。はげた頭をなでながら、「屋根はこのとおり落ちました」。やせたあばらをさすって、「壁もこのようにくずれて、中の柱が現れました」。又手にした杖を示して、「風がふけば揺るぐので、こんな支柱をしています。こんな破れ屋にいつまでも住んではいられませんから、近いうちに転宅します」

朽ち果てるものが永遠の家に通じていくということを感じとったのはパウロでした。

彼は病弱でありましたが そのことゆえにいろいろな恵を経験しています。良い助けてがたくさん現れて、大きな世界伝道という働きをすることが出来ました。弱くなっていく先を感じとっていたのです。そこに恵があるということです。キリストと共に歩むころによって体験していったのであります。

パウロは『死ぬはずのものが、いのちによって「呑み込まれる」「カタピノー」と表現しています。 老いゆく時に、その先は出口のないブラックホールではなく、命に飲み込まれていくのだとパウロは感じとっていきました。

それは吸収され新たにつくりかえられていく、生まれ変わるという表現です。

私たちは地上の衣を来て、今生きています。内面という心に、体・地上の生活という衣装をつけて過ごしてい ます。下着が破れて、汚れていたら、その上に重ね着したら隠れていきます。糸がほつれ、上着が開け明らかに なることもあります。    

地上の生活は命に飲み込まれていく生活であり、人間の罪が清められていくのです。今あるこの生活は、神様の新しい命に飲み込まれ、影響を受けていくものです。悔い改めて帰ってきた放蕩息子に父は一番上等な服をお着せになられました。それは神の愛とゆるしの印であり、それを着た時に放蕩息子は生まれ変わりました。

神様は私たちにキリストという衣装を与えて下さいました。それは内面から作り変えられていく衣装です。死後、永遠のすみかを着る保証となるものです。それは命に飲み込まれていくことを確信させます。又、永遠の住みかに生きるのにふさわしいものとして作り変える力が宿っています。