日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

かけがえのない自分づくり

2014-02-04 16:37:27 | キリスト教保育
けけがえのない自分づくり

☆☆ グレース保育園のめざしている保育 ☆☆
★子どもが、神さまを身近な存在としてかんじ、神さまの愛や人の愛を知り、感謝と喜びをもって生活する。
★子どもが、主体的に遊び、自分の力で考え、心を動かし、探求し、判断し、想像力や創造性をもつことができるようになる。
★子どもが、生命や権利を壊すさまざまの悪に気づき、平和をつくり出す。
★子どもが、私たちの生きる地球を神さまの恵みとしてうけとめ、自然や世界の事柄に関心をもち、自分たちのできることを考え、行うようになる。



・巣立つ  「育つ」ということは、「巣立つ」からきた言葉
親しい気持ちと同時に一人の尊い人格として尊重することが大切
ウィリアムHウィリモンの言葉
翼―それはその子のその子らしさ。

・受け入れ
 受け入れられている安心が、子どもたちを「やってみようかな」と踏み出させることにつながります。愛され、ゆきとどいた愛情の中に育てられ、乳児期を過ごした子どもには、必ず自発的に知的好奇心とか、探求心とか、何か自分でやってみようと言った意欲が起こります。愛着行動の良い状態と探索行動は比例していきます。
 自発的な活動を阻止して大人のレールに載せない事も大切です。
ウィリアム・ウィリモン師(実践神学者)が、「親の愛とは、子どもが自由に親から離れていくことが出来るように子どもを愛する愛です」と述べています。
神様は、私達がなりうる可能性のあるすべてのものになっていく自由を与えるために、私達に愛を注いで下さっています。神様は、すべての神の子どもたちを愛していますが
子ども達に成長してほしいと願っておられます。
 
・イエス様は子どもを愛され、大切にされました。
 子ども達はみなそれぞれ賜物をもっています。神様は一人一人を優劣をつけたり、かたよって見たもうことはありません。人間は、もちろん長所・短所・あるいは欠点や賜物もあります。一人一人まったく違います。
 一人一人をかけがえのない存在として、「あなたが大事」とイエス様は言ってくださいます。何か一つ成績が悪くても、すべて人生はゼロではありません。自分の本当の価値を認めてもらえることが、自主性を育てます。
 ゆきとどいた愛情の中に育てられ乳児期を過ごした子どもは、必ず自発的に知的好奇心とか探求心とか意欲が起こります。

 「楽しい」「怖い」「淋しい」「悔しい」 いろんな感情で人は動きますが、一番自主性を育てる感情は、「嬉しい」という感情です。
 愛され、大切にされていると経験が、子ども達の心に、真の喜びを与えると信じています。
 

 「子どもを育て、教育する責任を負っている者は、人を愛する能力が十分に発達し
成熟していなければならない」と、南信子先生(「 輝くひとみをいつまでも 」)が言われます。

・ゆっくり、ゆっくりバナナは熟れていく」アフリカのことわざ
 青木敬和先生から紹介されたことわざです(著書「ごらん、幼児のこの『いのちの爆発』を」)。
 幼児期にそのままあてはまる、「一貫した子育ての鉄則」。
 実は実自身で熟れていくものだから、「いじくりまわしちゃイカン」。
そのことによって、せっかくおいしい実に熟れるのを逆に腐らせています。
 結果を、親はつみとらねばなりません。
「ゆっくり、ゆっくりバナナは熟れていく」
 「子どもは小さいながらも自分の思い(心)をもった一人の人間として生きている」という子ども観です。
 それは、子どもを大人と同等の存在と認め、存在を尊び、だから、子どもの育ちのペースを大事にしようと考えるところから来ています。
 一方、それと正反対なのが、「子どもはまだ小さいから、早く教えて覚えさせ、できるようにしなくては」との子ども観です。
無理をさせたり、出来ないことをさせるのではなく、あるがままを受け入れて、支援していく時、「ある」を受け止めてもらえた喜びから、生きる意欲が生まれ、それが「なる」に自ら向かう、原動力に転化します。

 大切にしたいこと
 神様が造った最も不思議で、偉大であり、神秘的なものは命です。命には神の力が  宿っています。周りの大人が子供を成長させるのではなく、子供自身が本来持っている、神に与えられた成長する力を引き出してあげることがキリスト教保育の立場です。
 芽が出るまで待つこと、成長に障害になるものを取り去ることが、子育てをする者の役割です。


自我(自己主張・主体性)から第二の自我(社会的知性・協同性)

 1歳半から3歳ころにかけて自我の芽生え。
ついつい子どもの上を行く大声で制しようとしがちですが
大人は子どもより少しゆっくり、少し小さい声で子どもの要求を繰り返してあげるといいそうです。
子「ニンジン嫌い!食べない!」
大「そう、ニンジン嫌いなの。食べたくないのね。」
子どもの気持ちを受け止めた後は、切り返し。
大「でもさぁ、ニンジン食べると強くなれるよ。
  ちょっとだけ食べて見ようか。」
 この子どもの気持ちを受け止める、切り返すことにより
自我(自己主張・主体性)から第二の自我(社会的知性・協同性)が育ってきます。
自分の主張と周りの状況との折り合いをつける力=自己内対話力というわけ
  受け止めて 切り返す 
  受け止めて 意味づけなおす


☆受け流す 受け止めるの違い
 「受け流す」-わがままを認め いいなりに 
 「受け止める」-子どもの要求を「あなたはこうしたいんだね」と言葉で共感的に意味づけ直して、行動の背後にある願いへの理解を届ける関係。

  自我の誕生・拡大   一歳半から三歳
  2つの自我世界の葛藤  三歳から四歳
  自我統一と自己決定  四歳半頃 
             仲間と創り出す生活に向かって
             子ども達の「心」が大きく開かれていく
 


「人間の本来の姿は、他の人と共に楽しく生きてゆこうとする欲求をもって いる」  「うれしき朝よ」幼児教育随想より 南信子先生
◇思うこと◇
 ・ゲーム テレビは時間泥棒 子どもの話をゆっくり聴く時間を大切にしてほしい。子どもは本質的に対話を求めています。

 ・自己内対話能力が弱くなっている。
・大人がじゃまさえしなければ、能動的に表れる「自我」と共に、この「自我」を大人が受け止め、意味付け、切り返すという丁寧な対話的な関わりが、とても重要。大人には、子どもを「自我」の塊としか見ないかもしれない。
しかし、子ども達は、大人と対話した価値の世界をとりこもうとしている。
子どもの思いをしっかり受けとめましょう。「気持ち」を充分受けとめ
 理解していく。そういう大人が好きな子ども。
 「こうしなさい」ではなく、「それは傷つくなあ そうされたら嫌だなあ」と問い かける。大好きな人の問いかけを考える。「相手の思い」「自分の思い」を並べ
  良く考え、葛藤する。心が育つことにつながる。


子どもの長所を増やす親の条件   
子どもを認める言葉がけをする。
他の子と比較しない かけがえのない存在である
子どもの気持ちを優先する
親が良いモデルに

「楽しい」「怖い」「淋しい」「悔しい」 いろんな感情で人は動く
  一番自主性を育てる感情は「嬉しい」

可能性に挑戦させる経験 主体的に。無理矢理 スパルタ的にするのではない。(そのような感情には恨みの感情が残る)
成功感 自己充実感 神様から与えられている賜物を生かして可能性に挑戦する意欲を育てる。


共に喜ぶこと
アメリカの劇作家オスカーワイルドはこう言います。「子どもを良く育てる一番いい方法は、子どもたちを楽しくさせることです。子どもが共に笑い合うことを学ぶなら、共に愛することも、共に仕事をすることも出来るようになる」。
 佐々木正美先生が、「喜びを分かち合う経験は赤ちゃんのときから始まる」そして、続けて、「喜びを分かち合う経験をしてから、悲しみを分かち合う経験をしていく」と言われています。抱っこしてあげると、赤ちゃんは、笑顔で応え、子どもの喜ぶことをしてあげたら、喜ばせることをしているはずの自分がうれしくなってきます。
 幼児期はかけがえのない自分づくりの時「おもしろいな」と思う時に、一緒に「おもしろいね」と共感する人がそばにいることの大切さを強く思う。
 こうして、人は喜びを分かち合う経験をすることによって、悲しみを分かち合う力が出てくるのです。痛みを分かち合うことをダイレクトに教えることは出来るのでしょうか。
 泣く者と共に泣き、喜びの泉(憩いの水)を共に見いだす人に育ってほしいと思います。



勉強・スポーツが出来るようになる。それも大切かもしれません。
 でも、一番大切なのは、「自分を愛し 思いやりをもった人」になること
 「心」は教育というより、沢山の愛情を受けて育まれるもの




まとめ
「人は自分自身が価値あるものだと実感できなければ、他者の価値を実感することは出来ない」と佐々木正美先生は言われます。
 幼い子どもは、家族・周りの大人・友達に愛され、守られることによって、「自分は価値ある存在だ」と知ります。
 自分を大切にすることが、社会のルールを守ったり、出来ることをがんばるようになることにつながっていきます。そして、他者の存在を重んじる人になるのです。

月主題0-2歳児「あしたもしようね」  3-4歳児「育ち合う仲間」

2014-02-04 16:23:20 | キリスト教保育
2月聖句
「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。       コリントの信徒への手紙二13:11


一年間の保育の最終ページをめくる季節がきました。寒さの中にあっても春は確かに近づきつつあります。
 止揚学園の福井光子さんは、ご自分の子どもさんの最初にはいた靴を大切にとっておられるそうです。子どもが自力で、自分の手元から離れ、一歩一歩、歩いたしるしを大切にとっているのは、とても印象深いことですね。
 大切な時の瞬間を、心に刻み続けることは大切ですね。
 ファーストシューズにあらわれたお母さんの感動が伝わります。大切なことは特別なことでなく、日々の積み重ねの中で、生まれてきます。
 厳しい寒さの中で、植物は冬眠しているのではなく、葉芽や花芽の準備にとりかかり、赤ちゃんの芽を誕生させると、自らの油成分で幼い芽を覆ったりして工夫しています。そして、少しずつ若い芽を成長させ、ふくらませながら、春を待っています。長い冬は、植物が花を咲かせるために必要です。
 乳幼児期は発達の個人差が非常に大きい時期です。
子どもたちの成長や変化を性急に期待しがちですが、子ども達にはそれぞれの成長の速度があります。 
 壁にぶっかったりして、人はつらい経験にも負けない自分を見いだしていくのではないでしょうか。共感しながら、信じて待つことが大切です。
 弱くなった時こそが、神様のみ業が現れる時なのですから。
 巣立ちの月を前にして、言えることは、一人一人のお友だちに、神様は私たちの心に刻む、ステキな輝く時を与えて下さるということです。
 春を待ち望むように、その瞬間を待ち望みましょう。皆さんにとってのファーストシューズ(心に刻むべき出来事のしるし)は何になるのでしょうか。
それはキラキラ輝く宝石(優しさといたわりの心あふれる言葉)、かけがえのないお友だち、忘れられない思い出や思い出の品々他。それらは、陽光のように、皆様に降りてくることでしょう。

マルコによる福音書1:40-45「新しい神殿」

2014-02-04 16:16:44 | 説教
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」
                    マルコによる福音書1:41-42
 
 福音書は、この男性が「重い皮膚病」であったと記しています。当時の常識では、この病気は、神からの祝福を失ったしるしと考えられていました。ただ病のつらさ苦しさを負うだけではなく、彼ら彼女らは、生きることそのものを社会から否定され、二重三重の苦しみを引き受けていかなければなりませんでした。
重い皮膚病と診断された患者は、その病の間、民の共同体から隔離されました。それだけではありません、彼らは、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならなかったのです(レビ13:45)。だれも彼に近づかないようにするためです。しかも、重い皮膚病病と診断された者は、この症状があるかぎり、独りで、或いはその病気の者同士で、宿営の外の「死者の谷」に住まねばならならなかったのです(レビ13:46)。
 それに合わせて、重い皮膚病の人は、人々から恐れられ、忌み嫌われ、疎外されていました。 
 41節には、イエス様が、男性を深く憐れみ、手を差し伸べ、触れた、とあります。穢れているとされた病人に、近づき、さらには手を触れるなどということは、当時の常識からいって、まったくありえないことでした。そして、奇跡的な力によれば、イエス様はこの男性に近づくことすらなしに、癒すことがおできになったはずです。しかし、あえて近づいて手を触れられたことに、このエピソードの本質があらわされています。主イエスは、社会から疎外され、また自分自身を穢れたものとしてみなして、孤独の中にいたこの男性にむかって歩みだし、手を差し伸べ、触れ、関係を形作られたのです。
「憐れんだ」と訳されている語は、日本語の憐れみというのよりはもっと深い意味があります。 岩波訳では、「イエスは、腸がちぎれる想いに駆られ」と訳されています。
原語のギリシア語では、スプランクニゾマイといいますが、これは「内蔵」、
 すなわち腸や肝臓・腎臓などを指す名詞(スプランクノン)に由来します。
ですから、「憐れみ」というのは、単に同情するというのでなく、痛みを共にする、ということです。 「断腸」は、「腸がちぎれるほど悲しいこと」(広辞苑)を指し中国の故事に由来します。
 それは「4世紀の東晋の武人の桓温(カンオン)が、自分の隊を引き連れて蜀の国へ向かう。三峡を船で上っているとその隊の者が猿の子供を捕まえた。すると母猿が子供を追って、岸辺をひた走り続けました。
 とうとう船の中に跳びこみましたが、息絶えてしまった。
 その腹を割いてみると、その母猿の腸はずたずたに断たれていた。
それを聞いた桓温は、怒って小猿を捕らえた者を隊から追い出してしまった」という話です。断腸は、母猿の子猿に対する慈しみ、愛情が如何に深く、激しいかを物語ることばです。
41節の「深く憐れんで」というのが、写本によっては「怒って」 となっているのもあります。その場合、主イエスは何に怒ったのでしょうか。 それは、この病人を孤独と苦しみに追いやっている者への怒りです。
スウィンバルンという人の詩にこのような物語が紹介されている。一人の地位の高い女性がいました。美貌と高貴なる身分の故にあらゆる王侯貴人からへつらいと笑顔とを持って迎えられていたが、彼女がライ病にかかると、周りの者や家族までが、彼女から遠ざかりました。彼女は路頭にさまようになりました。貧しき書記にて多年人知れず彼女を慕い、彼女と一言も言葉をもかわしたことのない者が現れ彼女をひきとって看病して自分も世から捨てられることを厭わず、最後までその世話をしました。
主イエスの慈愛はその物語を思い出させます。
 新しい神殿である教会に集う私たちは、主イエスにふれて頂いている者です。 外の冷たい手が、暖かい手で握ってもらって温まるように、主イエスにふれて頂いた心は、冷たくても温められていきます。
 そのような手に触れられたところから、新しい何かが始まるのです。
 慈愛に押し出され、主イエスの慈愛を指し示す者へと変えられていくのであります。


マルコによる福音書1:21-28 「宣教の開始」

2014-02-04 16:13:24 | 説教
これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。   マルコによる福音書1:27


 マルコによる福音書は、主の教えよりも、み業の方を多く記録しています。しかし、この部分においては、主の教えの素晴らしさを明白に示しています。
 イエス様は、当日の教師のようにユダヤの会堂で、教えを述べられました。その教えに人々は驚きました。教えの素晴らしさだけではなく、その教えに権威を感じたからです。 本当の権威と世の権力とは違いがあります。権力はどちらかと言うと、人を強いて、服従させるところがあります。又不当な権力を行使する人は、外からの借り物であったり、不当な実力行使をしたりします。

しかし、主は軍隊や冨の力も借りることはありませんでした。持ち物も衣装も、立派なものではありません。しかし、借り物ではない権威を、人々は感じとっていきました。
主イエスの語られる言葉に、人々は自然と従いたくなりました。
 反対に律法学者の語ることは、解釈の伝統を重んじて、先輩の教師達の教えを、長々と引用し、議論することが多かったのです。
そんなところから、主の教えに新しさを感じた人は、多くいました。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
この悪霊も、主イエスのことを「神の聖者」と認めています。理性では、主が聖なる者であると認めています。
 言葉によって、働きかけていくことが人間社会の教育の営みですが、理性的な人間も、心の病める部分を持っている。「わかっているけれども、やめられない」という感覚は誰でも、持ったことがあると思います。そんな人には、言葉で持って相手の理性に語り欠ける言葉の中に、大きな権威が必要となります。
悪霊の叫びは、のどの奥からの、心からの叫びです。主の働きかけが、人の心の奥にある病める部分をかき乱したのであります。
み言葉と主の存在ということが、悪霊追放の大きな力となっていきました。
悪霊にとりつかれた人は孤独の中にありました。しかし、その孤独の中で罪に苦しむ私たちのところに来て下さった方がイエス様です。
 私たちが孤独にある、その心のなかに来てくださる方がイエス・キリストです。
 「かまわないで」と思う時。それは自分から、からに閉じこもったからですが、そのような孤立の考え方を知らない間に押しつける世の価値観があったからかもしれません。
 又だれにも悩みを話すこともなく孤立して、問題を抱え込む人もいるでしょう。
  主イエスは、そのような「孤立」「孤独」を打ち破られます。
 そして私たちを孤立から解放してくださるのです。私たち罪びと一人ひとりの孤独の思いを繋げてくださる。 「主の権威」はここにあるのです。
 私達も気づかないところで、「自分を立派に見せたい」という思いがあります。「しっかりした身なり」・「かっこよく見せたいという思い」「学歴」「有力な人の言葉を借りる」
そういう人間の言葉を、イエス様のお言葉は相対化していきます。
 おそらく、孤立から解放し、悪霊の力を追い出す権威をお持ちの方は、イエス様だけです。 
教会が教会として立てられていくのは、現在の表面的状態が基準となると言えるでしょうか。大切なのは、イエス様が共にいて下さっているということ、そして、み言葉の解き明かしがなされているということです。 
イエス様は、「黙れ、この人から出て行け」とおっしゃいました。 それを、時々、イエス様の権威に照らし合わせて、神様に喜ばれることか、どうかを吟味していくことも大切であると思います。そして、そこに潜む悪霊を追い出して頂くことです。常に謙遜であることを忘れないようにしたいですね。
人が、神の権威によって内側から生まれ変わる時に、神様はその聖化にふさわしい装いを下さいます。
主イエスは単なる教師ではありません。語る言葉・教えに大きな力を持っています。それは、罪人を新しくする力が宿っています。
生まれて30年か40年しか経っていない若い教会が、迫害や追放に出会いながら、力強く成長してほしいという願いを持って、マルコはこの文章を書いています。
キリストの言葉とみ業の権威に対する不動の信仰を持ち続けていくことが大切であると思います。