日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

0-2歳児「ふれて」  3-5歳児「探求」

2016-06-24 10:39:39 | キリスト教保育
月主題聖句
  「探しなさい。そうすれば、見つかる。」  マタイ7:7
 一生懸命何かを探すということ、それは無くしたものを探すことではありません。自分自身の主体をかけて、幸福・知恵・判断力などを見つけることかもしれません。
 子どもたちが求めれば、探しものは見つかります。わたしたちは子どもたちの探しものが見つかるためのささやかなお手伝いを、続けていきたいと思います。
 子供たちの興味・関心・意欲こそが、求める力です。捜しものはこれによって見つかります。
 大人は子どもを見ていると、あれこれ言いたくなることもあります。
子ども自身が考える時間、試す時間、もっと言い方を変えると失敗する時間を保障し、その姿を見守ることも大切です。
 それによってこそ、子どもは求める力、考える力、自律性を身につけていきます。
 考えて見いだす体験を積み重ねていくと、善悪の判断も自分で出来るようになります。自分の衝動もコントロール出来るようになります。
 発見したり、できるようになる時期は、子どもによって個人差があります。
遊びは大人が介入する世界ではありません。子どもだけの力で遊びの世界をつくりだしています。そこで、子どもなりにいろいろと工夫することで、いろいろと大切な発見をくりかえしています。
勁(つよ)いという言葉があります。草の強さをあらわしています.心理学では「レジリエンス」と言います。大人になると何もかも順調にいくとは限りません、失敗、理不尽な目にあったり、不本意な体験などがあるでしょう。そこで落ち込んで折れてしまうのではなく、自分なりに分析して
のりこえていけばいいですね。立ち直る感じをつかんでいると、「なんとかなるさ」と言う希望にもつながります。つらい時に海に行って、癒されたり、いい感じになったり、がんばる気になれるのは、幼い時につかんだいい感じをひきだしているのだと思います。



エフェソの信徒への手紙2:14-22

2016-06-24 10:21:08 | 説教
「実にキリストはわたしたちの平和であります」
                     エフェソの信徒への手紙2:14節


 私たちの社会の平和を実現するためには、人類は「和解」と「一致」に向かって歩み出さなければなりません。互いに理解を深め、誤解を解き、共に助け合い、支え合いながら、お互いの幸せのために力を尽くすことこそが、私たちの務めです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」
たとえば、当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁がありました。そして、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえをささげる中庭に入ることは許されませんでした。もしこの石垣を超えて中に侵入しようとする異邦人があれば、死刑に処せられます。その壁にユダヤ人と異邦人の関係が象徴されます。ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人を蔑視していました。
しかし、キリストにあってこの隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人という二つの敵対する陣営が、一つの共同体として神様を礼拝すし、かつての2つの敵対する陣営が、一つの教会をなすことが起こっていきました。
この共同体が世に印象深く刻まれていきました。
 ルカによる福音書10章には、「善いサマリア人」の話と「マルタとマリア」の話が書かれています。
サマリヤ人は、自分達に敵意をもっているユダヤ人を瀕死の状態から助け出しました。
そのような愛は、マリアのように主と交わり、主のみ言葉を聞くことによって与えられていきます。
 私たちの「平和」の原点は、神の平和であるイエス・キリストの御言葉を聞くこと、そしてイエス・キリストが十字架によって示して下さった愛をもって、隣人を愛することです。私たちが平和を実現してゆく力は、イエス・キリストに対する信仰によって与えられます。
そのことによって敵意という壁は除かれていきます。
 主は敵を問題とされません。敵は他者ですが、敵意はまさに、自分自身にあります。主の十字架の愛とみ言葉が私たちの敵意という壁を滅ぼすのです。
 敵ばかり考えて、敵意を忘れていないでしょうか。それは、相手に対して否定的に働く力、自己しか認めぬ力です。
 主は敵を滅ぼしたのではなく、敵意を十字架の愛によって滅ぼしました。
 音は人と一つに結びつける力を持っています。人はつながりによって成長していきます。
又呼吸を使わない楽器もお互いの息を意識して一つのアンサンブルになれます。
 私たちの教会は主の十字架の愛によって一つにされていきます。
 初代教会の成長の原動力は、まさに民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。それは今もここで起こっています。
ウォーガンと言う人は、「神がいますところに、すべての者は一致する」と言います。
俳優の渡辺謙さんは、「ポケットに忍ばせた拳や石ころよりも最大の抑止力は、友人であることだと思う。そのために僕は友人を増やしたい」と言われています。世界中が友情で包まれることを願っています。

ペトロの手紙一 1:23-25「この花のように」

2016-06-24 10:16:12 | 説教
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
                              ペトロの手紙一1:23


 わたしたちは、いのちのある綺麗なお花の葉っぱ一枚だって、何もないところから作ることができないんじゃないでしょうか。
 人間はお花よりもすぐれていますから、みんなもお花以上にきれいに輝くことが出来ます。
 大賀ハスとは、今から65年前、1951年、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場で、ハス博士といわれた大賀一郎先生が、縄文時代に咲いていた古代ハスの種3粒を発見し、そのうちの一粒の開花に成功したものです。
2000年前の種が発芽し、花を咲かせるだけでなく、日本や世界各地へ根分けされ、大きな感動に包まれています。
 聖書の言葉は大昔の言葉ですが、今も腐ることも、朽ちることもなく、人々の心に働きかけています。
 聖書の言葉は種に譬えられています。聞いた人々の心に花を咲かせるということです。
 「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです
  
 神様の言葉はみんなに素敵な花をさかせます。
 それは、大昔も今も、そして、未来にも通用する変わらない真実だから。
聖書の言葉はもう古くなったから役に立たないと言われることはありません。いつでも、新しく、新鮮で生きて働いています
野の花のように、みんなの心に素敵な花を咲かせます
みんなの咲かせた花が、傷ついている人、病気の人、悩んでいる人、寂しい人を慰め、励まし力づけていくことでしょう。 
 朽ちない種で咲いたお花は、永遠にキリストの香を放つでしょう。




「真理の霊」テモテへの手紙一6:11-16

2016-06-11 15:50:46 | 説教
信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
              テモテへの手紙一 6:12

パウロは信仰の戦いにテモテを送り出すに当たり、素晴らしい励ましの言葉を与えました。
パウロが、弟子テモテに、「神の人よ」と呼びかけています。「神の人」とは偉大な称号です。それは旧約聖書の中に記された偉大な称号の一つです。
先ず、それは預言者モーセに与えられました。《申命記33:1》「神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した」。また、預言者サムエルも神の人と呼ばれました(サムエル上9:6)。
神の人とは神ご自身に代わって神の言を宣言するために召された人を意味するのです。
 神の人は、消極的な側面として、誘惑などから、遠ざかり、避ける必要があります。わざわざ危険に近付く必要はありません。遠ざかり、避けます。
次にお金を追い求める生き方を避けることです。この世には様々な誘惑があります。しかも、人間はその誘惑には弱いものです。9節10節を見ると、「金持ち」「金銭を愛する」という言葉が出てきます。エペソは豊かな町でした。繁栄を誇っていました。私たちにとってお金は、誘惑に陥りやすいものです。
グレゴリウス一世は,富に対する強欲を、痛みのない隠れた病気と言います。
うみは痛みなしに体内に侵入し、自覚しないままに拡がり、器官の正常な状態を損ないます。
内村鑑三先生はこう言われます。「『生存競争』なるものは神の命じたまいし生存の道にあらざるなり」と。
神に求めるならば、必要な衣服と食事は必ず与えられるので、金銭と名誉を慕い求めるのはやめろとすすめておられます。
そして、こういうことをおっしゃっておられます。お金は必要でありますが、お金は最高の幸福の基にありません。お金は詩歌を生まず、友情を造らず、また保存せず。
必要物を満たすにあればよいものです。
お金をたくさん得るために戦うことより、神の国と神の義を求めることが大切です。
「神の人たれや、罪の人よ、金銭と名誉とを慕うのはやめて、正義と神と愛と忍耐と柔和とを慕い求める者になりなさい。さらば、なくてならぬだけの食物と衣服と家屋と金銭とはなんじに与えられて、なんじは義と神とを愛しながら来世のみならず現世を楽しむ」と
求めるべきものとは?正しさ敬虔・信仰・愛・忍耐、それらを熱心に求めなさいと言っています。それらのものは、自分で得られるでしょうか。それは不可能です。どのようにして得られるのでしょうか。ガラテヤ5:22,23を見るなら、「御霊の実」であるとパウロは語っています。それは、それは真理の聖霊によって私たちに豊かに与えられる実であるのです。